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楔の反動

『固定を殺せば、命じた側の血が濁る。』

その夜、私は寝なかった。


工房から戻り、記録室へ籠もり、灯りを一つだけ残して墨手帳を開いた。

皮の頁のいちばん新しいところに、まだ乾ききらない黒砂墨の字がある。


――刻み刃、入手。

――固定を殺す刃。

――短短短・間・長。

――最初の代価:母の指ぬきの色。

――次は、楔を殺す。


私はその最後の行を指でなぞった。

なぞったからといって、勇気が増えるわけじゃない。

むしろ逆だった。自分が本当に“やる気”になっていることだけが、皮の冷たさで確かになる。


手首を見る。

黒い粒は二十五のままだ。


今夜は、戻らないまま終わるかもしれない。

戻るとしても、何かを一本、また抜かれる。


それでも行くしかない。

落書きはもう一つの口じゃない。

ミラの歌は使えるが削れる。

ルツは黒砂墨を読めないが、手帳ごと奪う。

残る手は、楔そのものへ刃を入れることだけだった。


私は刻み刃を布から出した。

短い。細い。

普通の刃のように光を弾かず、白い筋だけが内側で眠っている。手のひらへ乗せると、掌の奥の逆針がじくりと熱を持った。


「……お前も、戻し線か」


誰に聞かせるでもなく呟き、私は刃を袖へ滑らせた。


二十一時半。


東見張り段の空白は、ヴァルドの言った通り二十七息ある。

私は息を数えながら、影の中を滑った。


一。

二。

三。


鍵束の鳴る順番。

荷を持ち替える衣擦れ。

白い粉を踏む靴音。


十三。

十四。

十五。


私は踊り場を抜け、細い補修通路へ入った。ここは正規の階段より暗い。石の継ぎ目が粗く、壁に古い刻線が走っている。鐘楼の表側ではなく、内臓の側を歩いている感じがした。


二十六。

二十七。


背後で荷の音が戻る。空白が閉じる。

私は息を殺し、そのまま前へ進んだ。


機構室に近づくにつれ、空気が金属の匂いを帯びる。

白鐘合金の冷たさ。黒砂の乾いた匂い。

そして、その奥に――あの暖かい息は、今夜はまだ届かない。塔の喉は、もっと下だ。


私は壁の影へ身を寄せた。

歯車の間から、鐘心臓の扉が見える。


白い線の輪郭。

三つの鍵座。

そして右上の楔。


前に見たときより、楔は少しだけ“増えて”いた。

大きい三角の脇に、小さな白い打ち込みが一つ、新しく刺さっている。命題を重ねた痕だと、直感した。


その近くで、しゃり、と金属を撫でる音がした。


ルツだ。


黒い外套。指先だけ外した手袋。白い鐘の指輪。

彼は扉に背を向け、別の細い楔を白い線へ調律していた。

しゃり。しゃり。しゃり。

……しゃあ。


短短短。間。長。


私は喉が冷えるのを感じた。

まるで、鐘そのものへ“そうなれ”と書いているみたいだ。


今しかない。


私は袖から刻み刃を抜いた。

布を外すと、刃の白い筋が微かに脈打つ。掌の逆針が熱を持ち、心臓の鼓動とずれる。嫌な感覚だ。刃のほうが、私の呼吸より先に塔のリズムへ合わせようとする。


私は楔の脇へにじり寄った。

狙うのは大きい楔ではない。

まずは、小さい方。試し打ちだ。固定全体を殺すのではなく、枝だけを折る。


刃先を白い楔の根元へ当てる。

普通の刃なら滑るだけだ。だが刻み刃の先は、金属に食い込むというより“固定”を探っているみたいに静かだった。


短く三度、触れる。

ち。

ち。

ち。


間を置く。


そこで、私はほんの一瞬だけ迷った。

ここから先は、もう戻らない。

刃を入れた瞬間、何かが私から抜かれる。


けれど、迷っているうちにルツが振り向く。

私は息を止め、最後に長く、刃を滑らせた。


……さあ。


白い楔が、音もなく裂けた。


正確には、金属が割れたのではなかった。

表面の白い筋だけが、綴じ糸を抜かれた本みたいに、す、とほどける。楔はそこに残っているのに、もう“刺さっていない”感じがする。


その瞬間。


頭の奥で、何かがぷつりと切れた。


私は思わず壁へ手をついた。

母のことを考えたわけでもないのに、ふいに彼女の顔が浮かぶ。

浮かぶのに――私は母を何と呼んでいたかが分からなくなった。


母さん、だったか。

お母さん、だったか。

別の呼び方をしていた気もする。

だが、その“口の形”だけが消えている。


「……っ」


声にならない息が漏れる。


同時に、機構室の向こうで硬いものが床に当たる音がした。

ルツだ。


彼は白い楔へ手を伸ばしかけたまま、膝をついていた。

片手で口元を押さえている。指の隙間から、黒いものが滲む。血だ。

白鐘の指輪の縁に、赤が細くついた。


私は凍りついた。

反動。


ルツがゆっくり顔を上げる。

血で濡れた指を見て、それから私の手の中の刃を見る。


「……それか」

低い声。いつもの静けさが、ほんの少しだけ掠れている。

「石工に鍛えさせたな」


ドーラのことを言われた瞬間、背筋が冷たくなった。

名前は出していない。だが、彼はそこまで辿り着く。辿り着こうとする。


「楔が折れると、お前も痛むのか」

私は絞り出した。


ルツは答えなかった。

代わりに、壁へ手をついて立ち上がる。動作はまだ滑らかだ。致命傷ではない。

だが、口元の血はごまかせない。


「一つ、外しただけでいい気になるな」

彼は言った。「命題は枝じゃない。幹で打ってある」


言葉の意味を考える暇はなかった。

ルツが半歩、こちらへ寄る。


私は反射で刻み刃を引いた。

振るうつもりはない。もう一本切れば、さらに何か抜かれる。

それが怖かった。

自分でも嫌になるほど、怖かった。


その一瞬のためらいを、ルツは見逃さない。

白い指輪が月光を拾う。

私は後ろへ飛んだ。


歯車の影を滑り、補修通路へ駆け込む。背後でルツの足音は追ってこない。代わりに、低い咳が一度だけ響いた。血を吐く音。


私は止まらず、東見張り段の方へ走った。

空白の二十七息はもう終わっている。だが、この時間は巡回が一度薄くなる。ヴァルドの夢の癖が、私の足を導く。


外へ出た時、夜気が頬を刺した。

私はやっと息を吐き、刻み刃を布で巻き直した。手が震えている。


母を、何と呼んでいた?


いま考えても、そこだけが空白だ。

顔は分かる。声の高さはすでに失っている。今度は、呼び方が抜けた。


「一本……」


私は石壁にもたれ、目を閉じた。

綴じ目を一本、抜かれた。

ドーラの言った通りだ。


だがその代わり、私は見た。

楔を殺せば、ルツも血を吐く。


書記局の記録室へ戻る頃には、終鐘まであまり時間がなかった。

黒砂墨を一滴だけ使い、手帳へ書く。


――刻み刃、実戦成功。

――小楔一本でルツが吐血。

――楔には反動がある。

――「命題は枝じゃない。幹で打ってある」

――代価:母を何と呼んでいたか消えた。


最後の行の字が少し歪んだ。

泣きたいのか、怒りたいのか、自分でも分からない。


深夜零時。終鐘。


骨の裏で音が鳴る。

私は手帳を胸に抱えたまま、ただ一つだけ確信していた。


次は、楔そのものを切るのではなく――

命題を外させる。

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