99話 「爛漫一間の休息」【前編】
サレは身体の節々がいまだに痛むのを感じながら、しかし歩ける程度には回復している自分の身体の再生力に毎度のことながら感嘆しつつ、久々の愚か者の居城『爛漫亭』の階段を降りていた。
どうやら寝かされていたのはアリスが使っていた部屋で、看病する者の手間を省けるようにとあえて広い部屋に数人の怪我人を担ぎ込んでいたらしい。
他の部屋も数々の怪我人でのきなみ埋まっている。
闘争のあとの傷はそれらしく深かったと言えよう。
それでも、
「誰も死ななかったな……」
いささか恐ろしげな語尾の間だが、それは安堵のため息を含んでいるためだ。
あれだけの戦闘を終えて誰も死ななかったというのは、おおげさに言えば奇跡的だ。
当初の予想を超えて、自分たちが苛烈な命のやり取りをしていたということをいまさらながらに実感する。
戦の狂気は加速して、周りに伝染し、それが重なって、倍増する。
アレは人の理性を狂わせる。
「せいぜい二百人強の規模の闘争であれか」
これが国家戦力規模になったらどうなるのだ。
こればかりは想像も及ばない。
戦に関しての自分の予想があまり役に立たないことを今回で思い知らされたから、余計にそう思う。
サレは心中に抱きながら、また一歩と階段を降りて行った。
サレが向かった先は爛漫亭の一階、大広間。
手持ち無沙汰なギルド員がよくたむろっている大広間だ。
例によって傷の浅いギルド員たちが飲み物片手に談笑している姿がぽつりぽつりと見える。
サレは「よお、副長、もういいのか?」や「無理しないでくださいね」などのギルドの男性陣女性陣から掛かる声に笑顔や身振りで答えながら、あたりを見回して意中の人物を探した。
すると、いつもはプルミエールが寝転がって一人で占領しているソファのあたりに、
「もう良いのであるか? サレ」
どっしりと座りながらも、ピンと姿勢を正した黒竜の姿があった。
サレを見つけた黒竜は、その尾をゆるりと左右に振って、それとなくリアクションを見せるが、佇まいは静かで、悠然としていた。
「その言葉はそっくりそのまま返すよ、ギリウス。あんな穴だらけになったのに、もうピンピンしてるの?」
「クハハ、飯食ったからだいたい治ったのであるよ」
――どういう構造してんだ。竜族おっかねえ。
ギリウスは大口を開けて笑って見せた。
すると口の中の竜歯に生肉の破片が突き刺さっているのを見つけて、
「歯に生肉ついてるよ」
「ぬっ!! 我輩としたことが!!」
――リリアン以外にこんな言葉を掛けることがあるとは思わなかった。
そんな他愛のない感想を得る。
――第一生肉を頬張る人型ってあんまいないよね。獣人族でさえ火通してるのにね。リリアンとギリウスの身体どうなってんだろうね。いやギリウスはなんでもありな気がするからいいとして、同じ魔人族だったリリアンは……
急に逡巡し始めたサレだったが、慌てた様子で歯から生肉の破片を取り出したギリウスを見て、とりあえずその隣に腰かけることにした。
「このソファ、いつもプルミが占領してたからいまだかつて座ったことなかったな」
「我輩もそう思って今がチャンスとばかりに座ってみた感じである。実に良いすわり心地であるな、これ」
「今だけなんだな……」
「そうであるな……」
プルミエールが戻ってくればすぐさまこの場所は彼女の居城となるだろう。
そして誰も手出しができなくなるだろう。
そんな共通の予想を胸に、二人は深いため息を吐いた。
「で、他のみんなは?」
サレがなんともなく訊ねると、ギリウスは律儀にも順を追って説明をしはじめた。
「シオニーは散歩にいったであるよ。クシナもである。あの二人、仲は悪いがなにかと息が合うので、たぶん外で出くわして一緒に帰ってくると思うのであるよ。トウカは『酒じゃ、酒が必要なのじゃ!!』って言ってメイトとマコトの首根っこ捕まえて歓楽区の酒場に消えていったのである」
「うわあ……」
トウカもトウカで相当消耗したはずだ。ギルド員の中で恐らくもっとも動き回ったのは彼女だろう。
結局彼女は最初から最後まで、力尽きることなく戦い続けた。恐るべき体力と称するに十分足るところだ。
術式系があまり得意ではない彼女は、固有術式はあれど、ほぼその肉体能力のみで戦い遂げたことになる。
「まさに〈戦鬼〉って感じだなぁ……終わってすぐ酒を飲みに行くあたりがまた鬼らしい」
「我輩もあまり東方大陸の鬼人族のうわさには精通してはおらぬが、それでもやたら酒が好きなことは耳にしているのである」
「というかメイトとマコトってお酒飲めるの?」
「メイトはあまり飲めないが、マコトは酒乱であるよ……ああ見えて」
「ああ……じゃあまた眼鏡が割れて帰ってくるんだろうな……ご愁傷様だな……」
「うむ……」
ふと沈黙が重くなって、サレはとっさに話題を転換した。
「アリスとかジュリアスは?」
「早々に終戦手続きのために〈戦景旅団〉の本拠地の方へ行ったのである」
「アリスに誰かついていかなかったの?」
「我輩がついていこうとしたのであるが『皆さんは身体を休めてください。十分に働いてくださったので、あとは私一人で大丈夫です』と鬼気迫る感じに言われたので……」
「まあジュリアスがいるなら大丈夫だとは思うんだけど」
「食い下がったら『この機に乗じて他の王族やギルドが襲ってきたらどうするのですか。ほら、次、次ですよ皆さん。休んでさっさと次の戦に!』とわざとらしく突っぱねられたのである」
「迫真の演技だな。――演技……だよね? そんな鬼のようにこき使わないよね……? い、いかん、ちょっと不安になってきた」
「そういうわけでアリスは他のギルド員の提案もつっぱねて一人で行ったのである。ただ戦景旅団の団長とセシリア第一王女が力強くアリスの保護を約束してくれたので、それも兼ねて送り出したのであるよ」
やや危険ではあるが、メシュティエやセシリア第一王女の提案あってこそだというのなら、それはそれで悪くないのかもしれない。
少なくともギリウスの言い分によれば二人は友好的に接してきたということだ。
ここで二人の信用に応える形でアリスを送り出せば、いっそう友好は強固になるだろう。
「どういう風の吹き回しか知らないけど、信用はしていいのかな」
「そうであるな。まだ完全に信用するわけにはいかないのであるが、戦景旅団の面々もセシリア第一王女もかなり直線的な性格であったし、命のやり取りをしたあとですぐこういうのもなんであるが、そこは信用に足るであろう」
真っ向からぶつかったからこそわかることもある。
もちろん、それが感情論的であることも否めないが、
「疑いはじめたらキリがないな。いずれにしてもジュリアスがいるから大丈夫、そういうことにしておこう」
「そのジュリアスも果たしてどうなのであろうな」
どう、とは。
否、サレにもギリウスの言わんとしていることは伝わっていた。
「あの〈王神〉とかいう神族と、その神格術式の『対価』のことか」
「うむ。サレはジュリアスが術式を発動させる前にトウカの手刀でぽっくりであったから知らぬであろうが、あの後さらにもう一人、別の神族が現れたのであるよ」
ギリウスに言われ、サレは気を失う直前の会話をつとめて思い出す。
そこから類推し、
「王神の言葉端から察するに、〈命神〉かな?」
「真相はわからぬ。我輩も神格術式やら神族は門外漢であるからな。ただその神族は王神以上に、こう、近寄りがたい印象を得たのであるよ」
「神族もいろいろだなぁ」
いまさらではある。
サレは一旦手を後頭部で組んで、肘を大きくつっぱりながらソファにもたれこんだ。
心地よい埋没感が臀部や背中を覆い、心なしか疲労を癒してくれた気がした。
「はー、もうその辺の神族同士のやり取りは全部投げ出したいわぁ……」
つい面倒気に言い放つ。
「我輩もサレと同感であるよ。ぶっちゃけその辺、ほかでうまいことやって欲しいものであるなぁ……」
ギリウスもサレの声につられて言い、同じように後頭部で手を組んで大きくソファにもたれかかった。
ぎしり、と二人の体重を背もたれで受けたソファが軋むが、造りが丁寧なのかそれでも不具合を呈することなく、心地よい埋没感を二人に提供してくる。
大広間からは皆の談笑の声と、二階からは誰かが小走りする音と、広間を出てすぐのところにある亭主のカウンターから犬顔亭主が茶をすする音と。
耳慣れた環境音を目をつむって聞きながら、二人はつかの間の安息をプルミエール専用ソファの上で享受した。
◆◆◆
外に出ていたギルド員たちの中で、一番最初に帰ってきたのはメイトだった。
トウカによってマコトと一緒に連れ出されたという話を聞いていたサレは、首をかしげながら爛漫亭の玄関をくぐってきたメイトに視線を移し――まず自分の『予想』が当たったことに少しの嬉しさを感じてから――訊ねた。
「よし、無事眼鏡は割れたようだな」
「なにが良いの!? ねえ、なにが良いのっ!? 全然『よし』じゃないんだけどっ!! ――はあ、ちょっとツッコむのも疲れるんだから、少し休ませてよ、察してよ、副長でしょ? ギルドの下っ端で組合開いてサレに抗議するよ?」
「それ最初に抗議するべきはアリスだろ……」
「だってアリスにやったらあとが怖いじゃないか」
「同意はするが、俺が舐められてることも自覚した。まあいいや、それで?」
サレは向かって奥のテーブルの近くに無造作に椅子が一つおかれているのを見て、そこに座るようメイトを手で促しながら続きを訊ねる。
メイトは亭主に一杯の水を注文し、サレの促しにしたがって椅子にどかっと腰かけながら、やれやれと服の裾を掃いつつ続きを話しはじめた。
「いやさ、最初はトウカが暴れてたんだけど――ちなみに一個目の眼鏡はその時点で割れた――そのうちマコトの方が……その、すごいことになっちゃって。当のトウカはひととおりストレス発散して収まってただけに、入れ替わりで酒乱が発動したマコトの世話に追われるようになってね」
「二個目の眼鏡はそのあたりでね」そうメイトは付け加え、懐から三個目の真新しい眼鏡を取り出して顔にかけた。
「何個予備持ってるんだよ」
「これ僕の自作だから。材料さえあればいつだって作れるさ。ともかくそれで、トウカがマコトの介抱に追われてる間にこっそり抜け出してきたんだ。はあー、疲れたー」
「へー。ちなみにマコトって酔うとどうなるの?」
サレはふと思って訊ねた。
当のサレは決して下戸というわけではなかったが、あえて酒を好むほどのものでもなく、ときたま外に酒盛りに行っていた他のギルド員についていくこともぽつぽつとある程度で、いまいちその辺の事情については詳しくなかった。
「ん? ああ、そうだなあ……あえて包み隠さずいうと――」
「言うと?」
「脱ぐ」
「……」
サレは言葉に詰まった。
「脱いで?」
「泣く」
「うん……」
特定部位を弄られる反動だろうか。
いっそどうでもよくなって弾けた挙句に、そういう行動にでるのだろうか。
「酔って自分で脱いでおいて結局泣くあたりが切実な感じであるな」
「ああ、切実だ」
「いろいろあるんだろうね」
ギリウス、サレ、メイトと続いて、なんともなく流し聞きしていたまわりのギルド男性陣も一緒になって、
「ううむ……」
そんな神妙なうめき声を一斉にあげていた。