審問具
『耳で裁く者は、石の中の嘘も聴き分ける。』
午前六時。第1鐘。
目を開いた瞬間、私は昨夜の石橋を思い出した。
白い粉。疑心の楔。吐血するルツ。
手順は増やした。だが増やした手順は、今度は見られて削られる。
墨手帳を開く。
黒砂墨の字が、皮の奥で静かに固まっている。
――ゼフが売る、の命題は外した。
――次は、夢を見る団長。
私はその一行を指で押さえ、頁を閉じた。
ヴァルド。
東見張り段。二十一時半。白い輪の手。
彼の夢は、まだ終わっていないはずだ。
日中、私は書記局の片隅で衛士団向けの布告写しをしていた。
祭前夜の巡回強化。鐘楼外周の立入制限。聖歌院からの臨時査察。
その最後の一行で、私の手が止まった。
審問具持参の上、塔内の響きの異常を確認すること。
審問具。
私は何食わぬ顔でその語をもう一度読んだ。
欄外には、小さく聖歌院の印と、セレスの署名。
塔内の響きの異常。
ここ数周で増えた逆向きの終鐘、白鐘の調律、夢に残る音――聖歌院も無視できなくなっているのだ。
私は布告の写しを渡し、何気ない顔でハルヴァンに聞いた。
「審問具って何です?」
ハルヴァンは鼻で笑った。
「聖歌院の化け物退治の道具だよ。石が嘘をついてる時に鳴るとか何とか」
「鳴る?」
「知らん。見たことはない。見なくて済むなら一生見たくない類いだ」
十分だった。
二十一時半。東見張り段。
私はいつもの石段の影に立ち、空白が生まれる直前を待っていた。
槍の柄。鍵束。荷の擦れる音。
そして、人の気配。
「二十一段目の白い輪」
私は低く言った。
しばらくして、ヴァルドが闇の中から現れた。
鐘守衛士団長。削られた頬。古い傷。
彼は今日、いつもよりさらに目の下が暗い。夢を見た顔だ。
「来ると思った」
彼が言う。
「また見た?」
私が問うと、ヴァルドは短く頷いた。
「階段じゃない」
低い声。
「今日は、銀の輪だ。細い鎖に吊られている。塔の中で勝手に鳴る。……その先に、あの白い輪の手が立っていた」
審問具。
私は喉が冷えるのを感じた。
「聖歌院が持ち込む」
ヴァルドは続けた。「今夜。セレスが自分で来る」
「見せて」
「お前にか」
「歪みの中心を知りたい」
ヴァルドは私をしばらく見た。
敵でも味方でもない目だ。
だが最後に、鍵束を鳴らし、小さく言う。
「来い。だが喋るな」
塔内の巡回路は、今夜だけいつもと違っていた。
聖歌院の白い布を巻いた執行者が数人、要所に立っている。
私はヴァルドの背を半歩だけ追い、機構室の一つ下の見張り回廊へ通された。そこからなら、中央の空間を見下ろせる。
やがて、セレスが来た。
黒い法衣。銀糸。胸の細い聖鈴。
その後ろに若い聖職者が一人、両手で何かを持っている。
銀の輪だった。
掌ほどの大きさの、薄い銀環。
環の中心には何も無い。だが、輪の下から三本の細い鎖が垂れ、その先にごく小さな錘が付いている。
歩くたび、錘が揺れ、ちい、と虫の羽音みたいな金属音が鳴る。
「聴罪環」
ヴァルドが私にだけ聞こえる声で言った。
「聖歌院の審問具だ。歪んだ響きを拾う」
私は息を潜めた。
銀の輪。
夢の中の輪。
ヴァルドは確かに見ていたのだ。
セレスは回廊の中央で止まり、聖職者からその環を受け取った。
両手ではなく、指先で吊るす。
すると三本の錘が、ふ、と静まった。
「記録」
セレスが言う。
聖職者が板に筆を走らせる。
セレスはまず、塔の外壁側へ一歩進んだ。
聴罪環は何も鳴らない。
次に、鐘心臓のある中心へ半歩寄る。
錘の一本が、かすかに内側へ振れた。
ちい。
小さい音。
だが、それは確かに“選んだ”音だった。
セレスはさらに歩く。
回廊の角。機構室の真下に近い位置。
今度は三本の錘が、揃って内側へ引かれた。
ちい、ちい。
私は思わず前へ体を寄せそうになった。
ヴァルドの手が、横から無言で私の肘を押し戻す。
セレスは眉を動かさない。
だが、その目だけが少し細くなる。
「上ではない」
彼が低く言った。
「響きの芯は、もっと下だ」
私は喉が乾くのを感じた。
もっと下。
機構室の床の下。
鐘心臓のさらに奥。
旧採石場下の坑道、塔の喉、白鐘の棺――全部が一本の線へ繋がる。
セレスは今度、東側の基礎へ近い細階段へ移った。
そこは、私が何度か鼠穴や補修通路へ回る時に使った側だ。
聴罪環の錘が、今度はただ内側へ寄るのではなく、斜め下へ揃って引かれた。
ちい、……ちい。
聖職者が思わず顔を上げる。
「下方?」
「記録しろ」
セレスは短く言う。「中心は塔内の上部ではない。基礎よりさらに下へ伸びている」
ヴァルドの夢。
私の坑道。
止まった世界へ伸びる終鐘。
竜の喉みたいな暖かい息。
ここでようやく、全部が地図の上で重なった。
その時、聴罪環が急に高く鳴った。
きぃん。
私は息を止めた。
音は、セレスの立っている位置ではなく――私のいる回廊の方へ向いた。
違う。正確には、私の胸元。墨手帳だ。
セレスの視線が、まっすぐこちらの暗がりへ向く。
まずい。
ヴァルドが一歩、前へ出た。
意図的に槍の石突きを床へ当てる。
がつん。
硬い音が響く。
聴罪環の錘が一瞬だけ乱れ、そちらへ引かれる。
セレスの視線も、そっちへずれた。
「何だ」
「失礼を」
ヴァルドは平板な声で言う。「床の継ぎ目が緩んでおります」
嘘ではない。塔の床はいつでもどこかが緩んでいる。
セレスは数拍のあいだヴァルドを見ていたが、やがて環を下ろした。
「後で見ろ」
それだけ言う。
私は背中に冷汗が流れるのを感じた。
ヴァルドがわずかに庇ってくれたのだと、遅れて理解する。
査察はそのまま続いた。
セレスは外壁側ではなく、東基部と機構室下の反応だけを丁寧に記録させた。
やがて聴罪環を聖職者へ返し、一団は去っていく。
静かになるまで、私は動けなかった。
「……助かった」
やっと言うと、ヴァルドは私を見ずに答えた。
「借りを作るつもりはない」
「分かってる」
「ただ、あの審問具がお前に鳴った理由は覚えておけ」
私は胸元の墨手帳を押さえた。
黒砂墨。時外物。終鐘を越える記録。
聴罪環は、たぶん“歪み”に鳴るのだ。
私だけでなく、私が持ち歩く記録そのものに。
「……セレスは中心が下にあると分かった」
私が言うと、ヴァルドは短く頷いた。
「だが、まだ何の“下”かまでは掴んでいない」
「こっちは知ってる」
「だったら先に動け」
それだけ残し、彼は鍵束を鳴らして去った。
私は回廊の闇にひとり残り、深く息を吸った。
塔の芯は、下だ。
坑道と棺と、鐘心臓の間にある。
そして、セレスももうそこに目を向け始めた。
つまり、時間は本当に無い。
記録室へ戻ると、私はすぐに墨手帳を開いた。黒砂墨を一滴。鼓動が欠ける。
――聖歌院の審問具=聴罪環。
――歪んだ響きを拾う。
――反応は塔の上ではなく、東基部からさらに下。
――塔の芯は“下”にある。
――聴罪環は墨手帳にも鳴る。
――ヴァルドが庇った。
最後の一行で、私は少しだけ手を止めた。
庇った。
夢を見る団長は、まだ味方ではない。
それでも、同じ悪夢を見続ける人間の手は、必要な時にだけ同じ方向へ動く。
私は手帳を閉じた。
次は、もっと冷たい話になる。
ミラの声の削れ方を、数えなければならない。




