表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/19

もう一人の“やり直し”

『私の言葉を、言う前に奪った男がいた。』

 午前六時。第1鐘。

 目を開けた瞬間、私は胸の上の皮の重みを確かめた。墨手帳はある。あるだけで、少しだけ呼吸ができる。都が忘れても、皮は忘れない。


 手首の百粒。黒い粒は七つ。

 増えた数だけ、昨日――いや、前の周の死が確かに起きたと証明している。証明が増えるのは嬉しくない。けれど、証明がなければ私は自分の正気すら疑う。


 私は寝台から起き上がると同時に、手帳を開いた。黒砂墨の匂いが微かに残っている。昨日(前周)の夜、私は鐘心臓の扉の鍵座と、白い鐘の指輪の男のことを書き殴った。今日も、それを読み返す。


 ――鍵座は三:喉(歌)/砂時計(黒砂)/掌。

 ――掌が反応。逆針が止まる。扉が脈打つ。

 ――白鐘の指輪の男がいる。


 書き残した言葉は、私の頭の中の恐怖より冷たく、だから信用できた。私はページの端を指で押さえ、息を整えた。今日の目標はひとつ。

 あの男が“覚えている”のか確かめる。


 廊下へ出て落書きの前に立つ。白い鐘の輪郭はいつも通り。余白には新しい白い粉の字が一本だけ増えていた。


 ――見つけろ。市場。


 短い。命令。

 私は舌打ちしそうになった。命令が嫌いなのではない。命令が正しい形をしているのが怖い。私が動けば、誰かの想定の中に入る。想定に入った瞬間、私は“鍵”として扱われる。


 けれど、都の中心に近い者の噂は、都の中心では拾えない。

 拾えるのは迷宮市場だ。


 午前十時。迷宮市場の開門。

 私はその時間を、手帳の頁に丸で囲んだ。固定イベント。世界が同じなら、ここも同じだ。なら私は、同じを武器にして、違うを炙り出す。


 迷宮市場は、都の外周と内周の境目にある。鐘下街の煤と、中心の白さがちょうど混ざる場所だ。門をくぐると、道がいくつも分岐しているように見える。だが本当は分岐していない。市場そのものが“迷宮”になるよう、露店が棚と布で壁を作り、通路を毎日組み替える。


 組み替える、と言っても完全な気まぐれではない。

 市場の天井――布と梁の隙間に、小さな鈴が何十も吊られている。風が吹くと鳴る。その鈴の音の順番で、露店の位置が決まる、と市場の者は言う。嘘か本当かは知らない。だが鈴が鳴るたび、道がほんの少しだけ“変わる”気がするのは事実だった。迷子になって当然、という顔で皆が歩いている。迷うことが商売の一部だ。


 私は市場の喧噪へ身を沈めた。

 偽造の通行証、刻印を隠す袖、黒砂を薄めた偽物の墨、契約を結ぶための血針、聖歌院の鈴を削った護符――何もかもが並び、何もかもが「今日は今日だけ」と囁く。今日だけ。今日だけが、永遠に繰り返されているのに。


 私は“いつもの”露店に向かった。

 市場の外縁、干し果実を売る老婆の店。ここは迷宮が組み替わっても、なぜか同じ角に出る。都の裏道は、案外こういう「動かないもの」でできている。私は老婆の前に立った。


 老婆は、いつも通りの声で言うはずだった。

 ――灰月の前日は、縁起にまけるよ。


 私は、わざと一歩手前で止まり、わざと視線を逸らし、わざと違う言葉を用意した。

 台詞を変える。それだけで、世界が揺れるか確かめる。


 「……今日は、甘いのは要らない」

 口から出たのは、準備したよりも冷たい声だった。私は自分の声に驚いた。甘いのが要らないのではない。甘いものを口に入れたら、昨日の死の味が戻ってきそうだった。


 老婆は瞬きを一つした。

 そして、言った。


 「灰月の前日は、縁起にまけるよ」


 違う。私はそれを言わせたかったのではない。

 老婆は“いつも通りの台詞”を吐いた。たぶん、いつも通りの客が来るはずの時間に、いつも通りの客が来ないと、口が勝手にいつも通りを選ぶ。そういう単純な理由かもしれない。


 私は次の一手を用意していた。

 「じゃあ、縁起じゃなくて、噂でまけて」

 これも、いつもなら言わない。


 言おうとした、その瞬間。


 背後から、同じ言葉が落ちた。


 「じゃあ、縁起じゃなくて、噂でまけて」


 私の声ではない。

 それなのに、語尾の癖が、私の癖みたいに耳に刺さった。


 私は背中に氷を押し当てられたみたいに固まった。喉が、勝手に息を止める。市場の喧噪が遠のき、鈴の音だけがやけに鮮明になる。ちん、ちん、と。迷宮が笑っている。


 ゆっくり振り向く。

 そこにいたのは、黒い外套の男だった。背は高くないが、立ち方が“揺れない”。群衆の流れの中にいるのに、流れに押されない。手袋は黒い。指先だけ外されている。指には、白い鐘の形をした指輪。縁に薄く白い粉が付いている。


 硝子港の路地。

 鐘心臓の扉の前。

 あの冷たい線。

 全部が喉の奥へ戻ってきて、私は一歩だけ後ずさった。


 男は私の後ずさりを見て、笑わなかった。笑えば分かりやすいのに。彼はただ、私の袖口を一瞬だけ見た。腕輪が見えたかどうかは分からない。だが視線がそこへ落ちた事実だけで、胸の奥が冷えた。


 「……その台詞は、似合わない」

 男は言った。声は低く、よく通る。合唱の鎖のように喉を締めはしない。代わりに、私の思考に入り込む。言葉の温度が、私の温度より低い。


 「あなた、誰――」

 言いかけた言葉が、途中で切れた。名前を聞いたところで、向こうが答える必要はない。答えたとして、それが本当かどうかを確かめる術がない。私は書記だ。紙がないなら、証拠がない。


 男は、私が飲み込むはずだった続きを、平然と続けた。


 「……誰だ、って聞くのか。いや、正確には“何だ”か」

 彼の目が、私の掌に落ちた。掌の奥の逆針が、ひとつだけ回転を止める感覚がした。まるで、彼の視線が鍵穴に合ったみたいに。


 私は袖の中で指を握りしめた。

 台詞を奪われた。

 問いの前提を奪われた。

 ――この男は、私が何を言うか知っている。あるいは、知っている“つもり”で言葉を置いてくる。


 「白鐘師……」

 牢で聞いた言葉が、勝手に口から漏れた。噂の名だ。名というより役職。

 男は、ほんの一瞬だけ目を細めた。喜びでも怒りでもない、計算の顔。次の一手を選ぶ顔。


 「市場の噂は、いつも早い」

 男は答えた。肯定でも否定でもない。だが、指輪の白い鐘が光った。私はその光に、喉が反射で縮むのを感じた。


 老婆が咳払いをした。「お客さん、買うのかい、買わないのかい」

 老婆の声が現実を引き戻す。私は息を吸い直し、あえて干し果実を一つ掴んだ。手が震えているのを悟られたくなかった。


 「……買う」

 「銅貨三枚」

 私は銅貨を払った。銅貨の縁が、指先で鳴った。小さな鈴の音みたいに。男はその音に反応しなかった。反応しないこと自体が、反応だった。


 私は果実を袖に隠し、歩き出そうとした。

 逃げる。逃げて、手帳に書く。

 今日の新情報はこれだ――この男は、私の言葉を“先に”言える。


 その瞬間、男が私の横へ一歩だけ出た。

 道を塞ぐほどではない。避けようと思えば避けられる距離。だからこそ、避けたら負けだと分かる距離。


 「硝子港へ行くな」

 男は、雑踏の中なのに私の耳にだけ届く声で言った。


 私は足を止めた。

 硝子港。死の場所。白い指輪の場所。

 私は行くつもりなどない――そう言い切れない自分が怖かった。私は、確かめるためならまた死ぬかもしれない。冷たい選択が、もう私の中に芽を出している。


 男は、私が言葉を探す前に、続けた。


 「今日は……死ぬ」


 “今日は”という言い方が、胸の奥へ刃のように刺さった。

 今日は一日しかない。なのに、今日は、と言う。

 この男は、“今日”が複数ある世界の話し方をしている。


 私は男の指輪を見た。白い鐘。縁の白い粉。

 落書きの白。鍵束の白。鐘心臓の白い線。


 あなたが、返事を書いていたのか。

 あなたが、私を導いていたのか。

 それとも――私を、鍵穴へ押し込んでいたのか。


 問いは喉元まで上がったが、私は飲み込んだ。

 問いを吐く前に奪われるなら、問いは刃にならない。刃にするには、順番が要る。


 男は、私の沈黙に満足したようでもなく、ただ一度だけ指先を動かした。指輪が鈍く光る。

 そして彼は、人混みに紛れて消えた。迷宮市場の鈴の音に、溶けるみたいに。


 私はその場に立ち尽くし、掌の奥の逆針が再び回り出すのを感じた。

 遅れて、息が戻った。


 墨手帳が、胸の内側で重い。

 私はようやく歩き出した。逃げるためではない。追うためでもない。

 ――次の周、私はこの男に近づく。近づいて、毒を飲む覚悟で“確かめる”。


 そう決めた瞬間、遠くで小さな鐘が鳴った。

 ちん、と。

 まるで、次の手番が決まった合図みたいに。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ