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友好的な敵

『握手は契約じゃない。けれど毒にはなる。』

 午前六時。第1鐘。

 私は目を開けた瞬間から、掌の内側が冷えている気がした。前の周、迷宮市場で出会った白い鐘の指輪の男――あの声が、まだ耳の裏に残っている。


 「今日は……死ぬ」


 その言い方が、私の脳を刺した。今日が複数ある者の言い方。

 そして私は、次の周こそ近づくと決めた。確かめる。相手が“覚えている”のか、それとも私の挙動を読んでいるだけなのか。


 手首の百粒。黒い粒は八つになっていた。増えた数が、私の決意を薄く笑う。

 墨手帳を胸に抱え、私は廊下へ出た。白い鐘の落書きはいつも通り石壁にあり、余白に白い粉の字が一行だけ増えていた。


 ――近づけ。逃げるな。


 命令。短い。反論の余地がないほど短い。

 私は息を吐いた。落書きの主があの男だとしても、別の誰かだとしても、結局やることは同じだ。近づく。逃げない。逃げる場所がない。


 迷宮市場へ向かうまでの道は、昨日と同じ灰色をしていた。灰布が揺れ、祭の飾りが鳴り、都は“前日”の皮を被って同じ顔をしている。私は同じ顔の中で、ただひとつの違い――自分の記憶と、胸の墨手帳の重み――だけを頼りに歩いた。


 午前十時。迷宮市場。

 鈴が鳴り、露店が開き、人が流れ始める。迷宮は今日も迷宮だった。だが私は、昨日の私より迷わない。迷わないのは勇気ではない。反復の利子だ。


 干し果実の老婆の店先を、今日は素通りした。わざとだ。昨日の“いつもの角”に縛られないため。私は市場の中央、白鐘合金を扱う鍛冶露店の並ぶ通りへ入った。小さな鐘、薄い板、共鳴用の棒、削り粉――白い粉が空気に舞う場所。ここなら、あの男の匂いが紛れる。紛れるからこそ、見つけるのが難しい。難しいからこそ、見つけたときの意味が重い。


 私は歩幅を一定にし、視線を泳がせず、ただ“通り過ぎるふり”をした。

 背中に視線が刺さる。振り向く衝動。振り向けば、そこにいるかもしれない。いないかもしれない。どちらでも私が負ける。


 そのとき、耳の奥で、ちん、と小さな音がした。

 市場の鈴とは違う。もっと乾いて、短い。金属片が触れ合う合図の音。私は足を止めなかった。止めたら、呼ばれたと認めることになる。


 「止まらなくていい」


 声が、私の歩調に合わせて落ちてきた。

 横を見ると、男がいた。昨日と同じ黒い外套。指先の外れた手袋。白い鐘の指輪。群衆の流れの中にいるのに、彼の周囲だけ空気が揃っている気がした。人が無意識に避ける、というより――避けさせられている。


 「……あなたは」

 名を尋ねかけて、飲み込んだ。尋ねても、奪われる。


 男は私の飲み込んだ言葉を拾わなかった。代わりに、視線だけで私の胸元を測った。墨手帳の存在に気づいたのかどうか、分からない。分からないのが、怖い。


 「昨日は、追わなかった」

 男は淡々と言った。「賢い。追えば迷宮が味方をする。迷宮は君に優しくない」


 優しくないのは、この都だ。

 私は喉を鳴らし、言葉を選んだ。選んだところで、彼に先を取られるかもしれない。だが沈黙は、こちらの手札を減らす。


 「あなたは……覚えているの?」

 私は真正面から聞いた。問いを短くする。奪われても傷が浅いように。


 男は一拍だけ沈黙した。

 その沈黙が、私の中で勝手に意味を膨らませた。否定のための間か。嘘を作るための間か。それとも――相手の反応を見るための間か。


 「覚えている、という言い方は好きじゃない」

 男は言った。「覚えると、人は執着する。執着は針になる。君の手の中で、すでに針が回っている」


 掌の奥が、ひくりと痛んだ。

 私は反射で袖を握り、手を隠した。隠したところで、隠せる相手ではない。


 「……何が目的」

 言いながら、自分の声の震えに腹が立った。震えは恐怖だけじゃない。好奇心が混じっている。知りたい、という欲が、もう私の中に根を張っている。


 男は、ここで初めて微かに笑った。笑いは温かくない。調律師が音程を合わせるときの、正しい響きだけを確かめる笑いだった。


 「君の目的と同じだ」

 そう言って、男は右手を差し出した。掌を上に向けた、儀礼的な動作。握手。契約の前の、名乗りの前の、距離を縮めるための形。


 私は一歩も退けなかった。退けば、命令に従ったことになる。従うのが嫌なのではない。従った自分が、次の周でさらに冷たくなりそうで嫌だった。


 「……握るの?」

 私が問うと、男は肩をすくめた。


 「握手は契約じゃない」

 男は言った。「ただの確認だ。君が、ここにいると」


 確認。

 私がここにいることなど、私は毎周確認している。死と鐘で。

 それでも、彼の言葉には別の意味がある。――私が鍵であることの確認。私が折れていないことの確認。私が使えるかどうかの確認。


 私は息を吸い、差し出された手に自分の手を重ねた。


 冷たかった。

 金属の冷たさではない。水の冷たさでもない。時間が擦れる冷たさだ。黒砂墨の匂いと同じ匂いが、指の間から侵入してくる。男の指輪の縁に付いた白い粉が、私の皮膚へ移ったように見えた――が、次の瞬間には分からなくなった。分からなくなる速度が、嫌に速い。


 「……っ」


 私は手を離した。離したはずなのに、指先がまだ繋がっている感覚が残る。蜘蛛の糸みたいな、見えない線。


 男は何事もなかったように手を下ろし、言った。


 「君は賢い。だから、すぐに気づく」

 そして、私の耳にだけ届く声で続けた。

 「今日は、さっきより静かに死ねる」


 静かに。

 その言葉の意味を考える前に、世界の輪郭が薄くなった。


 市場の喧噪が、一拍遅れて耳に届く。鈴の音が“後から”鳴る。人の笑い声が、口の動きに追いつかない。私は瞬きをした。瞬きをしたはずなのに、視界の端が砂色に染まっていく。黒砂の粒を砕いたときの色。夜の終鐘の前に空気が固くなるときの色。


 ――毒。


 私は理解した。握手は契約じゃない。だが毒にはなる。

 喉の奥が冷え、心臓が一拍、抜けた。身体の中の時計が、ひとつ欠ける。


 私は歯を食いしばり、足を動かした。倒れない。倒れたら、見世物になる。見世物になったら、聖歌院の鎖が来る。鎖の中で死ぬのは、たぶん“静か”じゃない。


 歩け。記録室へ戻れ――いや、戻れない。今は市場だ。書記局は遠い。墨手帳は胸にある。だが黒砂墨は手元にない。今この周で残せるのは、記憶だけだ。記憶は裂ける。裂ける前に、何か――。


 私は墨手帳を取り出し、露店の陰へ身を滑り込ませた。指が震え、紐が結べない。砂色の視界の中で、手帳の白い鐘の型押しだけが妙に鮮明だった。


 書け。

 黒砂墨がなくても、皮は傷を覚える。


 私は爪を立て、表紙の内側に乱暴に引っ掻いた。文字にはならない。だが、線は線だ。

 ――握手。

 ――冷たい匂い。

 ――砂色。

 引っ掻くたび、皮が小さく鳴った。鐘に似た音。私はその音に笑いそうになった。笑う余裕などないのに。


 「……そこまでだ」


 男の声が、遠くからではなく、すぐ後ろから聞こえた。

 私は振り向けなかった。振り向けば、倒れる。


 「大丈夫だ」

 男は囁いた。「痛くない。恐くない。君が“壊れない”ようにしている」


 壊れないように?

 私を殺しながら?


 私は言い返そうとして、言葉が喉で崩れた。喉が締まる鎖ではない。喉が“眠る”。砂が喉へ積もる。息が浅くなり、視界がさらに砂色へ沈む。音が遠のく。市場の鈴が、深い水の底で鳴っているみたいに鈍い。


 膝が折れた。

 石畳の冷たさが、今は優しかった。痛みがない。恐怖が薄い。静かだ。男の言った通りだ。静かに死ねる。


 「……どうして」

 私はやっとそれだけ言えた。「どうして……私を……」


 男は答えなかった。答えの代わりに、私の額へ指先を当てた。冷たい。時間の冷たさ。

 「覚えたね」

 男が言った。その言葉が、砂の中へ沈む前に、針みたいに私の脳へ刺さった。

 「次は、もう少し上手くやれ」


 次。

 この男は、次を前提に話す。次が来ることを知っている。

 私の意識はそこで途切れた。


 午前六時。第1鐘。


 私は飛び起き、息を吸い込んだ。紙の匂い。天井板の節目。戻った朝。

 手首を見る。黒い粒は九つ。増えた。毒の死も、死は死だ。


 震える指で胸を探り、墨手帳を掴んだ。ある。残っている。

 私はすぐに表紙を開き、昨日――いや、前の周に爪で引っ掻いた傷を見た。乱暴な線。けれど確かに残っている。皮は傷を覚える。


 私は記録室へ走り、黒砂墨を一滴だけ盗み、手帳へ書いた。今度は文字で。


 ――白鐘の指輪の男。握手で毒。

 ――砂色の視界。音が遅れる。喉が眠る。

 ――「壊れないようにしている」と言った。

 ――「覚えたね」「次は上手くやれ」。


 書き終えた瞬間、背中が冷えた。

 “壊れないようにしている”――それはつまり、彼は私を壊したくないのだ。鍵を折りたくない。鍵を、使いたい。


 廊下へ出ると、白い鐘の落書きの余白に、新しい白い粉の字があった。


 ――地図を取れ。

 ――迷宮は迷宮のままでは抜けられない。


 私はその字を見つめ、喉の奥に、あの静かな砂の感触が戻ってくるのを感じた。

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