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第二話


「はいはい、安いよ~」

「あ、美琳さん!!これどうだい?!」



 仕事の帰りは、いつも美琳は市場に寄る。

 そのかいもあってか、市場の店主達とは顔見知りになっていた。



「じゃあ、これとこれを」

「おっ!目が高いね。じゃあついでにこれもオマケしてあげるよ」

「ありがとう」



 魚を買い、肉を買う。

 少し多めだが、持って帰る分には問題ないだろう。


 この市場は王宮から近い場所にある。

 美琳が住む、王宮の敷地内にある夫婦や家族が居る者達専用の宿舎の者達も、多くがここを利用して買い物をする。


「次は野菜かい?」

「ええ」


 そう言うと、向かいの八百屋へと向う。


「おやおや、味醂ちゃんじゃないかい」

「こんにちわ、おばさん」

「今日は何を買っていくんだい?」

「えっと、ゴボウと蓮根と」

「今日の特売品だね」

「贅沢は出来ない身なので」


 美琳の月収はそれほど高くない。

 家賃は相場よりもかなり安いとはいえ、所詮は下働きが貰える給料などたかが知れている。

 それでも贅沢さえしなければ十分にやっていける給料だった。


「あんた、そんな事言ってるけど、旦那は出世してるんだろ?」


 それは嫌みでもなんでもない純粋な羨望だった。


「あははは……」

「王宮に仕えるのは、この国の民達にとっては憧れだからねえ」


 しかも、美形が多い王宮仕え達にはそれぞれファンクラブなるものまで存在する。

 そんな事もあり、王宮に仕える者達の情報には特に敏感なのだ。


 加えて、他国から来た者が出世したとなれば、それだけ噂にもなる。


「色々と苦労しても頑張って出世して、いい旦那さんだよねえ」

「おばさん……」

「色々と精の付くもん食べさせてやんなさいな。そうだ、実は良いものが入ってるんだけど」


 根っからの商売人である八百屋の店主はにこにこと奥から箱を取り出す。


「これ、初物のマツタケ」

「まつ……」

「しかもそこに並んでる輸入物じゃなくて、自国産だよっ」


 そんなもの出さないで……


「は、はあ……」

「値段はなんとお買い得の一本一万円」

「…………」


 買う買わないの代物ではなく、一生縁のない代物といってもいい。

 そもそもこの国に来てから十年。

 季節になれば当然松茸は出て来たが、ずっと目をそらし続けてきた。


 こんな高いものなど買えるわけがない。


「旦那さんの給料良いんだろ? 一本ぐらいどうだい?」

「う……」


 確かに夫の給料はいい。

 月収にして、自分の給料の三倍は貰っている。


 しかし……


「あ、あの」

「良い匂いだろう?」

「あ、えっと」


 手持ちは持っているが、高価な食材に躊躇する。

 やはり根っからの庶民なのだ、自分は。


「肉厚で美味しいんだけどね」


 美味しいのは分る。

 良い匂いなのも分る。


 けれど、身分相応というものが……


「旦那さん喜ぶよ~」


 おばさんは最早商人の顔だった。


 美琳は考えた。

 おばさんの巧みな話術と、市場特有の熱気に次第に心が移ろいで行く。


 崖から飛び降りる勢いで買ってみようか――今回だけ。

 美琳はちらりと財布の中を確かめる。

 これを買えば、お米は買えない。

 もう米びつも少なくなっているのに。


 けど……夫が喜んでくれるなら――


「おばさん、これ」



 一本だけ買った松茸。

 それを手に宿舎への道を歩いていた美琳は、遠くに夫の姿を見つけた。


「玲珠」


 夫の名を呼ぶ。

 一歳年下の夫は、遠目からも麗しかった。

 あの国の王に目をつけられ寵愛されていただけの事はある。

 嫌な思い出が蘇り、美琳は頭を横に振った。


 思い出してはいけない。

 この汚れた身のことなど。

 あの国で夫の自害防止の為に生かされていた自分は、地下牢の兵士達の玩具にされてきた。

 日々陵辱され、殴られ、蹴られてきた。

 夫との間に育まれた子供すら流れた。


 生きているのが不思議なぐらいだった悪夢の過去。

 その名残は、今も美琳に不妊という後遺症を残している。

 けれど、夫はもっと苦しんだ。


「玲珠」


 夫に駆け寄ろうとした時だった。


「っ――」


 夫の側に一人の女性を見つけた。

 美しい衣に身を包んだ女性は、十代半ばほどだが、ゾクリとする色香を放つ麗しい少女だった。

 一目で、何処かの姫君だという事が見て取れた。


 少女は夫の腕に自分の腕を絡ませる。

 ピタリとしだれかかるように体をすり寄せ、遠目からも分る豊満な胸を押しつける。


 こんなのはいつもの事だ。

 最初こそ他国からの移民で、しかも田舎出身だった夫を取るに足らないものとして見ていた者達も、夫の美しさや優秀さ、そして出世していく様に目をつけていった。

 そうして自分の縁者の娘を妻にと薦めてくる者達は毎日のように現れていた。


 勿論、正妻としてだ。

 誰もが、美琳の事を無いものとして扱う。

 いや、居ても美琳が当然第二夫人、又は下位の妻として繰り下げられると信じて疑わない。


 美琳はこの五年、少しずつ疲れていった。


 あの日、果竪と共に夫を助けた時、死のうとした夫を説得し共に生きる事を望んだ。

 けれど、もしかしたら自分だけは死ぬべきだったかもしれない。

 死ななくても、姿を消すべきだったかもしれない。


 こんな汚れた――不妊症の女など、忌まわしい過去と共に捨ててしまうべきだったのだ。

 そうすれば、夫はこの地で美しく手垢のついていない清らかで美しい高貴な姫君と、すぐにでも結婚出来たというのに。



 ズキンと、怪我をした指が痛む。

 反対の手で、包帯の巻かれた指をさすった時だった。


 無邪気に微笑んでいた美姫が、夫の唇を奪った。

 そのまま、深い口づけをかわす美姫と夫。


 美琳は、力の抜けた手から落ちかけた買い物袋に気づき慌てて握りしめる。

 ここで地面に落とせば音で気づかれてしまうかもしれない。


 ふらつきながら、美琳は必死にその場から離れ、自宅へと帰った。


「はは……あはははは……」


 限界まで引き延ばされた糸が、ぶちんと切れた気がした。


 どうしよう


 どうするべきだろう


 美琳はぼんやりと長椅子に座って膝を抱え込んだ。


「美琳、美琳」


 夫の声に顔を上げれば、目の前に美しい美貌が現れた。


「玲珠……」


 今年二十三になる夫は相変わらず美しかった。

 しかも、以前住んでいた国の王に囚われ寵愛という名の陵辱を受け続けた三年間で華開かされた『女』が、よりいっそう夫の色香と美貌を壮絶なものにした。


 夫が仕える朱詩や、この国の上層部にこそ敵わないが、それでも到底田舎出身とは思えない美貌と磨き抜かれた洗礼された立ち振る舞いが、更に夫の魅力を確固たるものとする。


「具合が悪いのか?」


 頬に触れる夫の手。

 いつもなら安心するが、今は背筋に寒気を覚えるほどの不快感しかもたらさない。

 思わず手を振り払い、距離を取る。


「美琳?!」

「さ、触らないでっ」


 美琳は叫ぶと、そのまま家を飛び出した。



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