第三話
「玲珠」
「…………」
「玲珠」
「…………」
「れ~い~しゅ~」
「…………」
「見ろ馬鹿」
ゴンっと硯をぶつけられ、ようやく玲珠は我に返った。
「しゅ、朱詩様っ」
「上司の呼びかけを無視するとは良い度胸だね~」
尊敬する上司。
性別を超越した絶世の美少女にしか見えないが、実は男。
小悪魔的な振る舞いだが、実は男。
天性の男を狂わせる才能を持ち、吹気勝蘭、天香国色と謳われる魔性の色香、そして体液は全て媚薬と化した存在自体が凶器であるこの国の高官。
そんな外務省筆頭書記官である朱詩は、にこりと自分に笑いかける。
妖姿媚態、花顔柳腰、美人を表わす言葉は多いが、それら全てを用いても彼の美しさは表現しきれない。
「で、何かあったの?」
「え、えっと」
彼は、自分の上司であると同時に、あの一件の被害者でもあった。
自分を寵姫として地獄の様な苦しみを味わせた祖国の王ではなく、その父を殺し新たに玉座についた息子に拉致監禁され欲しくもない寵愛を受けさせられた朱詩。
危うく女にされかけ孕まされかけ、妃にされかけ、考えるまでもなく自分達よりも酷い目にあわされた経験を持つ。
新たな王は、自分が奪った朱詩にしか興味がなかった。
そうして王は身持ちを崩し、凪国の怒りを買ってこの国に滅ぼされた。
その魔性の色香と魅力に堕ちた王にとって、朱詩は傾国の美姫だった。
「れ~いしゅ?」
「う……」
王達の自分勝手な欲望に故郷を焼かれ、大切な者達を殺され、そして伴侶を、家族を、恋人を虐げられてきた者達にとっては、あの一件はもう二度と思い出したくない。
しかしその辛く苦しい経験が、共に虐げられ来た仲間達の絆を深めていた。
朱詩はそんな自分達とは一線を画す存在ではあるが、本人の気さくさもあいまって、仲良くするというよりは、慕う者達も多かった。
そんな事もあり、凪国国王や高官に心酔し、王宮に仕える事が出来たあと、朱詩の配下となる者達もかなりの数が居た。
とはいえ、もちろん王や他の高官達への心酔度もかなりのものがある。
玲珠も、そんな風にして朱詩に仕えた一人だった。
今では彼の懐刀の一人として認識され、それがまた玲珠の誇りだった。
自分達よりも更に酷い目にあわされながらも、強く強かに生きる敬愛するべき上司。
いや、玲珠にとっての主だ。
だが、こうしてむやみやたらに色気を振りまくのは止めて欲しかった。
「ふふ、ボクに隠し事は無駄だよ?」
「朱詩様……」
「ねえ、君がそんな顔をしているなんて滅多にないもの」
朱詩が玲珠に近づき、その耳元で囁く。
「氷肌玉骨、雪魄氷姿と名高い美貌の『氷の華』。けれど見た目だけではなく、その怜悧冷徹な仕事ぶりと冷たい対応から、周囲からは『氷の貴人』と呼ばれ多くの女性達を虜にしている」
「や、やめて下さいっ」
「褒めてるだけじゃん。この女ったらし~」
心外な事を言われた。
「俺は妻しか興味はありません」
「ふ~ん」
「第二夫人も妾もいりませんし、妻以外の女などどうでもいい」
「……そうして近寄る女達は弾き飛ばしてるんだね~。よっ、この色男っ」
「朱詩様!!」
「なにさ~、からかってるだけじゃん。妻を心配しすぎて、美琳の人事にまで口出しした男が」
「それは、朱詩様がっ」
「下女頭が言ってたよ~? あ、下女頭も上層部の一人だから。あんな頑張り屋を下働きとして働かせる夫の気が知れないって。王妃様への忠誠度といい、是非とも王妃様付きの侍女の一人として働かせてやるべきだって」
玲珠の顔が歪む。
「下働きも大事な部署ですが」
「うんうん、なんと言ってもあそこは、情報収集の場として最適だからね」
朱詩がニヤリと人の悪い笑みを浮かべる。
「花形の侍女や女官に比べて、人の目につかないっていう利点もあるけど」
「…………」
「そんなに妻が大事なら、閉じ込めておけばいいのに。うちの王様みたいに」
果竪を……王妃を大切にしすぎて、王宮の奥深くに閉じ込める王。
この十年で、王の王妃に対する囲い込みは更に強まった。
十年前に比べ、更に外に出られなくなった果竪は、そのうち後宮からも出られなくなるかもしれない。
「どう?」
「どうって……」
「愛しい女性を誰にも見せず、ただ自分だけを見させる。男としては最高のシュチュエーションじゃない?」
天使の皮を被った悪魔が囁く。
「まあ、するもしないも君の勝手だけどね~」
「…………」
「さて、仕事に戻ろうか」
話はこれまでと打ち切った上司に、玲珠は一つ溜息をこぼすと仕事を再開した。
だが、思うのは妻の事ばかり。
そんな部下を盗み見ながら、朱詩は小さく溜息をつく。
玲珠は自分の配下の中でも極上の部類に入る。
もともとの配下達からの信頼も厚く、元が努力家だから仕事覚えも良い。
自分もとても可愛がっている。
しかし自分に下心を抱く相手には冷たく、また纏わり付く女達にもそっけないから氷の男と呼ばれているだけで。
彼が心から恋い焦がれるのは、この王宮で下働きとして働く妻ただ一人。
だが、そんな妻である美琳の様子がおかしいと果竪から聞かされたのはつい昨日の事だ。
そして今日の玲珠の様子からすれば、何かが起きた事ぐらい嫌でも分る。
「全く……世話の焼ける配下だよ~」
しかしこの配下には幸せになってもらいたい。
愛しい少女をあの国によって死別という形で失った朱詩にとって、あの忌まわしい国の犠牲となりながらも必死に生き抜いた夫婦は、それだけで酷く尊いものだった。




