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会頭カーン

『値札の付かない真実は、商人にとってはまだ商品ではない。』

午前六時。第1鐘。


私は目を開いてすぐ、机の上を見た。

昨夜、袖に隠して持ち帰った黒い鱗片は、当然のように消えている。

消えているのに、指先にはまだ“石ではないもの”の手触りが残っていた。薄く、温かく、殻みたいだった。


墨手帳を開く。

皮の上に、昨夜の黒砂墨が沈んでいる。


――黒砂坑の壁は鉱脈ではなく“鱗”。

――掘り子もそう呼ぶ。

――深く割ると壁が鳴く。

――祭礼予備の箱が現場にある。

――第二の分を先に。

――次は会頭、カーン。


私はその最後の行をなぞり、手帳を閉じた。


黒砂の流れを握っているのは商会だ。

そして商会を握っているのは、会頭カーン。


第二鍵を隠し、帳簿を二重にし、北灯区の灯まで数字で削る男。

善悪で動く相手ではない。

だからこそ、紙の上の“値段”でしか揺らせない。


私は右手の指先を見た。

砂時計の痕は、朝の光でだけ薄く浮く。

今日、それを使う。


砂時計館は、昼でも夜の顔をしていた。

黒い硝子の壁は光を食い、正面の砂時計紋だけが鈍く浮かぶ。

私は受付台の前で立ち止まり、右手をわざと見える位置へ置いた。


受付の男がこちらを見て、いつもの嫌な顔をした。

そのあと指先の痕を見て、顔の筋肉だけが一瞬止まる。


「……何の用だ」

「会頭に会いたい」

「会頭は見習い書記に時間を売らない」

「私は時間を買いに来たんじゃない」


私は平然と言った。

「返納帳の数字が、今夜どこで死ぬかを知っている」


男の目が、ようやく本気で私を見た。

嫌悪でも怠さでもない。値段を測る目だ。

彼はしばらく黙ってから、低く舌打ちし、奥の扉を顎で示した。


「通せという“感じ”がする。気味が悪い」

「そういう契約をした」


私は自分でも驚くほど平板な声で答えた。

黒砂契約は、私を通す。通してしまう。

嫌われるほど、その理不尽さが強く見える。


カーンの部屋は、商人の部屋というより書記の墓場みたいだった。


棚、棚、棚。

綴じられた帳簿。封箱。量り。

窓は小さく、光は細い。

机の上にだけ、昼が置かれている。


その机の向こうに、カーンがいた。


背は高くない。痩せてもいない。

だが、座っているのに立って見える。

細い指。乾いた口元。目だけが妙に静かで、こちらの顔ではなく“持っている値”を見ていた。

この男は、怒鳴らなくても人に値札を貼れる。


「見習い書記」

カーンは私の名前を呼ばなかった。

「座れ」

私は座らなかった。

「立ったままで結構です」

「そういう値付けか」

彼は少しだけ口の端を動かした。「では立て」


会話が始まる前から、ここでは全部が取引だ。


「返納帳の数字が死ぬ、と言ったな」

カーンが指を組む。

「どの数字だ」


私は机の上に何も置かなかった。紙も、証拠も。

代わりに、覚えているものを口にした。


「祭礼予備 一二単位。表帳簿にはそうある。けれど実際は第零番の穴埋めです」

カーンの表情は変わらない。

私は続けた。

「穴埋めは北灯区分を六減らして作っている。頁は差し替え。綴じの結びが違う」


そこで初めて、カーンの目が少しだけ細くなった。


「書記らしい」

低い声。

「それで?」


“それで?”

灯りを削られた区のことも、第二鍵のことも、この男にとってはすべて“それで?”の先にしかない。

私は喉の奥が冷えるのを感じたが、言葉は揺らさなかった。


「表と裏を二重に持つなら、あなたは商人ではなく共犯者です」

「誰の」

「白鐘師の」


カーンは少しだけ沈黙した。

沈黙は否定ではない。値段の再計算だ。


やがて彼は指先で机を一度叩き、言った。


「言葉が若いな」

「間違ってますか」

「違う」

彼は首を傾けた。「ただし、安い」


私は眉をひそめた。

カーンは続ける。


「共犯とは、同じ終わりを欲しがる者同士に使う言葉だ。私は白鐘師の終わりを欲しがっていない」

「でも鍵を預かっている」

「預けられたからな」

「なぜ」

「貸しがある」


白鐘師に貸し。

ゼフが前に匂わせた言葉が、ここで現実になる。


「どんな貸しです」

私が問うと、カーンは小さく笑った。

「質問が増えた。値が上がるぞ」


私は少しだけ前へ体を寄せた。

「あなたにとって、都がずっと前日に閉じ込められるのは得ですか」

カーンの笑みが消える。

「違うな」

「どう違う」

「売買には“次”が要る」

彼は淡々と言った。「凍った市場は利益を生まない。止まった明日は、金にならん」


私はそこで初めて、この男の立ち位置が見えた。

善でも悪でもない。

継続にしか興味がない。

都が壊れれば困る。

だが、だからと言って私に手を貸す理由もない。


「では、なぜ白鐘師に第二鍵を見せる」

「貸しの返済と、観察だ」

「観察?」

「どこまで行くかを見る。倒れるなら、その直前の値だけ取る」


吐き気がした。

この男は、都が死ぬかもしれない局面でさえ、最後に何を回収できるかを先に考えている。


私は歯を食いしばった。

「黒砂坑の“鱗”も、そうやって掘っているんですか」

この問いだけは、感情が混じった。

カーンはそれを聞いても眉一つ動かさない。


「鱗?」

彼はわずかに顎を上げる。

「掘り子の言葉だろう」

「あなたは何だと思ってる」

「商品だ」


あまりにも迷いのない答えだった。

私は一瞬、何も言えなくなった。


カーンはその沈黙を楽しむでもなく、冷たく言った。


「名前が何であれ、燃える。削れる。移せる。拍を合わせられる。商人にとって必要なのはそこまでだ」

「でも、鳴く」

「鳴くものは世にいくらでもある」


私は拳を握った。

この男に“竜”という言葉はまだ効かない。

効くのは、損か得かだけだ。


私は方向を変えた。


「白鐘師は、最後にあなたの利益を残しません」

カーンの目がわずかにこちらへ向く。

「言い切るな」

「外の世界を止めるなら、市場は死ぬ」

私は低く言った。「次が無い。売買の翌日が消える」

その言葉だけは、少しだけ手応えがあった。


カーンは背もたれに体を預け、長く私を見た。

やがて言う。


「いい読みだ」

褒めているのではない。評価だ。

「だが、それは私も知っている。問題は、いつ切るかだ」


いつ切るか。

白鐘師を。契約を。第二鍵の貸しを。

この男は最初から、その見切りの話をしていたのだ。


「私に何を求める」

私が問うと、カーンは指を一本立てた。

「数字だ」

「どんな」

「都でいちばん高い数字」


私は答えを探しかけて、やめた。

彼の方が先に言う。


「噂だよ、書記」


私は眉を寄せた。

噂を数字と言うのか。


「人が何人同じ言葉を口にしたか。どの通りで、どの時刻に、どの程度ずれたか。……それが今、この都でいちばん値が張る」

カーンは静かに言う。

「白鐘師は音で揃える。お前は、揃わない方を見ているんだろう」


デジャヴ。

引っかかり。

歌の残り。

群衆の息のずれ。


私はそこでようやく、この男がただの在庫屋ではないと理解した。

都そのものを帳簿みたいに見ている。

どの通りの呼吸がずれ、どの言葉が増え、どの噂がどの速度で広がるか。

それが値になる。


「数字を持って来い」

カーンは最後に言った。

「そうしたら、私はどこで白鐘師の貸しを切るか考えてやる」


味方になる、とは言わない。

助ける、とも。

ただ“考える”。

それでも今の私には十分な譲歩だった。


私は席を立たずに来たのに、去る時だけ深く一礼しかけて、やめた。

この男に礼をすると、何かを売り渡した感じがする。


部屋を出る直前、カーンがもう一つだけ言った。


「見習い書記」

私は振り返る。

「白鐘師に貸しがあるのは私だけじゃない」

「……どういう意味です」

「都には、貸し借りでしか動けない者が多いという意味だ」


その言葉は、予言ではなく値札のついた忠告だった。

私は何も答えず、黒い部屋を出た。

外の光が妙に薄く見える。


墨手帳を開きたい衝動を堪えながら、私は一つだけ確信していた。

次に探すのは、噂の数だ。

都でどの呼吸がずれ始めているのか、それを拾わなければならない。

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