100話 「爛漫一間の休息」【後編】
次に爛漫亭に帰ってきたのはシオニーとクシナだった。
「ほら、やっぱりである」とギリウスが得意げにサレに言うもつかの間、爛漫亭の玄関をくぐってきた二人の獣人は、両者とも息を少し荒げながら、
「私のが早かった!! 一歩早かった!!」
「あ!? 俺のが半歩先だったろうが!! 適当なこと言うんじゃねえ!!」
二人とも獣人らしく尾をピンと立たせて、両手を威嚇するように顔の横で構えて、一触即発な空気を放ちながら立ちあっていた。
その様子を見ていたサレとギリウスは、ソファに埋もれて「またいつものか」とのほほんとうなずき合いながら、一応という体で二人に声を掛ける。
「今回は何が原因? ねえねえ、何が原因?」
「おいちょっとまて、なんか今の訊き方むかつくな、サターナ」
「サレ、私たちは遊びで言い争っているんじゃないんだぞ?」
「クシナはともかくシオニーはなんか残念な感じだよね。口いっぱいに肉を頬張りながら『べ、べつにおいしくなんかないんだからね!?』って言い訳してるのと似たような感じがしたよ、今」
「わかるようでわからない例えであるな、サレ」
ギリウスに横からツッコまれ、サレは少し思案してから訂正した。
「なんていうの? こう、ペット同士の喧嘩なんて飼い主からしたらじゃれあってるようにしか見えないじゃん? いっそ可愛くすら見えるじゃん? そんな中で『こっちは真面目にやってるワン!!』とか言われても余計のほほんとするだけだよね。『真面目にやってるニャン!!』でも可」
「ああ、その例えなら分かったのである」
「――おい」
クシナがそこで食ってかかろうとしたが、
「私は『ワン!!』とか語尾つけないぞ!!」
「そこじゃねえよ!!」
シオニーが同時に紡いだ抗議の言葉に、思わずツッコまずにはいられなくて、結局クシナの攻め気は削がれることになった。
「……はあ、まあいい、今回は引き分けってことにしておいてやる。かわりに次の勝負での肉レート二倍な」
「仕方ないな、それでいいよ」
「なになに、肉レートってなに。すごいおもしろそうな響きなんだけど」
サレが興味津々といった体で表情を輝かせ、二人に訊ねたが、
「サターナには関係ない」
「サレには関係ない」
同時につっぱねられた。
「というかサターナ、もう傷はいいのか?」
一旦言葉を切って、今度はクシナがサレに問いかける。
少し汗ばんでいる首元を色っぽい仕草でぬぐい、サレとギリウスの座るソファに近づいて、その隣の床に座り込んだ。
「大丈夫だよ。――ここ座る?」
サレは床に座り込んだクシナを見て、自分のふとももをきっちりそろえてから手で叩いて示し、そう訊ねた。
「ああ、うん、なんでもない」
しかし、クシナのもの言わぬ殺意を孕んだ視線に穿たれ、すぐに取り消す。
――まだ駄目かぁ。
内心で少し残念がりながら、サレは大人しくそろえていた足を崩した。
するとその瞬間に、
「あっ、じゃあ私が――いやなんでもない」
するりとサレに近づいていたシオニーからそんなつぶやき声があがったが、彼女はサレが足を崩したのを見て、結局残念そうに眉尻を下げていた。
しかしすぐに毅然とした風を装って、近場から自分で椅子をもってきてサレの近くにおいてから腰をおろした。
「俺は床のが落ち着くんだよ。高い椅子とか足がぷらぷらして落ち着かない」
「なんか猫っぽい。どこがと言われるとわからないけど」
「なんでもかんでもそこに結びつけるのやめろ」
「はい」
心のこもっていない返答を返し、サレは一息をついた。
ふとクシナを見ると、彼女は着物のしわを丁寧に伸ばしたあと、自分の髪を片手で解きほぐしていた。
汚れ一つない真っ白な髪が、徐々に表面の流れを整えられて、綺麗に光を反射するようになる。
その細長い女らしい指に持ち上げられた白髪は、さらさらと音をたてているかのようで、あでやかだ。
――こうしてみると、結構大人っぽい。
マコトほど幼くは見えないけれど、シオニーほど大人びても見えないクシナ。
整った美しさの中にまだわずかに幼さゆえの儚げな感じが残っていて、いっそ幻想的なまでの美しさを醸す時がある。
ほぼ白だが、やや青みも見えるその白髪も、彼女の幻想的な美しさに拍車をかけている気がした。
髪に関して、特に美しい髪といえば、マリアの鴨の羽色の髪がとっさに思い浮かぶが、クシナの白髪もよくよく見れば十分に整っている。
「おい、馬鹿猫、手櫛はやめろっていっただろう。せっかく良いもの持ってるんだからちゃんと手入れしろよ。ほら、私の貸してやるから」
すると、シオニーがクシナの手櫛を見かねて、そんなことをいいながら懐から櫛を取り出し、クシナの方に投げつけていた。
獣人の膂力の強さもあってか、投擲された櫛の飛翔速度は周りから「うおっ、櫛が高速でっ」などと驚嘆の声があがるほどに速かったが、当のクシナは一瞥と共にその櫛を片手で掴み、
「ちっ、プルミがいないから何も言われないと思ったのに」
そんな声をあげていた。
どうやらいつもはプルミエールにとやかく言われているようで。
「まあいいや、仕方ないから使ってやるよ」
「なになに、二人とも実は仲良かったりする? 実は犬と猫、仲良かったりする?」
「お前は黙ってろ」
「ごめんなさい」
サレが無理やり二人の微妙な距離の間に首をつっこんだあたりで、その話題は途切れた。
◆◆◆
しばらくして、日も沈んできてあたりが暗くなってくる。
湖都ナイアスはといえば、夜になったら夜になったで外を闊歩する者たちの種類が多少変わる程度で、その活気に違いはなく、外から響いてくる人の声は相変わらず多かった。
昼も夜も商売に励む者もいれば、夜から客引きを始める者までいるようだ。
通る声の客引きが、耳辺りの良い誘い文句に謳い文句を重ねている声が聞こえる。
巨大な貿易中継地、行商密集地であるナイアスでは、いかに珍しい品、良い品を外部から運んでくる行商たちといえど、競争相手も多いがゆえに、一時たりとも気が抜けないのだろう。
我こそは、我が商品こそはと、行商路から飛び出てこんな街路にまで宣伝に来ている。
碧い湖の水が延々と流れる街路脇の水路では、そのアレトゥーサ湖の碧水が街のきらびやかな光に彩られて、一層不思議で綺麗な輝きを見せていた。
そんな街路に面している爛漫亭では、いくらかの人の出入りがあった。
「あいつら日課の如く金毟りに行くよな。昨日の今日で戦闘こなして、結構疲れてるはずなのにな」
「いっそ嬉々として毟りにいく者たちはどういうことであるか。我輩仲間ながら戦慄を覚えるのである」
サレとギリウスはまだソファに座っていた。
逆に、それまで一階大広間で談笑していた男性陣の多くが、「ちょっと毟ってくる」や「日課の狩りに」などと二人に言葉を残して、片や腕に添え木をしながら、片や首に痛々しい包帯をぐるぐると巻きながら、片や足を引きずりながら、おのおの固有のモーションを見せつつ爛漫亭の玄関をくぐって、外へと出ていっていた。
そんな彼らを歴戦の猛者でもみるかのような目で見ていたサレやギリウスは、
「俺たち、実はギルドの運営的にはまるで役にたってないんじゃ……」
「ダメである、サレ、それ以上言うと我輩の心が折れるかもしれないのである」
そうした日課がない二人はため息交じりに言葉を吐いた。
サレはしばらくの間、思案気に自慢の黒尾を顔の前でゆらゆらと揺らしていたが、突然閃いたかのように立ち上がって、
「俺もやってみようかな!」
そう叫んでいた。
すると、
「あんたは馬鹿みたいに戦ってりゃいいのよ」
大広間の外側の廊下から、誰かが階段を降りてくる音が響いてきて、声と共に、
「昼寝しすぎたわ。頭痛い」
その膨大量の長髪をぼさぼさにしたプルミエールが姿を現した。
彼女は髪を片手で無造作に撫でつけながら、立ちあがった姿勢で彼女の方を振り向いているサレを一瞥し、
「あんた、たぶんそういう才能ないから、余計なことしなくていいの」
そう切り捨てていた。
途中にあくびを挟み、頭痛のためかこめかみのあたりを指で押さえながら、いつものソファの前まで歩んで行く。
ソファから立ち上がった姿勢でいたサレは、プルミエールの言葉に少しムッとして、
「や、やってみないとわからないだろ? もしかして俺にだってそういう才能が有――」
そんな抗議の声をあげたが、
「ない」
「……はい」
寝起きのプルミエールは不機嫌なようで、サレの抗議は片手間に一刀両断された。
そうしているうちに、ようやくプルミエールがいつものソファの間近まで近づいてきて――そしてそこに先客がいることに気付いた。
「……愚竜?」
「……はい、である」
静かだがやたらに耳に響く声が、プルミエールの口から放たれていた。
「……そこ、私のソファ」
「……はい」
立ち上がったサレとは違って、ギリウスはまだソファに埋もれたままだった。
いっそ無様にさえみえるほどにソファに埋まりきったギリウスは、口癖の語尾を忘れてまでプルミエールへの言い訳を考えていた。
ギリウスの思考が、ここ数か月の中で一番の速度を記録しながら回る。
対するプルミエールは、ソファに埋もれるギリウスの真正面に仁王立ちし、まるでギリウスを威圧するかのようにその白翼を大きく開いて見せていた。
すると、
「いーち、にーい、さーん……」
――いったい何のカウントなのであろうか。
サレは、ギリウスの埋もれるソファと、その前に立って不意に数をかぞえ始めたプルミエールからじりじりと離れながら、得体のしれない恐怖と共にそんな言葉を思い浮かべた。
「……」
離れる最中、ソファに埋もれたまま微動だに出来ずにいるギリウスが、涙目をサレに向けて助けを乞うた。
だが、サレはその視線に首を左右に振ってこたえた。
――さらばだ、ギリウス。ツキがなかったと思うんだな。
――うらむであるよ、サレ。
そんな無言の中のやり取りを経て、
「……きゅーう、じゅーう。――よし、懺悔は出来たわね? 出来たわよね? 私最高に高貴で優しいから懺悔ついでに一個だけ願い事聞いてあげる。なんでも言いなさい?」
「あ、あの、なんで我輩はソファに座っていただけで処刑されるような雰囲気に――」
「やっぱり面倒くさいから却下ね。――はい、どーん!」
プルミエールがすかさず何やら不気味な術式詠唱を始め、彼女の指に天力燃料の金色燐光が灯ったかと思うと、同じような金色の光が大広間の宙空、正確にはギリウスの真上に現出して、一息もおかず、まるで天から撃ち出された矢のように高速で落下していた。
その夜、爛漫亭一階のあるソファの下に、焼き抜いたかのような丸い穴が開いた。