132話 「黒い衝動」(中)
自分の放った銀の矢が、禍々しい黒の光に遮られたのを、ヨハネは半ば呆然として見ていた。
しかしその呆然もつかの間で、すぐさま理性を呼び戻し、身体に臨戦態勢を敷く。しゃがんで地に触れ、わずかながらの地力燃料を補給する。
――なんだ、あの黒い光は。
おそらく術式によるものだろう。生体機能系の、固有術式だろうか。だがあんなに禍々しい光を吐く生物なんてものを見たことがない。竜砲でもあんな恐ろしげではあるまい。
黒の術式燃料。そんなものも聞いたことがない。
ならばなんだ。そしてあの威力はどういうことだ。神格術式をすら壊してしまいそうな圧力ではないか。
ヨハネは地力を可能な限り素早く補充しながら、思考を回した。
しばらくして、空を見上げると、
「――竜族か……」
来てしまったか、とそのあとに言葉をもらす。
どうやら時間稼ぎの効力が、ここにきて切れてしまったらしい。
「意外と『黄金樹林』も『獅子の威風』も役に立たないな」
所詮はその場限りの同盟か。命を賭すほどのものでもない。
ただ、提示された条件が割合に良かったから付き合っただけだ。この程度の束縛にしては、ずいぶん気前のいい対価だ、と。
――天使がいなければ、私もすぐに身を引いただろうに。
因縁というものがある。
決して殺したいほど憎むというわけではない。それでも、この闘争に自分をのめりこませるだけの理由にはなりえる。
「まだいけるか……?」
竜族はたどりついてしまった。あと気になるのはさきほどの黒い光を放ったと思われるもう一人だが――
「……」
エルサから事前に得ていた情報には、魔人族の名が含まれていた。竜族とならぶ異族系の頂点種だ。暴力の化身の名。
多少、手を合わせてみたいという気もある。地使とて、異族の中では強種に分類される種だ。その自負が、自分の中にあって、魔人や竜との力試しへの意気を強めている。
「――いや」
――ここで命を削る意味もないか。
民をおいて、先に死を得るわけにもいかない。
ヨハネは結局撤退への意志を固めた。
だが、
魔人にとってはその十数秒の迷いだけで十分だった。
距離を詰めるには、十分な時間だった。
ヨハネの迷いが、否応なくその身を死線へといざなう。
◆◆◆
ナイアスの街中での騒動は、わりと日常的である。ギルド間の過激な抗争もあれば、一方で祭りごとのように活気だつような、そんなやり合いもある。ギルド間の出来事以外でも、住人同士のやり合いや、行商同士の場所の取り合いなど、さがせばいざこざはよく見れる。
そんな彼らナイアスの住民は、比較的そういう荒事には慣れっこだ。耳早く、また目早く危険を察知すれば彼らは逃げる。逆にその場にいてもそこまで危険でなさそうなら、荒事が好きな輩はその場に留まってはしゃぎまわったりもする。
だからヨハネとプルミエールの天と地での攻撃の撃ちあいのなかでも、そのあたりを大きく迂回したりして、不用意に近づきはもちろんしなかったが、しかし必要以上に騒ぎ立ててもいなかった。それはヨハネがその場から動き回らなかったがゆえに、プルミエールの天からの矢がバラけなかったことが要因として大きい。
しかし、その迎撃戦のあとに起こった衝撃には、彼らは即時で反応した。
ナイアスの住民は、それを見て即座に逃げた。
立ち並ぶ家々の間を、黒い物体でときおり削り取りながら突き進む塊があった。黒い、塊だ。家々の間を、高速でそれが走っていた。黒い物体は、羽ばたく大翼のようだった。
黒い翼を大きく背に展開し、猛然とした速度で家々を真っ直ぐに突っ切っていくその存在を見て、彼らは逃げた。一目散に逃げた。巻き添えを喰らうと、確信した。
魔人の姿は、彼らの危機察知機関に、おびただしい音量で警笛を鳴らさせた。
◆◆◆
ヨハネは自分の右方から「ばきばき」と木材を砕け散らせるような音が響いてきたのに気づき、視線を向けた。右方にはボロ臭い小屋が一つ。両脇を白石づくりの建物に囲まれて、縮こまっているようにたたずむ小屋だ。それが――
向こう側からぶち抜けてきた黒い塊によって削られ、貫かれていた。めりめりと小屋の骨組みが軋む音が聞こえて、最後に粉煙をあげて倒れる。
だが、黒い物体はまるで足を止めずに、こちらに近づいてきていた。
「うぁ……」
突然の強襲に、思わず息が引っ込んで止まる。驚嘆と恐怖。
ヨハネにはその黒い物体が恐ろしげな死神のように見えた。片手に持っている七色の輝石は、不可思議な黒い術式光を纏っていて、いっそ死神の鎌のようにさえ見えた。
――やばい。
普段なかなか口に出さないような言葉で、内心に焦りを浮かべる。
――まずい。
だが、
「くそ……っ!」
間に合わなかった。
黒い物体はこちらの懐にすさまじい速度で潜り込んできた。察知から認識へ、そして行動を起こす前に、それは猛然とした勢いで潜り込んできていた。速さの桁が違いすぎる。
ヨハネは即時の判断で、片手を突きだして術式の起動言語を唱えた。
「弾けろ! 銀花火!」
突き出した手のひらの中に、銀の花が一瞬にして咲く。それがぱちん、と弾けるような軽い音をたてて、黒い人型の顔のあたりで銀の火炎を咲かせた。
小さな爆発だ。だが小さくとも、熱量もあれば、衝撃もある。即時の迎撃にしては、自分なりには及第点の迎撃だ。なのに、
「――っ」
黒い人型は動じなかった。黒い人型は片手を振り払って、ヨハネの腕を外側へ弾き飛ばしていた。それは顔をもたげ、懐からヨハネの顔を見上げた。
――恐ろしい目だ。
赤い、赤い、恐ろしい瞳の色だ。
赤の瞳の中に、金の縁取りで術式紋様が描かれている。――間違いない。
「貴様が魔人か――!!」
叫ぶと同時、自分の顔を片手でわしづかみにされて、魔人が突っ込んできた勢いのままに、一気に後方へ運ばれた。顔をもって、身体ごと空中を引きずられた。首の骨が軋み、顎が勢いに耐えきれずに外れそうになる。
「――ぐああ……!!」
途中で壁に叩き付けられて、そのまま自分の頭で壁を削るように、ごりごりと硬い石壁に撫でつけられた。頭蓋の表面が悲鳴をあげている。頭をわしづかみにしている魔人の手にも強い力が入っていく。柔らかな果物か何かのように、そのままグシャリと潰されてしまいそうな握力だ。
――殺される。
ヨハネは自分の命運を感じ取っていた。