130話 「天使と地使」(後)
「――お前、なにも知らないな?」
ヨハネが笑ったのが見えて、プルミエールは思わず高度を下げていた。
翼をはためかせながら、ヨハネに近づく。
「あんた、何を知ってるの」
「ははは。そうか、お前はまだなにも知らないのだな。そうやって目新しいものにばかり視線を向けているから、大事なことを見落とすのだ!」
ヨハネは大笑いしながら続けた。その目はプルミエールを嘲笑しているようだった。
「前ばかりを見るから、お前ら天使は足元と後ろに落ちている大切な事実を見つけられないのだ!」
「黙りなさい!」
「お前、民をすべて失って、それでも原因を見つけようとしなかったのか!? 滑稽な天使だな!! なんだ? 傷心でもしたのか? ――意外と打たれ弱いのだな!」
言われ、プルミエールは自分の頭の中で何かが切れた音を聞いた。それが自分の中にあるこらえ性のない堪忍袋の緒が、派手にぶちぎれた音だと、プルミエールは知っていた。
「――『星天大弓』」
プルミエールは一気に天空へ昇り、可能な限りの天力を周囲の空間から補充して、術式弓を召喚した。
空へ登り過ぎると『シルフィード』に接触してしまうから、ある程度の位置までで留めて、天力を補充しながら矢を生成する。
眼下を見つめなおし、こちらと同じように『銀色の弓』を構えているヨハネを見つけ、その小さな脳天に照準を定めた。
遠いが、
――絶対に当てる。
意地でも当ててやる。
プルミエールは内心に思いながら、弓の弦を引き絞った。
きりきりと軋む音が耳元で鳴り、そして、
「――死になさい!」
強声と共に放った。
◆◆◆
向こう側からは『銀の矢』が飛んできていた。
金の矢と銀の矢が走って、走って、お互いにかすり、通過し、
「――」
頬の数センチ横を、銀の矢がすさまじい勢いで吹き抜けていった。
風に舞っていた髪が撃ち抜かれて、ぱらぱらと宙を舞っている。
眼下を眺めると、向こうも似たような状態だった。
向こうは肩口の服が破れていて、さらに、露わになった肩から血が流れている。
かすり、傷を作ったらしいが、
――落ち着きなさい、プルミエール。
あの男は危険だ。
あの男はおそらく――自分が思っているより『強い』。
わざと力を隠していたのかどうかは知らないが、今の射撃戦は向こうの勝ちだ。
こちらの矢はヨハネに傷をつけたが、ヨハネの矢はあとわずかで自分の致命傷になっていた。
「――ふう」
息を吐く。目はあけたままで、視線はヨハネから離さない。離せば隙を突かれる。
――興奮しすぎたわね。
きっと、疲れているのだ。
もっと空に昇りたいが、あの戦景旅団との合戦時のようにはいかない。あれはディオーネが相当に空を墜としてくれたからこそできた芸当だ。ここではシルフィードが邪魔なのだ。
「今必要なことは――」
エルサ第三王女への道をつけること。
「あいつの話は――今は後回し」
違えるな。
「私は高貴だけど、それでも『二つ』同時には追えないわ」
人生最大の失敗が、そこにある。
二つを追って、どちらをも失ったことが、自分にはある。
もうあの失敗は犯さない。
「見てて、父様、母様――私、次はもっとうまくやるから」
プルミエールは二発目の矢を弓に装填した。
◆◆◆
サレは事の一部始終をその赤い瞳で捉えていた。
プルミエールの顔のわずか横を銀の矢がかすめていった。
自分が二発ほど止めた銀の矢と形状は似ているが、速度があちらのほうがだいぶ速い。
――本気ってことか。
マコトに向かって矢を放ってきたのは、所詮は撒き餌だったのだろうか。
レオーネの率いる獅子の威風にからせるために、わざとそうしたのだろうか。
いずれにせよ、やはり慎重なやつだ。
手の込んだやり方だ。
心理の隙を作って、その隙をつくように、今本気の一撃を放った。
プルミエールの様子を見るかぎり、おそらくプルミエール自身も反応できていなかったのだろう。
――っ。
サレは思って、それがどれほど危ういことか、自覚した。
――死んだぞ。
あれがもしプルミエールに直撃する軌道をとっていたなら、プルミエールは死んだかもしれない。
その思いのあとにふと視界に映したプルミエールの姿に――サレは『危うさ』を見ていた。
やっぱりプルミは――
全快していない。
――……っ!
「やめろ――もういい! 退け! プルミエール!」
サレは叫んでいた。
◆◆◆
二発目。
「――っ!」
右に五十センチほど離れた位置を、銀の矢が過ぎていった。
こちらの放った矢はヨハネの身体三つ分左に着弾している。
完全に足を止めての撃ち合いだ。
もはや移動しながら的を狙えるような位置関係にプルミエールとヨハネはいなかった。
狙って、狙って、よく狙って、やっとの『かすり』だ。
遠く、お互いに姿を晒しての撃ち合い。
プルミエールには隠れる場所のひとつすらなかった。天空には遮蔽物がない。対するヨハネは隠れようと思えば周辺の家々の影に隠れることもできたが、一向に隠れようとはしなかった。
◆◆◆
「天使が姿を晒しているというのに、地使の私がこそこそと隠れてなるものか――」
地使と天使の矜持が、真っ向からぶつかっていた。
よくもわるくも、地使は頑固者で。
一方で、天使と同じように――プライドが高かった。それにたやすく命を懸けるほどに。
◆◆◆
「――その自分の愚挙に泣くといいわ……!」
プルミエールは容赦なく三発目を撃った。視界の端から放たれた金色が、澄んだ空気をまとって、するりと飛んでいく。
――あの地使、ホント、馬鹿みたい。
自分なら間違いなく建物に隠れるなり、群衆に紛れるなりする。
なぜならここで死ぬわけにはいかないから。
――当たれ。
金色の矢は風を切って空を駆けおりていく。
銀色の矢は空を削って、天に駆けのぼってくる。
「――んっ!」
プルミエールは自分の腹の横に鋭い痛みが走ったのを感じた。ちくりときて、じわりと熱さが生まれた。
銀の矢が過ぎていったのだ。
とっさに片手で横腹をおさえると、
「――フフ、結構、出てるわね?」
赤い血がべっとりと付着していた。
内臓には達していないだろうと思うが、肉は削られた。
一転して、眼下を見る。遠く、白石の地面にたつヨハネ。ヨハネを狙って飛ばした自分の金色の矢は、二発目の着弾点よりもさらにヨハネから離れた場所に落ちていた。精度が、より悪くなっている。
――私も馬鹿みたいじゃない。
プルミエールは久方ぶりの自虐を得ていた。軽い内心の声は、しかし、自らを批判する。
そもそも、なんで撃ち合ってしまっているのだ。
なんで、
――前に出てきてしまったの。
と。
プルミエールは矢をおさえていた右手をにぎって、ひらいて、またにぎった。
動きは鈍い。意志の指令に、身体の反応が遅れている気がする。
疲れが、取れていない。
ギリウスやサレと違って、自分の身体はああまで規格外ではない。それはちゃんと自覚していたはずだ。
なのに、
なぜ、
――自分を偽ってしまったの。
これは誰にも聞かせられない言葉。
――自分は愚かだ。
天使は自分を愚かだと、自分にだけ言って聞かせた。
◆◆◆
守るものを自覚して、また私は元に戻ってしまった。
なんでもを守れると、そう信じて疑わなかった、あの時の私に。
◆◆◆
『思い』だけが先行して、身体が追い付いてないことを、意図的に無視してしまった。
愚民を背負おうとしたことに間違いはないと今でも思うが、背負い方を間違えてしまった。
――すべてを背負えるほど、まだ私の背は大きくないのに……っ!
「ああ…………!!」
――だめだ。
矢が、術式の矢が、造れない。
これでは眼下の地使に、威圧を与えられない。
撃つか、撃たれるか、その緊張のおかげで、お互いがマトをうまく射抜けない、そんな撃ちあいだった。
でもここにきて、その均衡が崩れてしまった。
地使がこれに気付けば、地使は悠々と構え、よく狙って、緊張なく、銀の光を放つだろう。
プルミエールは予感した。
◆◆◆
次の銀の矢は――きっと私を射抜いていく。
◆◆◆