読めない手帳
『読めないなら、奪うしかない。』
午前六時。第1鐘。
私は目を開けるなり、寝台の上で墨手帳を開いた。
皮の頁は冷たくも温かくもない。ただ、私が昨日までに払った時間だけを抱え込んでいる。
手首の百粒。黒い粒は二十二。
昨日、ヴァルドは言った。
――夢の最後に、白い輪の手が帳面に触る。
――読めなくて、苛立って、奪っていく。
私はその言葉を黒砂墨で書き留めた頁を見下ろした。
夢の断片。だが、断片は時に記録より正確だ。とくに、同じ場所を毎夜巡る者の悪夢は。
「なら、先に試す」
私は小さく呟き、手帳を閉じた。
読むのか。
読めないのか。
奪うだけなのか。
今朝の私は、それを確かめるために動く。
書記局の記録室で、私は細工をした。
竜皮の墨手帳の前半は、いつも通り黒砂墨の記録。
その中ほどに、今日だけ普通紙の挟み込みを作る。紙は終鐘で消える。だからこそ、今夜限りの餌には都合がいい。
私は普通の墨で、そこへわざと読みやすい字で書いた。
――今夜、旧採石場下の坑道から入る。
――灯り一つ、ひとり。
嘘だ。
今夜の本命は別にある。
次に、竜皮の頁へ黒砂墨で本当のことを書いた。
――東見張り段。
――二十一時半。二十七息。
――罠を見せて、読めるか試す。
二十七息。
ヴァルドが教えてくれた、東見張り段の交代の空白。祭前夜だけ、衛士が荷を持ち替える都合で生まれる短い穴。
正規記録にはない。夢を見る団長だけが知っている穴。
私は紙の挟み込みを、わざと少しだけはみ出させた。
手帳を閉じたときに、注意して見れば存在に気づける程度に。
気づく者だけが気づく餌だ。
胸の内に手帳をしまう。
こういう時、自分がどんどん書記ではなく罠師になっていく気がする。嫌だ、と思った。思ったことに少し安堵した。まだ嫌だと思える。
日中は、徹底して普通に過ごした。
ハルヴァンに帳簿を渡し、商会の数字を写し、聖歌院の照会状に印を押す。
セレスの目がまだこちらを向いているのは分かっていた。だから余計に、今日の私は“何も隠していない見習い”でいなければならない。
だが、胸の中の墨手帳は重かった。
紙の挟み込みが、やけに熱を持っている気さえする。
終鐘で消える紙。
今夜しか機能しない餌。
夜が来る。
私は東見張り段へ向かった。終鐘楼の外周、衛士が交代のたびに荷を持ち替える狭い踊り場。表からは見えにくく、塔の影がちょうど折れる位置だ。
ヴァルドの言った通りなら、二十一時半の瞬間だけ、そこは二十七息ぶん空く。
階段を上がり、影へ入る。
石は冷たい。
手すりには白い粉が薄く残り、指先に冷気が移った。
下で鍵束が鳴る。
衛士の短い呼び声。
荷の擦れる音。
今だ。
私は踊り場へ足を踏み出し、わざと手帳を外套の合わせ目から少しだけ覗かせた。
胸元の重みが、夜気の中でやけに鮮明だ。
「用心深いな」
声がした。
背後ではない。前方。
影の折れ目に、もう立っていた。
ルツ。
黒い外套。指先の外れた手袋。白い鐘の指輪。
東見張り段へ来ると、こちらが知らせなくても知っていたみたいに自然な立ち方だった。今日の行き先が読まれているのか、それともここが“釣り場”だと向こうも分かっているのか。
私は一歩も引かなかった。
引けば、挟み込みの紙が揺れる。揺れれば、餌だと伝わる。
「今日の質問は?」
ルツが静かに言う。
「質問じゃない」
私は胸元から手帳を半分だけ引き出した。「確認」
ルツの視線が落ちる。
白い指輪の縁が、わずかに光った。
「それを大事にしている」
「読まれたくないから」
「読めると思っているのか」
私はそこで、あえて手帳を開いた。
黒砂墨の頁を見せる。東見張り段、二十七息、と書いた本当の頁だ。紙の挟み込みは、そのすぐ後ろに隠れている。
ルツの目が頁へ落ちる。
だが、奇妙なことが起きた。
彼の視線は、黒砂墨の文字の上を滑った。
読む目ではない。形は見ている。だが意味へ掴みつけていない。
一瞬の苛立ちが、その目の奥でだけ光る。
次の瞬間、ルツの手が伸びた。
速い。
私は避けきれず、手帳を半ばもぎ取られる。
「――!」
皮の表紙が指から抜ける。
ルツは手帳を開いたまま数頁を繰り、その途中で普通紙の挟み込みを見つけた。
その時だけ、彼の指が止まる。
私はそれを見た。
見てしまった。
黒砂墨の頁では止まらない。
紙で止まる。
「旧採石場か」
ルツが低く言った。
「ずいぶん素直な餌だ」
私は心臓が嫌な打ち方をするのを感じた。
彼は紙は読める。普通の文字なら。
だが今、開いていたのは黒砂墨の頁だった。そこに書いてあったのは東見張り段、二十七息。
それには触れなかった。
「今、開いてた頁に何が書いてあった?」
私は思わず聞いた。
ルツは目を上げた。
一瞬だけ、沈黙。
それだけで十分だった。
「……お前、試したな」
彼は小さく笑った。だが笑いは冷たかった。「趣味が悪い」
答えない。
読めていない。
私は一歩踏み込み、彼の手首を掴んだ。
手帳を取り返すためというより、その反応を確かめるために。
冷たい。
白鐘の匂い。
けれど今日は毒のしびれは来ない。ルツもまた、今は“試し”に来ている。
「読めないんだな」
私が言うと、ルツは表情を消した。
そして、紙の挟み込みだけを引き抜いた。
「だが、止めることはできる」
そう言って、彼は墨手帳本体をこちらへ投げ返した。
私は反射で受け取る。
竜皮の重み。
普通紙は、もう彼の手にある。
その隙に、下で荷の音が止まった。
二十七息の空白が終わる。
ルツは階段の影へ半歩下がった。
「旧採石場で待つとしよう」
紙片を指の間で揺らしながら、彼は言う。
「お前が来るなら、だが」
私は何も答えなかった。
答えれば、罠の意味が薄れる。
足音が近づく。衛士だ。
私は手帳を懐へねじ込み、踊り場を離れた。ルツも反対側の影へ溶ける。
二人とも、ここで騒ぐつもりはない。
私はその夜、すぐには旧採石場へ向かわなかった。
終鐘までの時間を測り、あえて遅らせた。
もしルツが紙を信じるなら、先にそこへ行く。
もし黒砂墨を読めているなら、こんな単純な餌には乗らない。
夜の石工通りへ近づく。
遠くから様子を見る。月明かりの下、旧採石場脇の裂け目の近くに、白い粉が新しく撒かれていた。
待ち伏せだ。
しかも、坑道の口の周囲だけ丁寧に。
紙に書いた通りの場所へ、彼は確かに来た。
私は息を吐いた。
安堵ではない。確信だ。
ルツは黒砂墨を読めない。
普通紙の餌には乗る。
だから、手帳を丸ごと奪って“使わせない”方向へ来る。
その瞬間、ヴァルドの夢の続きが、急に現実味を持った。
白い輪の手。読めなくて苛立ち、奪っていく。
私は踵を返し、終鐘が来る前に記録室へ戻った。
黒砂墨を一滴だけ出し、手帳へ書く。
――ルツは黒砂墨を読めない。
――視線が滑る。紙でだけ止まる。
――普通紙の餌に乗った。
――次は本体ごと奪いに来る。
書き終えたあと、私はしばらく頁を見つめた。
墨の傷は残る。
だが、残るからこそ奪われる。
次の周、私はその先を試さなければならない。
終鐘の瞬間に誰が手帳を持つか。
深夜零時。終鐘。
骨の裏で音が鳴り、私は手帳を胸に抱いた。
抱きながら、次の周の方が今夜よりずっと危険だと理解していた。




