聖歌隊の既視感
『歌は鎖にも鍵にもなる。違いは、誰が息をするかだ。』
午前六時。第1鐘。
同じ音で目が覚めるたび、私は「昨日」を持ち越している自分が怖くなる。腕輪の百粒は外れず、黒い粒は三つになっていた。死と終鐘と終鐘。残り九十七――そう数えた瞬間、数えた事実の方が胃に重く落ちた。
私は仮眠室を飛び出し、廊下の落書きへ走った。
石壁の白い鐘。その下の余白には、今朝も白い粉の字が並んでいた。
――歌を聞け。
――八時半。聖歌院。
墨で書いた私の問いは消えている。石も戻る。けれど返事だけが、まるで最初からそこにあったみたいに残っている。残っている、のではない。誰かが“毎回”書いている。そう思うと喉が乾いた。私が牢で聞いた白鐘師という言葉が、粉の匂いと一緒に蘇る。
「……行くしかない」
書記局の仕事を最低限だけ片付け、袖を深く引き下げた。腕輪は見せない。見せたらまた牢だ。私の記憶だけが残って、私の信用は残らない。都は都合のいい部分だけを繰り返し、都合の悪い私は毎回はじめからだ。
聖歌院へ向かう道は、評議会の建物とは違う匂いがした。香油と石灰と、湿った金属。白い石で組まれた回廊には小さな鐘が吊るされ、風が吹くたびに薄い音を鳴らす。祈りのための音。だが牢の中で聞いた合唱の鎖を思い出すと、その音は首輪の鈴にしか聞こえなかった。
八時半の少し前、聖歌院の大門は開きっぱなしだった。誰でも入れる。誰でも入れて、誰でも選り分ける。私は人の流れに紛れ、石段を上った。掌に汗が滲む。汗が袖口を湿らせ、腕輪の輪郭を浮かせる気がして、私は何度も袖を握り直した。
礼拝堂は、外の白さより暗い。
天井は高く、梁の影が蜘蛛の脚みたいに伸びている。正面には灰月の紋が彫られ、その下に三つの輪――鐘の輪、砂の輪、血の輪――みたいな抽象模様が重なっていた。見た瞬間、胸の奥がちくりと疼く。私の知らないはずの記憶が、皮膚の下で針を立てた。
人々が席に着く。聖職者が前に並ぶ。合唱隊が脇の段に上がる。
そして、少女が一人、隊列の端に立った。背は低い。髪は灰月の光を溶かしたみたいに淡く、喉元に小さな銀の輪を提げている。首飾りではない。喉を守るための輪――そう見えた。
彼女が息を吸った瞬間、礼拝堂の空気が“揃った”。
吸う、というより、全員の息が同じ方向へ引かれる。私は反射で口を開けたが、声は出ない。出せないのではなく、出す必要がないと身体が判断してしまう。歌が始まった。
旋律は、思ったより短い。灰月賛歌の導入三節。だが三節が終わらない。
一音が伸び、伸びたまま次の音が重なり、重なったままさらに重なる。時間が、音の中へ押し込められる感覚。私は背筋に冷たい汗をかいた。目の前の蝋燭の炎が、揺れる前に揺れたように見えた。順番が逆だ。世界が、ほんのわずかに“巻き戻りかける”。
――既視感。
私はこの旋律を知っている。知らないはずなのに知っている。牢の湿気の中で聞いたのか。硝子港で死ぬ瞬間に聞いたのか。母の子守歌に混じっていたのか。どれも違う気がする。それでも確かに、私の中のどこかが歌に合わせて息をした。
周りの参列者も、何人かが微かに顔を上げた。戸惑い。違和感。だが誰も口を開けない。開けても、きっと音にならない。歌が、私たちの喉を先に握っている。
最後の音が消えたとき、私は急に落下した。
息が戻り、心臓が自分の速さを取り戻す。礼拝堂の暗さが現実の暗さへ戻り、蝋燭の炎が普通に揺れた。隣の老人が、何もなかったように手を組み直している。だが私は、何もなかったとは思えなかった。何かが、私の中に引っかかったままだ。
祈祷が終わり、人が立ち上がる。私は流れに逆らわず出口へ向かった。ここで目立てば、また鎖が来る。私はただ“聞きに来た”だけだ。返事の意味を確かめに来ただけだ。
段を降りる合唱隊の横をすれ違うとき、少女がふとこちらを見た。
その視線が、私の胸の奥を一瞬で射抜いた。驚きではない。怯えでもない。――困惑だ。まるで「知っているはずの顔が、知らない場所にいる」みたいな困惑。
私は足を止めた。
少女も一歩遅れた。後ろの聖職者が小さく咳払いをしたが、少女は動かなかった。
「……あなた」
声は小さかった。けれど礼拝堂の残響が拾って、私の耳の裏に張り付いた。声の質感が妙に鮮明で、さっきの歌が喉を削るものだと直感した。
「君は……」私は名を聞くべきだと思った。だが名を聞く前に、少女の方が先に言った。
「昨日も……ここにいました?」
言い終えた瞬間、少女自身が驚いた顔をした。自分の口から出た言葉に、自分が追いついていない。
昨日。私は息を呑んだ。昨日の私は、硝子港で死んでいる。牢にもいた。聖歌院へは来ていない。来ていないはずだ。なのに、この子は昨日と言った。昨日という言葉を選んだ。
「……来てない」私は嘘をついた。嘘は書記の呼吸だ。「でも、今日、歌を……聞きに来た」
少女の喉元の銀の輪が、微かに震えた。彼女は指で輪に触れ、呼吸を整えるみたいに一度だけ口を閉じた。
「わたし、ミラ」
名が落ちた。軽いのに、落ちた場所だけが重い。私はその名を心の中で何度もなぞった。忘れるな、と自分に命じるみたいに。
「リース」私は名乗った。名乗るべきか迷ったが、名を持たないまま戦うのは、すでに始まっている戦争に裸で入るようなものだ。
ミラは私の袖口を見た。腕輪が見えたのかと思って背が固まる。だが彼女の視線は、袖の下ではなく、その“すぐ外側”を見ていた。見えていないものを見ようとする目だ。
「……鐘の音が、ついてきます」
ミラは囁いた。「あなたの後ろに。わたし、そういうの、分かるの」
私の背後に、鐘の音。
終鐘の骨鳴り。第1鐘の合図。あるいは、白い指輪の影。私は振り向きたい衝動を飲み込んだ。振り向いたら、そこに“誰か”が立っていそうで怖かった。
「歌は……どうして」言いかけて、私は言葉を変えた。「さっきの導入、あれは毎日?」
ミラは首を横に振った。「祭の前日だけ。灰月が低いときだけ。……竜の喉が、ざわつくから」
竜。牢の老人の言葉と重なる。噂話が、歌の口から現実味を帯びる。私は喉の奥が冷たくなるのを感じた。
「ミラ!」
聖職者の鋭い声が飛んだ。ミラの肩が跳ねる。彼女はすぐに一歩下がり、私から距離を取った。鎖だ。目に見えない命令が、彼女を引っ張る。
ミラは最後に一度だけ私を見て、唇だけで形を作った。
――来ないで。
声は出なかった。出せなかったのか、出さなかったのか。どちらでもいい。意味だけが、胸に刺さった。
私は聖歌院を出た。足が石段を降りるたび、さっきの旋律が頭の中で繰り返された。繰り返すほど、時間が揺れる気がする。私の周りの空気が、ほんの一瞬だけ遅れてついてくる。耳鳴り。砂の匂い。背中に、鈍い視線。
書記局へ戻る途中、私は廊下の落書きに寄った。
白い鐘の下、余白の線に、新しい白い粉の字が追加されていた。
――歌は鍵。
私は指先を握りしめた。鍵。牢の鍵束。鐘心臓の扉。三つの輪の模様。ミラの喉元の銀の輪。
鍵があるなら、開ける扉がある。開けた先に、戻らない“明日”があるかもしれない。
けれど同時に、鍵を持つ者は狙われる。
私の手首の輪が、その証拠だった。
私は白い粉の文字を見つめ、心の中で繰り返し読んだ。覚えろ。忘れるな。紙は消える。石も戻る。なら、残るのは私の頭の中だけだ。
そして私は、思った。
頭の中だけでは足りない。
残せるものが、必要だ。
私は書記局の記録室へ戻り、引き出しの底から余り紙を引き抜いた。紙は消えると知っている。それでも、今この周を走り切るための縄は必要だ。羽ペンを握り、私は短い箇条書きを作った。
・八時半 聖歌院 灰月賛歌・導入旋律
・ミラ(喉の輪)
・歌は鍵
・竜の喉がざわつく
・落書きの主=白い粉
文字が並ぶだけで、胸の奥の混乱が少しだけ整列する。整列してくれ、と私は祈るみたいに紙を押さえた。だが祈った瞬間、終鐘で全部が巻き取られる光景が脳裏に蘇る。机の傷が埋まり、紙片が白紙に戻り、世界が「間違いを直す」みたいに私を無かったことにする映像。
夜、鐘下街の方角がざわつき始めた。審問の槍が鳴り、誰かの泣き声が途切れていく。私は灯りを落とし、袖で腕輪を隠したまま息を殺す。ミラの「来ないで」が、鎖の音として胸に残っている。歌は鍵。鍵は扉。扉の向こうには、鎖の起点がある。
――残せる紙がある。
評議会の奥で見たことがある。条約や血筋の譜は、普通の紙ではなく、白く硬い皮に書かれていた。竜皮紙。黒砂の墨で書いた文字は、年月が経っても滲まないと聞いた。時間を燃やす砂で書いた文字なら、時間の巻き戻りにも抗えるのではないか。
確信はない。だが、私は書記だ。確かめる術を持つ。次の周、私は“残せる媒体”を探す。どれだけ高くても、どれだけ危険でも。そうしなければ、この戦いは、私の頭の中だけで腐っていく。




