所持者の規則
『終鐘の瞬間、何を握っていたかだけが明日の置き場所を決める。』
午前六時。第1鐘。
私は目を開いた瞬間、胸の上へ手をやった。
墨手帳はある。
皮の重み。表紙の白い鐘。縫い目に吸いつく指先の感触。
手首の腕輪を見る。黒い粒は二十三。
昨日、私はルツに手帳を開かせた。黒砂墨の頁ではなく、普通紙の挟み込みだけに反応した。視線は黒砂墨の上を滑り、紙の餌でだけ止まった。
――ルツは読めない。
だが、奪うことはできる。
その事実は、思った以上に重かった。
もし終鐘の瞬間にルツへ奪われたら?
もし次の朝、私の胸の上にこれが無かったら?
私は寝台の上で手帳を抱えたまま、しばらく動けなかった。
読めなくても、奪われるだけで終わる。
それは死と同じくらい困る。
「……確かめる」
私はそう呟いて、記録室へ向かった。
黒砂墨を一滴だけ使う。鼓動が一拍欠ける。
新しい頁へ書く。
――読めないなら、奪う。
――なら、次は“誰が持って朝を迎えるか”を試す。
――所持者の規則。
そこまで書いて、私はペンを置いた。
試す相手は決まっている。
ゼフ。
迷宮市場の盗賊。
合言葉で呼べて、ものの値打ちに敏く、変な拾い物をすぐに捨てない男。ルツに預けるわけにはいかない。衛士に預ければそのまま押収される。ゼフなら、少なくとも“売れるもの”として朝まで抱えてくれる。
午前十時。迷宮市場。
鈴が三段に鳴る。
私は噴水の影へ入り、小さく落とした。
「鈴は三段」
すぐに返る。
「指は黒」
ゼフは柱の裏から現れた。今日は黒糸ではなく、銀の細線を指に巻いている。市場の気分らしい。
「今日は早いな、書記」
「取引がある」
「いつもそうだ」
私は周囲を見た。
露店の布。香油の匂い。魚の臭い。監視の目。
なるべく短く、なるべく正確に。
「今夜、零時の直前にこれを持っていてほしい」
私は袖の内側から墨手帳を少しだけ見せた。
ゼフは目を細めた。
「その本?」
「本じゃない。帳面だ」
「どっちでも高そうだ」
私は即座に言った。
「開くな。売るな。零時まで持ってろ。それだけでいい」
ゼフは肩をすくめた。
「ずいぶん都合がいい」
「代金は払う」
「何で」
私は少し考えて、今日だけの釣り針を差し出した。
「十五時五分、北織路の運び馬車が片輪を落とす。評議会の封箱がひとつ、石畳へ転がる。衛士は二人、馬を起こしに回る。箱に触るな。だが、その裏の路地は六分空く」
ゼフの視線が変わった。
「……六分?」
「四じゃない。六」
「見たのか」
「そういう仕事だ」
ゼフは私の手帳を見た。
「それ、何だ」
「今日だけ、私よりお前が持ってる方が役に立つ物」
「役に立つ、ね」
彼はしばらく黙っていたが、やがて片手を出した。
「零時の直前なら、南の吊り橋の下。市場が閉じるころだ。そこなら人目が少ない」
私は頷いた。
条件が定まる。手順になる。
それで十分だ。
「合言葉は?」
ゼフが聞く。
私は少し考えて、言った。
「『落とすな』」
「返しは?」
「『売れるなら考える』」
ゼフは吹き出した。
「いいな、それ。お前、少し市場がうつってきた」
私は笑わなかった。
市場がうつるのは、たぶん病気に近い。
夜。
南の吊り橋の下は、昼の喧噪が嘘みたいに静かだった。上では祭前夜の人の流れがまだ途切れないのに、橋の下は石と水の匂いしかしない。
私は先に来て、柱にもたれて待った。墨手帳を胸の内側へ押しつけたまま。
ゼフは約束の少し前に現れた。
「落とすな」
「売れるなら考える」
返しが交わる。
手順が閉じる。
私は手帳を取り出し、彼に渡した。
その瞬間、皮が指から離れる感覚が、思ったよりずっと嫌だった。
ゼフは重みを確かめるように二、三度上下させた。
「これ、そんなに大事か」
「今の私には、腕一本より」
「大げさだな」
「そう思うなら、開くな」
ゼフは笑ったが、本当に開かなかった。
胸の内ポケットへ滑り込ませ、布の内側から手で押さえた。
「零時まで持ってればいいんだな」
「そう」
「お前は?」
「見てる」
嘘ではない。
私は橋脚の影で終鐘まで待つつもりだった。死なない。逃げない。ただ、持ち主を変えたまま終鐘を迎える。
ゼフは橋の端に腰を下ろし、靴先で水面を蹴った。
「変な依頼だな」
「変じゃない依頼をしたことがあるみたいに言うな」
「ないな」
それきり、私たちは黙った。
遠くで鐘下街がざわつく。
もっと遠くで、聖歌院の鈴が一度鳴る。
終鐘楼の影は橋の下まで伸び、灰月の光を細く切っている。
午後十一時五十九分。
ゼフがこちらを見た。
「今だろ」
「うん」
「これ、もし消えたら」
「消えない」
私はそう言い切った。言い切りながら、自分でも少しだけ怖かった。
深夜零時。終鐘。
骨の裏で、世界が鳴る。
水面が巻き戻る。
橋の影が逆へ引かれる。
ゼフの輪郭が白へ薄まり、最後に彼の胸のあたり――墨手帳のある位置だけが一瞬、黒く残った。
私は目を閉じた。
午前六時。第1鐘。
私は跳ね起きた。
右手首。黒い粒は二十四。
次に、胸。
手が空を掴んだ。
無い。
一瞬、呼吸が止まった。寝台の上、掛け布の中、床、寝台の下。
どこにも無い。
「……っ」
分かっていた。
分かっていたのに、実際に無いと分かった瞬間、胃の底が冷たくなる。
墨手帳は、終鐘の瞬間の所持者を選んで朝を迎える。
つまり。
「ゼフだ」
私は外套をひっつかむように羽織り、書記局の挨拶も無視して飛び出した。市場の開門まではまだ時間がある。だが、ゼフが起きてどこへ行くか、私は正確には知らない。
だから急ぐしかなかった。
迷宮市場が開いた瞬間、私は真っ先に噴水の影へ走った。
鈴が鳴る。人波が崩れる。布が揺れる。
「鈴は三段」
少し荒い声になった。
返事は、すぐには来なかった。
心臓が悪く跳ねる。
遅い。遅すぎる。
もう一度。
「鈴は三段!」
今度は、柱の上から声が落ちた。
「朝から怒鳴るな、書記」
見上げる。
ゼフが梁の上に座っていた。片膝を立て、片手で私の墨手帳をぶら下げている。
私は息を吐くことすら忘れた。
「……返せ」
「やっぱり面白いな、これ」
ゼフはひらひらと振った。「起きたら懐に入ってた。寝る前に何か盗った覚えはないのに」
私は拳を握った。
「開いたか」
「開いた」
「読めたか」
「いや」
ゼフは肩をすくめた。
「黒い字は見えるけど、頭に入ってこない。読むってより、眺める感じだ。なのに普通紙を挟んでた頁だけはすんなり読めた」
ルツと同じだ。
私は一歩進み出た。
ゼフは手帳をひょいと背へ回し、にやりと笑う。
「代金」
「昨日払った」
「それは“持つ”代金だ。今朝のこれは“返す”代金」
私は奥歯を噛んだ。市場の理屈は面倒だ。だが、その面倒くささが今は頼もしくもある。世界が同じ朝を繰り返しても、ゼフはゼフの理屈で動く。それが手順になる。
「何が要る」
「一つ、忠告を買え」
私は眉をひそめた。
「何だ」
ゼフは笑いを消した。
「朝一番で、黒い外套の男がこれを探しに来た」
私は血の気が引くのを感じた。
「買うって言った。かなり高く。けど、おれは売らなかった」
ゼフは手帳を軽く叩いた。「だって、お前がこれを抱えてる時の顔の方が、よっぽど高そうだったからな」
ルツも気づいた。
終鐘の瞬間の所持者が、次の朝の持ち主になることに。
私は低く言った。
「代金は」
「今日の釣り針一つ」
「分かった」
ゼフは満足げに頷き、ようやく手帳を投げ返した。
私は両手で受け止めた。皮の重みが胸へ戻る。戻るだけで、膝が少し笑う。
「大事にしろよ、書記」
ゼフが言う。
「次は、もっと上手く盗られる」
その言葉を、私は笑えなかった。
墨手帳を抱えたまま、私は市場の雑踏の中で小さく呟いた。
「所持者の規則……」
終鐘の瞬間に誰が握っていたか。
それだけが、次の朝の置き場所を決める。
そしてルツも、それを知った。
私は噴水の影へ入り込み、墨手帳を開いた。黒砂墨は使えない。今はまだ市場の真ん中だ。
だから爪で、表紙の内側へ浅く引っ掻く。
――終鐘の所持者が次周の持ち主。
――ゼフで確認。
――ルツも気づいた。
傷は浅い。
けれど、今はそれで十分だった。




