111話 「狩猟者への一歩」【前編】
「どっちにしようか…………黒か、白か、あえて紫……うーん」
湖都ナイアス、商業区の大きな煉瓦造りの建物の中に、唸り声をあげる一人の女がいた。
その女は右手に黒い下着、左手に白い下着、そして顎と胸で紫の下着を挟み込み、視線をちらちらとそれぞれに移している。
へそが見えるか見えないかくらいの丈のシャツを着ていて、その腰の裏側からは銀色の毛並の良い尻尾が生えていた。
視線が動くたびにその尻尾も同じ方向に力強く跳ねている。
すると、その女の隣にまた一人女がやってきて、
「お客様、とても素晴らしいスタイルをしていらっしゃるので、どの色もお似合いになると思いますよ」
そう言って語りかけていた。どうやらそこは下着店のようで、あとから来た女はその店の店員らしかった。
「そ、そうかな……」
「ええ! 黒でセクシーに、白で可愛らしく、紫で香るような艶やかさを! どんな殿方でも一発で落とせますよ!」
「えっ、いやっ、その……べ、べつに男の人に見せるとかじゃなくて……その……」
「またまた、ご謙遜なさって。あなたのような美貌をお持ちの女性を、普通の殿方が放っておくわけがございません。今はそういう風にお使いにならなくとも、いずれこの下着が有用になることがあるかもしれませんよ? いいえ、必ずや使う時が来ます」
「そ、そっかなあ……!」
店員に話しかけられた女は当初慌てたように下着を棚に置き直していたが、しばらく店員の話を聞いているうちに乗せられて、再び三つの下着を手に取り始めた。
その銀の尻尾がせわしなく動き始め、その動きを抜かりなく観察していた店員がとどめとばかりに女に耳打ちをする。
「ええ、ええ、間違いございません。さらにこの際三つとも手元においておけば、一つの色に殿方が飽きた時にもすぐに新しい趣向――いえ新鮮さを御提供できます。間違いなく喜ばれますよ。末永くうまくいくこと間違いなしです」
「す、末長く…………サレと末永く……」
まるで催眠術にでも掛かったかのように、店員に耳打ちされた女が目尻を緩めて何かをつぶやきはじめた。
そうしているうちに再び店員が間髪入れずに言葉をかける。
「どうです? せっかくですから三つともご購入なさいますか? その『サレさん』ともうまくいくこと間違いなしですよ……!」
「……っ! ――買う! 買います!」
「はい、ありがとうございます! お会計は――」
最後の店員の言葉でハッと覚醒したように口をあけた女は、意気揚々と宣言していた。
その日の正午過ぎ、煉瓦造りの下着店から大きめの袋を携えたシオニーが出てくるのを、ギルド員の何人かが目撃した。
また彼らの証言は「間抜け面だった」「カモの顔してた」の二つに偏っていたという。
◆◆◆
シオニーがカモの顔をして下着店から出てきたころ、ナイアスの別の場所でアリスとマリアとイリアが列になって歩いていた。
アリスには「考え事をする時は歩いていた方が閃きやすいですから」という習慣のもと、近頃ようやく慣れてきた湖都の中をなんともなく散歩することがあった。
「私としてはあんまり無防備に外に出てほしくはないけど、まったく爛漫亭に閉じ込めておくのもおかしいものね」
そういいながらその日アリスの護衛役になっていたマリアが、イリアと手をつなぎながらアリスの隣を歩いている。
道の両脇にはいつもどおりの大荷物を広げた露店が立ち並び、食べ物から武器から生き物まで、手広く売り物にしていた。
人の波もあいかわらず激しい勢いをたたえていて、その中を歩いているとよりいっそう人が多く感じられた。
イリアは目を好奇の色に彩り、輝かせ、通りすがるナイアスの住人から露店に並ぶ商品にまで、ひっきりなしに視線をすべらせていた。
「おお……なんか超おっきい鳥さんいるね」
イリアが指差した先には、ギリウスの体躯を超える大きさの鳥が、その体躯に見合った巨大な檻の中に入れられてさえずっていた。
イリアの声に反応したマリアがその鳥を見て、すぐさま説明を入れる。
「――発火鳥ね。怒ると羽から火を噴くのよ?」
「サレみたいだね!」
「えっ? ……ま、まあ確かに似たようなものかもしれないわね……」
イリアのとっさの一言にマリアは少したじろぎながらも、あながち間違いでもないかもしれないと胸中に浮かべた。
――背中から黒炎の翼が生えている時は、似ているかもしれないわね……いやでも鳥と一緒にするのはそれはそれでなんだか副長に悪い気が……
「すごく大きいけど、背中に乗って飛べたりするの?」
マリアの思考をイリアの続く声が切り裂く。
「もちろん、あれだけ大きければ人を乗せても飛べるでしょうけど、普通の人は乗らないわよ?」
「なんで?」
「だって、背に乗っている時に発火鳥の機嫌をそこねたら『火だるま』だもの。――でも翼から火をふく姿が伝説上の不死鳥みたいで、そういうのが好きな収集家が買ったりするらしいけれど」
「ふーん。じゃあギリウスのが便利だね!」
「えっ? ……そ、それも否定はしないけど……」
――今、完全に空戦班長のことを便利な道具として考えてたわよね……
マリアは片眉をピクつかせ、一瞬注意すべきかどうか悩んだが、
――そうすると自分の行いに矛盾が…………ええ、やめておきましょうね。
マリアは己の理論武装が剥がれることを危惧して、大人げなくイリアの言をスルーすることにした。
「むしろ大人だからこその汚さのような気もしますよ、マリアさん」
「んっ!」
ところが、そんなマリアの内心の機微を恐ろしいまでに正確に察知していたアリスが不意に声を投げかけてきていて、マリアは思わず普段あげないような驚きの声をあげてしまっていた。
「おや……ほう、ほほう」
「な、なに一人納得してるのよ、アリス?」
「マリアさんがそうやって可愛らしく驚く声をあげるのは珍しいと思いまして。ちなみに今の声は私の頭の中にしっかり記憶保存しておきました」
「ピンポイントで記憶を消す術式を開発する必要があるわね」
「ハ、ハ、ハ、良いではないですか。可愛らしいマリアさんもアリだと思いますよ、私は」
「マリア超かわいい!!」
「ちょ、ちょっと――」
イリアの合いの手が入って、思わずマリアは顔を赤らめた。
恥ずかしそうに顔を俯け、耳まで赤くしながら手を大仰に振る。
マリアは、直接飾り気なしに「かわいい」と言われるのが意外と恥ずかしいものなのだと当事者になってはじめて気付いて、
――シオニーはいつもこんな思いを……
シオニーを思い出して少し同情した。
一方で、
――う、嬉しいけど……
もう何年も言われたことのない言葉だ。女であるという自覚がある以上、言われて嬉しい言葉には違いない。
『かわいい!! 超かわいい!! マリアかわいい!!』
『キャー、かわいいのであるよー! ――サ、サレよ!! やっぱりこの声だと無理があるように思えるのである……!!』
直後、アリスのものでもイリアのものでもない声がマリアの耳を穿って、その顔を一瞬で真顔に戻させた。
――いつの間についてきてたの。これは真面目にやる必要が……ええ、殺る必要が生まれたわね。
馬鹿と馬鹿の声だ。
違う、副長と空戦班長の声だ。
察知から理解へ、すでにマリアの顔から恥ずかしさによる赤みは消えていて、逆に血の気が引いたかのような白さが露わになっていた。
曇り一つない白い肌が、氷の如ぎ美しさを湛えている。
マリアの脳内は一瞬のうちに黒い感情に満たされた。
なんだか、言葉だけはさっきのアリスとイリアのものと同じなのだが、あの二人にあの声の調子で言われると、やたらと腹が立つ気がする。
言い方だろうか、それともそのわざとらしい顔を思い出すからであろうか。
ともあれ、
「どうやって殺りましょうかねえ。水、うーん、ちょっと派手さにかけるわね。パーンって、弾ける感じがいいわよね。そうね、派手に弾ける感じにしましょう。内部から爆発とか、そういうのがいいわね」
そんな言葉を舌に乗せると、さきほどの二つの声が、
『やっべえ! 緊急回避っ、緊急回避っ!! すぐさま空に逃げたまえギリウス号!!』
『もうやってるのである……!!』
そんなやりとりを交わしていた。
そこでようやくマリアは意を決し、自分の上方へと目を向けた。
空だ。
声は空から降ってきていた。
視線を空に向けると、そこにはまばらに飛ぶ有翼系の異族と、グリフォンや巨鳥を使って空路経由で商品を持ち運んでいる行商たちと、ぽつりぽつりと浮いている浮島が見えて、そして――黒い鱗の竜人族の背に掴まってジタバタと騒がしげに空を泳いでいるサレの姿があった。
もちろんサレを背負っているのはギリウスだ。
「ちょっ、我輩今竜体じゃないから人ひとり乗せるのも結構きついのである! ――あっ! そこ翼の付け根であるよっ、そこ掴まれるとうまく飛べないのである!」
「なんとかしろよ! あの目はマジで殺る目だって!!」
――なかなかに無様ね。
先日の戦神アテナとの戦闘では、即興でなかなか息の合ったコンビネーションを見せていたというのに、どちらも戦闘から一歩離れるとどうしようもなくダメになる。
「はあ……」
――なんだか毒気が抜かれた気が。
二人の無様なあたふたっぷりを見て、マリアは意気を折られた気がした。口から漏れるのは無意識のため息だ。
ふと周りを見てみれば、行商人やナイアスの住人たちも空を見上げ、無様に宙をのたうつ二人を見ている。
「あの二人は〈凱旋する愚者〉の品位的汚点ですね」
「汚点ー汚点ー、超汚点ー」
イリアがアリスの言葉に追従して、リズムを取りながら連呼した。
当のアリスは視覚がないゆえに二人の方を見上げはしなかったが、周りの声や音から状況は察しているようだった。
◆◆◆
――汚点はほうっておきましょう。
いつものことだ、とアリスは内心で思いながら、どんどんと前へ歩を進めていった。
周りの人の波が止まっていることには音の変化で気付いていたし、そうなると今は歩きやすい。
そうして、するりするりとナイアスの路地を歩きながら、アリスは再び考え事にふけった。
――エスター王子か。それともサフィリス、エルサ両王女か。
次にどのテフラ王族と接触することになるかについてだ。
――まったく動きの見えないニーナ第四王女はおいておきましょうか。
自分たちの連帯王族であるジュリアス・ジャスティア・テフラに特段興味を持っているのが、エスター王子とサフィリス王女だ。
そしてさらに言えば、エルサ王女とも連帯ギルドを通して一度近接している。ニーナ王女に関してはまだ接触すらないから、とりあえず可能性の比重的に外側においておこう。
「……」
先日の闘争からまだ数日。
サレ、ギリウス、プルミエール、トウカ、マリア、各班長を含む主要な戦闘員は、恐ろしくも頼もしいことにあまり疲れを見せていない。
――……いや、隠しているのでしょうね。
直感的だが、経験に裏づいた直感でもあった。
思い直す。
外傷はともかくとして、内的な疲れはまだ残っているだろうとの予想がアリスの脳裏に浮かんだ。
――サレさんとギリウスさんに関しては本当に治っているのかもしれませんが。
上でぎゃあぎゃあと騒いでいるのを見る限り、そこだけはあながち間違いではないのかもしれない。
――あの二人はおいておきましょう。
かといって二人に頼り切るのは良くない。
〈戦景旅団〉との闘争を思い出せば、その戒めは即座に心に浮かんでくる。
黒竜は自らの身を盾にして穴だらけになり、魔人は胴体から真っ二つになりかけるほどその身を酷使した。
その眼からは死の警告たる〈血の涙〉まで流して。
圧倒的に不利であったことは否めないが、だからといってそれをまったく是認してしまうわけにはいかない。
――もっと安全に。もっとたやすく。
他はどうだっていい。
だけど、〈凱旋する愚者〉の仲間たちだけは、なんとしても傷や死から遠ざけなければ。
「――ふむ」
そのための方策を考えよう。
「ねえねえ、アリス?」
「はい? なんでしょうか、イリアさん」
思考を回していると、突然イリアがアリスの手を掴んで、その隣を歩きながら訊ねていた。
アリスもイリアの手を握って「あ、これ良い感触ですね」と言いながら軽く揉み、イリアの次の言葉を待った。
「私、最近思ったんだけど――なんだか私たちの家ってよく壊れるよね」
「ええ、身内の誰かが壊すのと、周りの者が壊すのが半々ですがね。――いやはや、よく考えてみると恐ろしいですねこれ」
言われて初めて気付く。
直接恨みを買っているわけでもないのに、やたらと外から攻撃を受けるこの異常さに。
通りすがりに火をつけられるのとたいして変わらない恐ろしさだ。
そもそも拠点が攻撃されるというのがおかしい。
こうやって活気立っている明るい街並みを見ていると、余計にその落差に考えが至って、いまさらながら恐ろしく感ぜられてくる。
「そうそう。昨日はプルミがドーンってやっちゃったしね」
加えて言うなら、また身内の人間がよく家財を壊すのもマトモじゃない。
――プルミエールさんに関しては自信をもってマトモじゃないといえるのがまたおかしいですね。
あの天使は代表格だ。世間一般にいる奇人と狂人にさえも申し訳ない気分になってくるほどに、あれはマトモではない。
「それでね、思ったんだけど――もう壊される前に壊しちゃえば?」
「……んっ、んん!」
直後、イリアの言葉を聞いたアリスが珍しくむせていた。
――いやはや、つい喉が詰まってしまいました。――誰ですか、こんな幼気な少女にたいそう恐ろしい思考法を植え付けたのは。
まったくもって罪深い。
「……」
しかし、その言葉には妙に納得させられる響きがあった。
「いっつも家がドーンってなってからみんなワーって行くでしょ?」
それでねそれでね、と続けるイリアは、あらん限りの語彙――主に擬音語と擬態語――を使って説明を続けた。
「でもそれだとお金もなくなっちゃうし、あぶないし、なによりびっくりするし。だったらドーンってなる前にプチッってすればいいんじゃないの?」
「ほほう、何を『プチッ』っとするか気になりますね」
だが、言われてみると「確かに」とうなずきそうになる。
そもそも、このテフラ王国に来てから受動的に動くことばかりだった。
それは周りの状況が掴めていなかったり、相応の準備が整っていなかった――肉体的にも精神的にも――のが原因だろう。
そのせいか、どうにも『やられてから動く』という行動順序が身体に染み込んでしまった気がする。
――確かに。
その言葉を再びアリスは内心に浮かべた。
――それはよくありませんね。
なぜなら、無条件で一発喰らうのが前提となっているからだ。
――確かに確かに。
だったら、もうこの際やられる前にやってしまったほうが安全なのではないだろうか。そんな考えが浮かんできた。
もちろんリスクはあるだろう。
特に、今は疲れが残っている者がいることを忘れてはいけない。
だが、無条件で一発喰らうのと、こちらから仕掛けるのと、果たしてどちらの方が総合的なリスクが高いだろうか。
アリスはふと立ち止まって、自分の脳裏に天秤を生み、考えてみた。
そして、
「イリアさん、言われてみればそのとおりですね。――いっそのことこちらから『狩って』しまいましょうか」
アリスは振り向いて、そんな言葉を口にした。