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低弦の鎖 ~舞台裏に眠る、ベーシストの覚醒~  作者: 絹咲 メガネ


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第3話【凍てついた回廊】

 音が消えるとき、人は初めて「恐怖」を知る。


 心臓の音すら聞こえない30秒――——彼女の指は、沈黙で観客の魂を掴む。


 だがその静寂は、彼女自身の封印された鎖をも、ゆっくりと解き始めていた。


(本作のタイトル画像および挿絵には、AI生成の画像を使用しています)

挿絵(By みてみん)


・音なき恐怖・


 朝晩の冷え込みが感じられる10月中旬、大学の講義を終えた美葉子(みよこ)は、今日もアルバイト先の小劇場「夜鎖座(よさいざ)」に向かう。


  落ち葉が足元で乾いた音を立てる道を歩きながら、彼女は小さく息を吐いた。


 今夜の公演『凍てついた回廊』は、静寂がすべてを支配する異色のサスペンスだった。


 巨大な屋敷の地下に広がる無限の回廊に閉じ込められた女性たちが、次々と「消えていく」。


 若手女優の灯花(とうか)は「最初に消えた女性の幽霊」として登場し、生き残りの女性たちに警告を発する役が割り当てられていた。


 最大の見せ場は、人が消える直前の「30秒の静寂」。


 観客に息を止めるほどの恐怖を与えるため、監督は美葉子に無茶な注文を出していた。


「音を完全に殺すような表現を頼む。心臓の音すら聞こえない沈黙を」



・沈黙を織る指・


 照明が極端に落とされ、舞台は青白く凍てついた光だけになる。


 中央に広がる長い回廊のセットが、冷たい霧に包まれている。


 消えた女性の幽霊を演じる灯花は、白いワンピースを着て、青ざめた顔で回廊の奥からゆっくりと現れる。


『聞こえない幽霊の足音』


 この表現が、美葉子の最大の見せ場だった。


 美葉子は舞台袖の暗がりでナチュラル色の4弦ベース・Warmlock(ワームロック)を構え、一切の音を殺した。


 ただの無音ではない。


 彼女は指を弦に極めて軽く押し当て、ミリ単位の肉圧で弦の振動周期を狂わせながら、超低域のサブハーモニクスだけを、意図的に放っていた。


 人間の耳には捉えられない、可聴域下の分調波(ぶんちょうは)。


 それは骨と内臓に直接響く、得体の知れない「存在」。


 音があるはずなのに、何もない。


 観客の何人かが無意識に胸に手を当て、息を止めた。


 肺の空気が、彼女のベースから生み出される不可視の圧力でじわじわと圧迫されていることに、まだ誰も気づいていない。


 自分の鼓動すら遠く感じ、耳の奥で異様な静寂が膨れ上がる。


——ここは、音がないのではない。


 まるで「音が存在を許されていない」空間。


 美葉子の放つ分調波が、劇場のわずかな環境音さえも逆位相(ぎゃくいそう)で呑み込み、打ち消していく。


 空気が重く淀み、劇場全体が異常な沈黙に支配された。


 灯花が回廊の中央で立ち止まり、ゆっくりと観客に向かって手を伸ばす。


「……ここに……立ち入っては……いけない……ここは……あなたたちを……飲み込む……無限の回廊」


 その瞬間、美葉子は極めて短く、不規則な音の欠落を鋭く抉った。


 まるで音が底の見えない穴に吸い込まれるような、虚無の静寂。


 観客の背筋を、冷たい戦慄が駆け抜けた。


 そして灯花が、最後に囁(ささや)くように言った。


「……私のように……消えたくないなら…… 絶対に……奥へ……行かないで……」


 その言葉が終わった瞬間——劇場全体が、息を止めたような完全な静寂に包まれた。


 その直後、 美葉子は弦に指を押し当て、徐々に力を入れて押し込んでいく。


 分調波の檻に閉じ込め続けていた重い低音が少しずつ姿を現し、ゆっくりと、しかし確実に解き放たれていった。


「ただの不在」だった音の空間から、まるで永久凍土(えいきゅうとうど)がゆっくりと溶け出すような、重く太い振動が這い上がる。


 骨の髄に直接染み込む「存在の波」が、観客を飲み込んでいった


 劇場全体を包み込む、得体の知れない圧迫感の中—— 美葉子が弦を深く引き絞り、一気に解放した。


 巨大な氷の塊が内側から崩れ、大きな雪崩(なだれ)として広がっていくような轟(とどろ)く波が、舞台全体を飲み込んだ。


 灯花の囁(ささや)きが、その波に溶け込むように消えていく。


 観客席から、息を飲むような大きな溜息と、かすかな悲鳴に似た吐息が漏れた。



 拍手が沸き起こる中、美葉子のもとに、中肉中背の男性が興奮気味に近づいてきた。


 40代前半の舞台監督——短く整えた黒髪に白髪が少し混じり、眼鏡の奥の目はいつも穏やかだが、舞台の話になると熱を帯びる。


 今日もいつものように袖を捲ったチェックシャツにベストを重ね、動きやすいチノパンを履いていた。


「さっきの沈黙の演出……本当に凄まじかったよ。観客が本当に息を止めて、目を見開いてた。君の音は、この劇団の武器になり始めているよ」


 美葉子は眼鏡を軽く押し上げ、いつもの冷たい声で答えた。


「……ふん、随分と大げさな評価ね。私はただ、与えられた仕事をこなしただけよ」


 監督は笑いながら首を振った。


「いやいや! 君の才能をこんなところで腐らせるのは、演劇の神様に対する冒涜だよ。実はね、これからの演目では、より音楽的な要素も演目に採り入れていこうと思ってるんだ。次回もちょっと難しい表現に挑戦してもらうかもしれないけど、美葉子なら絶対できる。いや、君にしかできない!」


 その「君にしかできない」という言葉が、胸の奥に鋭く刺さった。


——どこかで、同じ言葉を聞いた気がする。


 その言葉を聞いた瞬間、美葉子の脳裏に、大学1年生の秋の記憶が蘇った。



・過去の輝き・


 大学1年生の秋。


──芸術学部音楽表現コース「音響表現演習」合同ワークショップ。


 テーマは「ひとつの楽器のみで、幅広い表現を披露せよ」


 教授が課題を告げると、ほとんどの学生がピアノを選んだ。


 発表日の当日、美葉子は一本のエレキベースだけを抱えて現れた。


 講義室が一瞬、ざわめいた。


「……ベース? 一本だけで?」

「ピアノじゃなくてベースで幅広い表現って……どうやるんだよ?」

「マジかよ、でも、あのエフェクターボード、プロ並みのセッティングじゃない?」


 演劇コースの学生たちも、好奇の視線を向ける。


 白髪交じりの平山(ひらやま)教授が、珍しく目を細めた。


「では……黒崎から始めてくれ」


 美葉子は無言で頷き、ベースを構えた。


 指が弦に触れた瞬間、空気が変わった。


 まずはコンパクトな録音&再生機材『ルーパー』のスイッチを踏む。


 手のひらでボディを叩いた直後、親指でリズミカルなスラップを入れる。


 最初の衝撃音と太い4弦のリズムが録音され、すぐに2層、3層とループしていく。


 重厚な低音の層が、まるで本物のバスドラムとベースラインを同時に鳴らしているかのように響いていく。


 次に音階をコントロールする機材、オクターバーをオン。


 低音を1オクターブ上に跳ね上げ、ハーモナイザーで透明感のあるメロディを重ねる。


 ベースコードをリズミカルに刻み、まるで鍵盤楽器を奏でるような煌びやかな響きが、雨の夜を思わせる情景を音だけで描き出す。


 すべてのパートを、たった一本の4弦ベースで表現していく。


 クラシックで鍛えた正確無比な音感が、全てを完璧に総べる。


 演奏が終わった瞬間、講義室は完全な静寂に包まれた。


 教授がゆっくりと立ち上がった。


 長年、数え切れないほどの学生を見てきた彼の目が、珍しく大きく見開かれていた。


「……驚いた。正直に言って、こんな演奏は初めて聴いたよ。一本のベースでここまで多層的で、感情まで乗せられるなんて……黒崎、君の音はただの技術じゃないな。君にしかできない、本物の表現だ」


 ワークショップ後、演劇コースの講師を務める演出家が美葉子に声をかけた。


「私が顧問を務めている劇団『夜鎖座(よさいざ)』で、新たな試みとして生演奏を取り入れようと思っている。バイト扱いだが、時給は悪くないし、ボーナスも出せる。君の才能を活かせると思うんだが……どうだろう?」


 美葉子は眼鏡の奥で冷たい視線を保ったまま、静かに考え込んだ。


 親に背いて音大に進学しなかった自分……


 芸術学部の学費は出してもらえたが、下宿代などの生活費が必要な彼女にとって、この話は悪くなかった。


「……了解します。生活費のためなら、喜んで」


 美葉子は、プロになる気など毛頭なかったが、この提案は、封印したはずのベースを「続ける」ひとつのきっかけになった。


(……これ以上、誰かの音を壊したくない。影で支えるだけで十分だ)



・終演後の余韻・


 回想が静かに溶けていく。


 美葉子は、大学の講義室の熱気から、夜鎖座(よさいざ)の劇場の冷たい空気へと引き戻された。


 舞台袖に戻った灯花は、まだ役の余韻が抜けない様子で、ぼんやりと呟いた。


「……今も、消えてしまいそうな気がして……」


 美葉子は灯花の顔をちらりと見ると、いつもの冷たい声で返す。


「……勝手に消えられたら困るわよ。私が代役でもやらされたら、客席が凍り付くわ」


 灯花は少し驚いた顔で美葉子を見る。


「……美葉子さん……?」


 美葉子は軽く肩をすくめ、いつもの冷たい表情に戻った。


「……冗談よ。私は影にいる方が性に合っているから。そんな大役、任されるはずがないでしょう?」


 美葉子の冷たい言葉の裏に、ほんの少しだけ優しさが混じっている気がした。


(……美葉子さん、いつもこんな風に……毒を吐きながらも、私を支えてくれる……)


 灯花は頰を少し赤らめながらも、嬉しそうに微笑んだ。


(もし本当にそんな日が来たら……私は、客席の一番前で、美葉子さんを見つめていたい。あの冷たい瞳が舞台の上で輝く瞬間を……絶対に、見逃したくない。)


 灯花は美葉子の目を見つめ、穏やかな、しかし真剣な声で続けた。


「……また、美葉子さんの音に……支えてもらっても、いいですか。美葉子さんの音があると、私、ちゃんと役になれる気がするんです」


 灯花が去った後、美葉子は一人、壁際に置かれた5弦ベースのケースの前に立った。


……私の音が、少しずつ届き始めている……?

影で支えるだけの人生を選んだはずなのに、

この疼きは、いつまで続くのだろう。


 彼女は小さく息を吐き、ケースをそっと撫でた。


 唇の端に、自嘲するような、しかしどこか寂しげな薄い笑みが浮かんだ。


 彼女は眼鏡をクイッと上げ、いつもの冷たい無表情を取り戻すが、その瞳の奥には、消えない小さな揺らぎが残っていた。

・次回、第4話【鏡の迷宮】(8月28日【金】20:00公開)


 無限の鏡に閉じ込められたもう一人の自分。


 美葉子を見つめる冷たい微笑みが、低弦の鎖を静かに呼び覚ます。


 影の中で生きてきた彼女は、鏡の奥にいる「本当の自分」に、いつまで目を逸らしていられるのか。



鎖の狭間で立ち止まった夜の気配を、感じていただけたら幸いです。

ご感想などがあれば、一言でも残していっていただけたら励みになります。

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― 新着の感想 ―
可聴域下の超低音を出している時のシーンに、凄く惹き込まれてしまいました。 これはハーモニクス奏法の応用か?と思いながら固唾を飲んでみていました。 劇団の裏方をやっている理由も明らかになり、今後どう…
「音がない」のではなく、「音が存在を許されていない」空間。 この表現と、それをベース一本で作り出すという発想がとても印象に残りました! 特に、音を鳴らす楽器で「静寂」を表現するという逆説的な演出が面…
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