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逆針の刻印

『体が先に知っていた。私は鐘に呼ばれている。』

 「鍵は三。君も鍵だ」


 墨手帳の皮へ沈んだ文字を、私は何度も指でなぞった。なぞっても浮き上がらない。皮の内側へ食い込んだ傷が、私の指紋を拒むみたいに滑らかだった。


 午前六時。第1鐘。

 手首の百粒は外れず、黒い粒は六つ。昨日――いや、さっきまでの夜の終鐘が、確かに一粒ぶん私を黒くした。黒は増える。減らない。だからこそ、増える前に“使う”しかない。


 私は廊下の落書きを見に行きたい衝動を飲み込み、まず窓へ向かった。終鐘楼の影は今日も同じ角度で地面を切っている。影が動かないのではない。私の“日”が動かないのだ。


 鍵が三つなら、扉がある。

 扉があるなら、そこへ行って確かめるしかない。


 思考がそこへ到達した瞬間、右手の掌が、ちくりと痛んだ。痛みというより、皮膚の下で針が向きを変える感覚。私は思わず掌を見た。線も印もない。なのに掌の奥が、勝手に終鐘楼の方向へ引かれる。


 ――逆針。


 墨手帳の最初の頁に、無意識に書いたあの符号が脳裏で回った。逆向きの針。皮膚の下で回る、見えない秒針。私は息を止め、ゆっくりと体の向きを変えた。終鐘楼に背を向ける。すると掌の奥の疼きが、わずかに弱まった。もう一度向き直す。疼きが強まる。


 体が先に知っている。

 私は――“呼ばれている”。


 震えを抑え、私は今日の仕事を“普通に”始めた。普通の顔をして束を受け取り、普通の字で写しを作る。普通に見えなければ牢へ落ちる。牢は観測に便利だが、今日は観測ではない。今日は侵入だ。


 頭の中で、牢で覚えた音を繰り返す。

 看守交代の合図の小鐘。足音の重さ。鍵束の鳴る順番。二十一時半。あの隙が、私に残された唯一の“穴”だ。


 午前八時半、聖歌院の導入旋律が遠くから流れてきた。ミラの声。歌が鎖にも鍵にもなるなら、あれは鍵だ。だが今の私は、鍵の“本数”を知っただけで、鍵の“形”は知らない。形を知らなければ、鍵はただの鉄屑だ。


 昼、黒砂の輸送帳簿が机を埋めた。数字の列が、砂の粒に見える。黒砂坑から商会へ、硝子港を経由して移される“時間”。この都は時間を掘って燃やし、燃やした灰で祭を飾る。なら、終鐘楼が時間を噛み砕く歯車なら、鐘心臓は胃だ。胃の扉の向こうに、三つの鍵座があるはずだ。


 夕方、私は袖口を握りしめた。掌の疼きが、終鐘楼へ近づくほど強まることを確かめたかった。だが不用意に近づけば、白い指輪の影が喉へ戻ってくる。私は自分に言い聞かせた。目的は“突破”ではない。“見る”ことだ。見るだけで十分な戦果になる。


 日が落ちた。灰月が大きく、低く、都の上に張りつく。

 鐘下街のざわめきが遠くに膨らみ、審問の槍の音が一度だけ響いた。耳の奥が冷える。私は机に残した書類を整え、ハルヴァンの目を盗むように外套を羽織った。見習いの外套は薄い。薄い布は、刺されるには都合がいい。


 「どこ行く」

 ハルヴァンの声が飛んだ。

 「衛士団へ布告です」私は嘘を吐いた。嘘は呼吸。だが今夜の嘘は、命の形をしている。

 ハルヴァンは面倒そうに手を振った。「戻れよ。今夜は妙に冷える」


 冷えるのは、天気じゃない。


 終鐘楼へ向かう道は、都の中心へ吸い込まれるように白くなっていく。石畳の目地が細かくなり、壁の装飾が増え、吊るされた小鐘が風に鳴る。私はその音に肩をすくめながら、掌の疼きを確かめた。疼きは確かに強くなる。呼ばれている。呼ばれている先が、扉だ。


 二十一時を少し過ぎた頃、鐘楼の根元の広場に着いた。

 人は少ない。祭前夜の集会はまだ始まっていない時間だ。広場の端に、衛士の詰所がある。二人組の衛士が槍を立て、影に溶けるように立っていた。終鐘楼の影は、ここでは石畳を黒く塗りつぶしている。


 私は影に沿って歩いた。

 背中に視線が刺さる気がする。見られているかもしれない。見られていないかもしれない。違いが分からないのが、今の私の一番の弱点だ。


 ――ちん。


 小さな鐘が鳴った。牢で聞いたのと同じ合図。

 交代だ。


 衛士が二組、詰所の前で擦れ違う。槍の柄が一度鳴る。鍵束が短く鳴る。右足を引きずる者が去り、左肩の落ちた者が来る。私は息を止め、影の中で足を一歩だけずらした。影が私を飲み込む。飲み込んだのは影ではなく、私の決意だ。身体が勝手に動く。掌の疼きが、背中を押す。


 私は鐘楼の側面へ回り込んだ。

 壁に沿って、古い石の継ぎ目がある。牢の老人が言った“祭前牢”の湿り気が、ここから上がっている気がした。壁際に、ひとりがやっと通れる隙間。そこに小さな扉がある。普段は閉じられているはずの補修口。だが交代の瞬間だけ、鍵が合わさる音がする――私は牢でそれを聞いた。今、その扉の留め金が、ほんの少しだけ緩んでいる。


 掌の疼きが跳ね上がった。

 私は指先で留め金を押し、扉を滑らせた。石が擦れる音は、想像より静かだった。中は暗い。暗いのに、金属の冷たい匂いが濃い。白い粉の匂いも混じる。白鐘合金。ここは“鐘の内側”だ。


 階段が螺旋を描いていた。

 私は一段ずつ、足音を殺して上る。歯車の影が壁に揺れ、どこかで金属がきい、と鳴く。ガラス船の泣き声とは違う。こちらは、歯が噛み合う音だ。時間が噛まれる音。


 上へ上へ。

 掌の疼きが導く方向へ。

 呼吸を整えるたび、肺の中の空気まで冷たくなる。私は墨手帳を胸に押しつけた。皮の温かさが、私を現実に繋ぎ止める。


 螺旋の終わりに、空間が開けた。

 鐘の機構室。巨大な歯車がいくつも重なり、鎖が垂れ、金属の梁が蜘蛛の脚のように張り巡らされている。床は白鐘合金の板で補強され、その縁に細かな刻印が走っていた。見たことのない文字――いや、文字ではない。音の形だ。歌の形だ。


 私は息を呑んだ。

 歌が鍵。なら、この刻印は鍵穴だ。


 機構室の奥に、扉があった。

 黒い金属で作られ、表面に白い線が走っている。白い線は落書きの鐘の輪郭と似ていた。輪郭の中に、三つの窪み――座が並んでいる。


 左の座は、喉の形に見えた。音を入れるための空洞。

 中央の座は、砂時計の形に似た凹み。

 右の座は、掌の形――五本の指の浅い跡。


 鍵は三。

 歌。砂。――掌。


 私は喉の奥が乾くのを感じながら、掌の座へ右手を近づけた。触れるべきではない、と理性が叫ぶ。触れた瞬間に扉が開き、何かが出てくるかもしれない。触れた瞬間に、私が“鍵”だと確定してしまうかもしれない。


 だが私は、確かめに来た。


 掌が座に触れた瞬間、皮膚の下の逆針が回転を止めた。

 熱が走る。痛みではない。血が“呼ばれる”感覚。扉の内側から、低い鼓動が返ってきた。鐘楼の底から聞こえていた鼓動と同じだ。竜の寝息――そんな囚人の噂が、今は笑えなかった。


 扉の白い線が、一瞬だけ脈打った。


 その時、背後で――ちん、と鳴った。

 交代の鐘ではない。もっと近い。もっと乾いている。金属片が触れ合う音。


 私は振り向かなかった。振り向いたら負ける。

 けれど、背中が寒い。首筋に、冷たい息が触れた気がした。


 「……鍵は、ここまで来るのか」


 男の声がした。低く、よく通る声。歌の鎖とは違うのに、言葉が喉へ直接触れる。私は肩で息をした。名を知らない声。だが白い粉の匂いがした。あの路地の匂い。


 私はゆっくりと扉から手を離し、墨手帳を胸の前で握り直した。逃げる。逃げるべきだ。情報は取った。鍵座は見た。掌が反応することも――。


 次の瞬間、喉の奥に冷たい線が走った。

 痛みが来る前に、息が抜けた。私は何が起きたか理解するのに一拍遅れた。視界が揺れ、扉の白い線が滲んだ。


 倒れかける視界の端に、指が見えた。

 黒い手袋。指先だけ外されている。白い鐘の形をした指輪。白い粉が縁に薄く付いている。


 「……」


 声が出なかった。

 出したところで、届かない。


 私は最後の力で扉の三つの座を目に焼き付けた。喉。砂時計。掌。鍵は三。君も鍵だ。墨手帳へ書け。――書かなければ、この周の私は、ただ死ぬ。


 意識が落ちる直前、扉の内側の鼓動が一拍だけ強くなった。

 まるで、私の死を数えたみたいに。


 午前六時。第1鐘。


 私は飛び起き、喉を押さえた。無傷。呼吸ができる。だが喉の奥に、冷たい線の感触だけが残っていた。

 手首を見る。黒い粒は七つになっている。増えた。死の分だ。


 私は叫びそうになるのを堪え、記録室へ走った。鍵。封蝋。黒砂墨。手順はもう身体が覚えている。私は墨手帳を開き、震える手で書いた。


 ――鐘心臓の扉(機構室奥)。

 ――鍵座は三:喉(歌)/砂時計(黒砂)/掌(血?)。

 ――掌が反応。逆針が止まる。扉が脈打つ。

 ――白鐘の指輪の男がいる。


 最後の一行を書いた瞬間、廊下の遠くで、ちん、と小さな鐘が鳴った。

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