10話 「悪意の足音」
ほかの皆が議論を続ける最中、サレは彼らの議論の内容を取捨しつつ、同時に別の考えを巡らせていた。
集団の地盤とも呼べる意識と意志は固まった。
何かをなすという以前に、追われる身として、まずはアリスを守ろうという意志だ。
この意志こそが一団の心臓と言えるだろう。
そのために、今個人が抱く本音を、その偽物の意志によってねじ曲げなければならない。
しかし、
――そうはいっても、戦えない者や戦いたくない者を無理に前線に立たせるわけにはいかない。
あくまで意志と心構えの問題を問うた。
しかし現実に、今すぐそれを実行に移すなど不可能だろう。
一月の継続性がそれをなんとか可能にさせることができる、という証明として存在するものの、それでもたかが一月だ。
ともかくとして、一団の存在意義が、アリスの守護という面にあることを皆が理解することが重要なのだ。
現実問題はもっと合理的に、多少の情愛をはさんで、考えるしかない。
より厳密に事を進めるならば、情愛など必要とはしない。
しかし、アリスの守護という建前は情愛無しでは成立しえないのだ。
ならば、いかなる場面においても、護り、慈しむという情を無視してはならない。
――でも、それではどこかで確実にズレが生じてくる。手痛いしっぺ返しが、どこかで俺たちに返ってくる。
そんな予想をサレは立てた。
なぜなら、自分が考えていることはいわば、
「――理想論だな」
そう思ったからだった。
皆に悟られないようにサレは少しだけ眉をひそめて、頭の後ろを掻いた。
そう、理想論だ。
アルフレッドたちはより多くの戦を経験していた。だから、自分の訓練にあたっては情を捨てて真剣勝負に出ることもあった。おかげで大けがを何度かしたものだが、情が邪魔になることもあると、戦の一面として教えようとしていたのだろう。
――まあ、アルフレッド達は基本的には甘かったけど。
それでも、真剣勝負の時だけ、甘さを無理に消していた気もする。
直接聞いたことはないから、推論ではあれど。
情や絆といったものが、生きていくうえで濃厚なエッセンスをもたらしてくれることも理解しているつもりだ。
でなければ、自分は彼らに拾われることもなく、育てられることもなく、守られることもなかったのだから。
しかし、この集団の持つ力のすべてを引き出すには、情は時に邪魔となるかもしれない。
もちろん逆に、全力を引き出すための鍵になるかもしれないが、それはもっと先、集団が一団として確かな結合を得たあとにこそ起こる現象だ。
――今は無理だ。
だから、
「――力が必要だ」
集団が纏まるまで、不合理性ゆえに起こりうる危機を、避けるための力が。
「どうかされましたか?」
不意に横からアリスが近づいてきて相変わらずの無表情で言ってきた。
「いや、なんでもないよ」
「なんでもないのに『力が必要だ』などとちょっと凛とした表情でいうものなのですか」
――本当に、あなたは、目が見えてないんですよね? ――見えてませんよね?
「あ、なんとなく声色で判断して言ってみただけです。――なんと、図星だったようですね」
両手を上げて、わざとらしく一歩引いてみせるアリス。
驚愕のジェスチャーなのだろうか。いくらなんでもわざとらしい。そのわざとらしさを隠そうとしないのが、また厄介である。
「私は目が見えない分、聴覚が優れているので、小言でも拾ってしまいますよ。お気を付けください」
「うん、すごく気を付けることにする」
――拾われるとおちょくられるからな!
「ともあれ、この話題はこの辺にしておきまして――」
アリスは一通り演技掛かった身振り手振りで驚きを表現したあと、服の袖をはらってサレの横に座りこんだ。
「なんとなく、サレさんが考えていることはわかっているつもりです。しかし、なにも一人でお考えになる必要はないのではないでしょうか。――おそらく、サレさんと同じことを考えている方は他にも何名かおりますよ。たとえば、ギリウスさんやトウカさん。それと――たぶんプルミエールさんも」
前半二人に関しては「そうかもしれない」とそれとない自信をもって発言できるが、プルミエールは――どうなのだろうか。
出会って 二秒で人を愚民扱いする女だ。
唯我独尊具合がすさまじい。
傍若無人という言葉が服と白翼をつけて歩いていると形容しても、たいして差し支えないだろう。
「一月ほど共にいたことで、なんとなく彼女の行動原理は理解したつもりです」
「――して、その原理は?」
「自分以外は全部愚民主義です」
――どうやらその点は集団の共通認識ということで間違いないらしい。
「ゆえに――」
サレが内心で苦笑していると、アリスが続けた。
「彼女は愚民を愚かで、脆弱ゆえ、『自分が守るべきもの』と考えているようですよ」
――それは……
なんて傲慢で、なんて損で――なんて貴い考え方だろうか。
仮に彼女がその主義主張を本気で掲げているのならば、自信をもって言える。
――プルミエールは底なしの馬鹿である、と。
「まあ、なんでしょう、あの方はかなり馬鹿な部類の人ですので」
「あ、それ俺が心の中で言っておいた」
「そうですか。――根本からいろいろと逸脱した思想の持ち主なので、進んで理解しようとしない方がよろしいかと。ぼんやり、なんとなく、馬鹿な天使が一人いる。その程度に考えておきましょう」
「ハハ、そうだね」
サレはアリスの言葉に笑い声を返した。
アリスもそれにうなずきを返し、すぐに話題の転換を図る。
「さて、なんだかんだ言いまして、ずいぶんとこの場所に長く留まってしまいましたね。アテム王国の追手が気になるところですが……集団としての地盤が固まらないまま移動するのも、それはそれで空中分解を招いてしまいそうですので――仕方ありませんか」
「ふう」とため息気味に息を吐くアリス。
「地面がどこにあるか知らない鳥は、結局、一生を全力で飛び続けなければいけませんからね。そうなれば、いずれ力尽きて地べたへ滑落してしまいます。今のうちに自分たちの地面がどこにあるかを知って、羽ばたくのに疲れたときはその地面に下りて、ちゃんと一休みできるようにしたいものです」
「詩的な表現だねぇ」
言いながら、ひとつ、サレにはここにきて得心のいったことがあった。
アリスについてである。
彼女にはまるで感情がないようだと、そんな印象を最初は抱きそうだった。無表情だからだ。
しかし、それはおそらく間違いである。
――彼女は誰よりも皆のことが見えている。
露わにしない心の内を、曰く、「なんとなく」で理解している。
感情の無い者に感情の変遷を繰り返す常人の心の内は分からない。
だから、彼女は感情を持ち、また理解しているからこそ『見えている』のだろう。
しかしなぜ――
――彼女は自分の感情を表に出そうとしないのだろうか。
サレの疑問は、時を待たずして明らかになった。
寄り添うように集まったはぐれ渡鳥たちの前に、『大国』が押し寄せて来ていた。
◆◆◆
「あ……」
――と、アリスが短い声をあげ、そして次の瞬間には立ち上がっていた。
「どうしたの?」
サレが問うが、アリスはなおも瞳を閉じて微動だにせずにいた。
まるで感覚を研ぎ澄ますかのようにその身の動きを停めている。
皆もアリスの様子に気づき、極力音を立てないよう、同じように身を固くして言葉を待った。
「純人……これは――」
「まさか……であるか?」
ギリウスが立ち上がり、アリスに言葉をうながす。
「――どうやら、そのまさかのようです。相当数の足音と、〈アテム王国〉という単語を含む会話が、微かに聞こえます。――ああ……今確かに聞こえました……」
「純人に幸あれ、アテム王国に栄光あれ、という言葉が」そう、アリスは付け加えた。
皆が嫌な胸の高鳴りを覚えていた。
◆◆◆
「やはり…… もっと早くに、立ち去るべきでした。――私の愚挙です」
アリスが目を伏せて言う。
「みんながアリスに判断を委ねているんだ。アリスの愚挙じゃない。それに――まだ愚挙と決まったわけじゃない」
サレも皆と同様の胸の高鳴りを覚えていた。
だが、不安より先に『決意』が身を支配していた。
――ここでアリスの判断が愚挙であると、そう決めつけられてしまってはだめだ。
彼女を中心とすると決断した集団が、こんな出会い頭の一出来事で彼女への意志を緩めてしまうのは避けたい。
どうあっても、建前が本音に変容するまでは。
彼女の言葉と、彼女自身を守らねばならない。
そうでなければすぐにでも瓦解する。
そしてまた、
――誰一人、死なせてはならない。
一人でも死ねば、その〈現実〉が即座に彼らの胸に宿った〈建前〉を壊してしまう。
だから、
――すべて、守らなければ。
この決意が『自惚れ』と揶揄されようとも。
「アリス、一応聞くが、逃げられそうかの?」
「無理です、トウカさん。進軍速度が思った以上に速いようです」
「……ふむ、ならば一戦交えるしかないかのう」
トウカが言う。
次いで、ギリウスが、
「空はどうであるか? 有翼種族も何人かおるであろう。それに、我輩が完全な竜体に化身すれば数十人程度なら運ぶことができるが」
「あーら、愚竜? それであんた、十分に空を飛べるの? 無理して愚民をいっぱい乗せて、フラフラ飛んでるところに狙い打ち? マゾ? ――マゾなのねっ!?」
「こんな時まで自分を見失わないであるなぁ、プルミ」
「だって、自分を見失った女なんて、なんだか無様じゃない? 美麗で、かつ高貴で、愚民の上に立つべきこの天使族の私が、自分を見失ってふらふらしてるなんて――ありえないわ。たとえあっても愚民ごときに見せるものじゃないわ! そんな姿を私が見せれば、愚民は愚かだから、きっと私のような高貴な女になりたくて模倣をするわ! それで、同じようにフラフラして――でも勝手に死ぬわ!」
「ど、どういう原理であるか……」
ギリウスは頭の上に疑問符を浮かべながら、プルミエールの言葉を聞いていた。
「そうよ、死ぬわ。私は高貴だから大丈夫なのよ? 自分を見失っても、高貴ゆえに生きるもの!! 生まれながらに賢明!! ゆえにっ!! 生きるわっ!! ――でも愚民は死ぬわ。なぜって? それは愚かだからよ!! きっとフラフラしてるうちにそこらへんの木から飛び下りて気付いたら死んでるわ!! ――愚かだからよ!?」
「誰かハンマー持ってねえ? こいつの頭叩いて直そうぜ!」集団からそんな声があがった。
しかし、プルミエールは止まらない。
「それはだめよ。死ぬのはゆるさないわ。だって! 死んだ愚民は役に立たないもの!! フフフッ……!」
――とりあえず、死んではならないということだけは、なんとなくみんなに伝わったのだろうか。
サレは額を手で押さえながら苦笑した。
表現が歪曲しすぎていて、ちゃんと伝わっていることを望むのさえ、いささかおこがましく思う。
でも、まあ、彼女のいうところがその通りであるならば――
「――じゃあ、死なないために、少し頑張ってみよう」
サレが言った。
「もう十分に、皆は何かを失ってきただろう。なら――あとは得るだけだ。失ったものは戻らないが、かといって新しいものを得るなというわけじゃない。だから、せっかく得たこの繋がりを――」
守ってみせよう。
サレは言い、前を見据えた。