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偽の答え

『白い粉は、ひとつの口からだけ落ちているわけじゃない。』

迷宮市場の噴水の影で、私は墨手帳の表紙を爪で浅く引っ掻いた。


――終鐘の所持者が次周の持ち主。

――ゼフで確認。

――ルツも気づいた。


傷は浅い。

だが浅くても、朝の市場のざわめきの中では十分だった。

皮は終鐘を越える。傷も越える。なら、いまの私は“あとで黒砂墨で清書するべきこと”を、とりあえず残せばいい。


手首を見る。

黒い粒は二十四。


私は手帳を懐へ戻し、噴水の影から出た。

次に確かめるべきは一つしかない。

白い鐘の落書きが、まだ信用できるかどうか。


書記局へ戻る前に、私は一度だけ廊下の石壁へ寄った。


白い鐘の輪郭はいつも通り。

だが、その下の余白に書かれていた言葉を見た瞬間、私は足を止めた。


――石匠を切れ。


短い。命令口調。

まるで、今までの落書きと同じように見える。

けれど、違う。


違うと感じた理由を、私はすぐには言葉にできなかった。

ただ、喉の奥で何かが引っかかった。

ドーラを切れ。石工通りを切れ。そう読める。

だが、ルツが私を塔へ誘導したいなら、石匠を切れと言うのは筋が通る。逆に、私を守ろうとする誰かが書く言葉としては、あまりにも直接的すぎた。


その下、もっと低い位置に、白い粉が薄く擦れている。

文字になりきっていない、ひらがなのような線。

……きの。

あるいは、……きのう。


私はしゃがみ込み、石壁の線を指でなぞりかけて止めた。

触れれば崩れる。

今は形だけ覚えればいい。


二つある。

口が二つある。


そう思った瞬間、背筋が冷えた。


午前の仕事を片づけたあと、私は聖歌院へ向かった。

用件は、ミラではない。……いや、正確にはミラの“歌の後”だ。


十八話で確かめた。

彼女の歌は、記憶そのものではなく、息の癖や引っかかりを翌朝まで押し流す。

あれが人の喉に残るなら、壁にも残るのではないか。

言葉ではなく、動きとして。


朝祈祷が終わり、人の流れが解けたころ。

私は礼拝堂の裏回廊で、白い粉を掃く小さな見習いを見つけた。年は十にも届かないだろう。銀の小鈴を腰に下げ、眠そうな顔で箒を動かしている。


その子が、柱の根元で急に手を止めた。


私は壁際の影で息を殺した。

見習いは箒を脇へ立てかけ、何も考えていない顔のまま、床に落ちていた白い粉を指で拾う。そして、柱の目立たない場所へ――小さな鐘の輪郭を描いた。


一筆。

二筆。

最後に、鐘の下へ細い線を一本。


それだけ描くと、本人は何事もなかったように箒を持ち直し、歩いていった。


私はしばらく動けなかった。


歌の引っかかりが、無意識に“形”になっている。

落書きの全部ではないにせよ、一部はこうして生まれている。


つまり、白い鐘の落書きはもう一つの意志の道具ではない。

ルツが混ぜる嘘。

歌に触れた誰かが残す無意識の引っかかり。

二つが同じ石壁に重なっている。


私は拳を握った。

通信が腐り始めている。


夕方、私は実験をした。


廊下の落書きの下へ、普通の墨で短い問いを書いた。

あえて、答えが分かっている問いだ。


――東見張り段の空白は何息。


二十七。

ヴァルドが教えた真実。

これを他の誰かが知っているはずがない。

もし答えが二十七以外なら、それは嘘か、別の誰かの引っかかりだ。


私はその問いを書いたあと、あえて何もせず、夜まで待った。

待つのは苦手だ。

待っている間にもルツは命題を打ち、セレスは疑いを育て、都のどこかでミラの喉は削れていく。


それでも待つ。

今日は確認の周だ。


夜。

終鐘前の硬い空気が街へ降り始めた頃、私は再び石壁の前へ立った。


返事は、二つあった。


一つ目は、問いのすぐ横。

濃い白い粉で、はっきりと。


――十二。


二つ目は、その少し下。

薄く、擦れたように。


――にじゅ……

最後まで書き切れていない。だが、二十七の“にじゅ”だと分かる。


私はゆっくり息を吸った。


やはりだ。


濃い方は、見せるための答え。

薄い方は、無意識に残った真実の欠片。

どちらがどちらかは明白だった。


私はそこでやめればよかった。

十分に分かった。

落書きはもう鵜呑みにできない。そう結論づけて、短く終鐘を待てばよかった。


けれど私は、さらに確かめたくなった。

“十二”を信じて動いた時、ルツがどこに待つのか。


それは、冷たさの始まりだった。


東見張り段。

私は“十二息しか空かない”前提で、わざと遅く向かった。

本来の二十七息なら、まだ間に合う位置。十二息なら、もう閉じているはずの位置。


階段の影は濃く、石は冷たい。

上から、荷を持ち替える音。

鍵束。槍の柄。

私は息を数えた。


一。

二。

三。


……十二を越えた。

だが、まだ空いている。


その瞬間、頭上から白い粉が散った。


私は反射で身を伏せた。

粉そのものは毒ではない。だが、白鐘合金の削り粉が空気へ乗ると、耳が一瞬だけ鳴る。共鳴術の予備動作だ。

次の瞬間、影が動いた。


黒い外套。

白い指輪。

ルツ。


「やはり来た」

静かな声。

私は舌打ちした。十二の答えは餌だ。私はそれに乗った。


「……落書きにまで手を出すのか」

「“まで”?」

ルツは少し首を傾けた。「あれは最初から、ひとつの口ではない」


その言い方に、私は喉が冷えるのを感じた。

知っていたのだ。

歌に触れた者が無意識に鐘を描くことを。

知った上で、そこへ自分の嘘を混ぜていた。


「卑怯だな」

私が吐き捨てると、ルツは笑わなかった。

「お前はまだ“正しい連絡路”があると思っていたのか」


言い返す前に、私は袖の小瓶へ手をやった。

ここで捕まるのは高い。

長く死ぬのはもっと高い。


ルツが一歩、近づく。

白い指輪が月光を弾く。

私は小瓶の栓を抜いた。


「またそれか」

ルツが低く言う。

「払える値段だけ払う」

私はそう返し、液を飲み下した。


苦味。

視界が落ちる。


最後に見えたのは、ルツの表情だった。

怒ってはいない。

むしろ、少しだけ面白がっている。

私が学習していることを。


午前六時。第1鐘。


私は寝台の上で跳ね起き、喉を押さえた。

手首の黒い粒は二十五。


墨手帳を開く。

黒砂墨を一滴だけ使う。


――白い鐘の落書きは、一つの口じゃない。

――ルツの嘘が混じる。

――歌の引っかかりも混じる。

――濃い答えは疑え。

――薄い欠片だけ拾え。


そこまで書いて、私は少し迷った。

次の一手。


もう落書きは頼れない。

なら、頼れるのは手で持てるものだけだ。

楔を抜くための道具。

扉の固定を殺す、現実の刃。


私は新しい行へ書いた。


――次は、刻み刃。


黒砂墨の字が、皮へ深く沈んだ。

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