夢を見る衛士団長
『夢は明日へ届かない。だが、同じ悪夢は人の足を同じ場所へ運ぶ。』
午前六時。第1鐘。
私は目を開くなり、墨手帳を胸から引き出した。
昨夜、旧採石場の下で見つけた古い坑道。白鐘合金を混ぜた封。黒砂の粒。下から上がってきた、あの“暖かい息”。
塔の下にも道がある。
しかも、その道はもう誰かが使っている。
手首の腕輪を見る。黒い粒は二十一。
一日二十一回ぶんの朝。数字が増えるほど、誰かと協力しなければ届かない場所が増えていく。
私は手帳の新しい頁へ書いた。
――坑道は一人では足りない。
――塔の中の動きを知る者が要る。
――鍵束を持つ者。巡回を知る者。
そこでペン先が止まる。
思い浮かぶ顔は、まだ会ってもいない男だった。
鐘守衛士団長、ヴァルド。
書記局の記録簿で何度も見た名。
祭前牢の巡回報告にも、終鐘楼の交代表にも、その名は上から三番目に出てくる。現場に出る団長だ。机で命令だけ飛ばすタイプじゃない。
私は決めた。
今日はヴァルドに会う。
午前のうちに、私は守衛士団の詰所へ向かった。
終鐘楼の外周、影の際に建つ石造りの詰所。壁には槍が立てかけられ、床には靴底の泥ではなく、白い粉の跡が多い。塔の内側へ出入りしている者の靴だけが持ち込む粉だ。
詰所の前庭では、衛士たちが短槍の素振りをしていた。
号令は低く、動きは無駄がない。その中央にいた男が、すぐにヴァルドだと分かった。
背が高いわけではない。
だが、肩幅と立ち方に“塔を背負っている”重さがあった。頬に古い傷。顎は角ばり、視線は鋭い。鍛えたというより、削って残った顔だ。
彼は訓練を止めさせ、木槍を受け取りながらこちらを見た。
「書記局の顔だな」
第一声がそれだった。
「何の用だ」
私は息を整えた。
いきなり夢の話をしても、変人か異端か、どちらにせよ追い返される。先に“当てる”必要がある。
「確認したいことがあります」
「確認?」
「今夜、二十一時半」
私は彼の目を見たまま言った。「祭前牢の副錠が噛みます。鍵が一度で回らない。あなたは自分で見に行く」
ヴァルドの表情は、ほとんど変わらなかった。
だが、木槍を持つ左手の親指がほんのわずかに止まる。
「……誰に聞いた」
「聞いていません」
「では何で知ってる」
私は答えず、代わりに言った。
「今夜、確かめてください」
詰所の空気が冷えた。
周りの衛士たちがこちらを見る。私は一歩も動かず、その視線を受けた。逃げれば、それだけで終わる。
ヴァルドは木槍を部下へ返し、短く言った。
「散れ」
訓練中の衛士たちが去る。
前庭に、私とヴァルドだけが残った。
「書記」
彼は低い声で言った。「お前の言ってることは、気味が悪い」
「知っています」
「それでも話しに来た理由は」
「あなたが、夢を見るからです」
初めて、彼の顔が変わった。
ほんの一瞬だけ。目の奥の筋肉が硬直した。否定より先に身体が反応した顔だ。
私はそこで確信した。
ヴァルドは黙った。
沈黙は重かったが、敵意一色ではなかった。測っている。
私が何を知っていて、どこまで踏み込んでいるのかを。
「……今夜だ」
彼は最後にそう言った。「外れたら、次は拘束する」
十分だった。
私は頷き、その場を離れた。
夜。二十一時二十九分。
私は祭前牢の外廊下の影に立っていた。正規の立場ではない。書記がいるべき場所ではない。
それでもここへ来たのは、答え合わせのためだ。
看守が副錠を回す。
一度。回らない。
二度。金属が嫌な音を立てて止まる。
看守が舌打ちし、上へ向かって怒鳴った。
「団長!」
私は息を止めた。
次の瞬間、上階の通路からヴァルドが降りてくる。早い足取り。顔は無表情だが、目だけが鋭い。
彼は鍵を受け取り、副錠へ差し込んだ。やはり一度で回らない。二度目で噛み、三度目で開く。
その一連の動きが終わったところで、ヴァルドはゆっくりこちらを見た。
「……来い」
私は階段裏の狭い通路へ導かれた。
湿った石壁。外から見えない位置。牢の音が下から響く。
ヴァルドは腕を組み、低く言った。
「今のを、誰から聞いた」
「前にも見た」
「いつ」
私は少し迷った。
ここで全部を言えば、たぶん彼は私を聖歌院へ渡す。だが一つも言わなければ、もう次はない。
「昨日」
私は答えた。
ヴァルドの眉が寄る。
「昨日の副錠は噛んでいない」
「あなたの“昨日”ではなく、私の昨日です」
言葉が落ちる。
通路の冷気よりも重い沈黙。
ヴァルドはしばらく私を見ていた。
それから、壁へ背を預け、低く息を吐いた。
「……三日続けて、同じ夢を見ている」
私は何も言わなかった。
彼は自分の言葉に、自分で苛立っているようだった。
「塔の階段だ。白い粉が撒いてある。二十一段目で足を止める。止めた先に、白い輪をした手が見える。顔は見えない。だが、いつもそこで目が覚める」
彼は顎を引き、私を見た。「今夜、お前を見た時、その夢の階段の匂いがした」
私は背中に冷たいものが走るのを感じた。
ヴァルドは保持者ではない。
だが、塔の近くにいて、何度も同じ場所を巡回し、終鐘の反転に一番近い男だ。夢の断片だけが染みている。
「夢は、全部じゃない」
私は静かに言った。「でも断片は残る。足を止める癖とか、喉のつかえとか、見たことのないはずの階段の数とか」
ヴァルドは短く頷いた。
「認めたくないが、その説明が一番しっくり来る」
彼は腰の鍵束を鳴らした。
小さな金属音が、湿った通路に短く跳ねる。
「俺が今ここでお前を捕らえることもできる」
「できます」
「だが、そうするとたぶん……この夢の続きを、別の形で見る」
彼の声は低いままだったが、そこに迷いが混じっていた。
私はそこで初めて、一歩だけ近づいた。
「知りたいんです」
「何を」
「夢の続きを。私も」
ヴァルドは私を見下ろした。
そして、長い沈黙のあとで、鍵束から一本だけ細い鍵を外し、掌の上に置いた。渡すのではなく、見せるだけ。
「東側の見張り段。祭前夜だけ、二十一時半の交代で二十七息ぶん空く」
彼は言った。「正規の記録には書いていない。階段の片方に癖があって、交代のたびに荷を持ち替えるからだ」
私はその数を頭に刻んだ。
二十七息。
「ただし」
ヴァルドは鍵を戻し、表情を硬くした。「俺は味方じゃない。次に俺へ来る時は、また何か当てろ」
条件。
それでいい。味方でなくていい。毎周、同じ手順で“使える”なら。
私は頷いた。
その時、ヴァルドがふと顔をしかめた。
夢の痛みを思い出した人間の顔だった。
「夢の最後に、もう一つだけある」
彼は低く言った。
「白い輪の手が、お前みたいな小さい帳面に触る」
私は息を止める。
「だが、読むんじゃない。読めなくて、苛立ってる。……そして奪っていく」
墨手帳。
私の背筋が一気に冷えた。
ルツは読めない。だが、奪う。
もし終鐘の瞬間に手帳を奪われたら――。
私はヴァルドの顔を見た。
彼はそれ以上は言わなかった。言ったところで、自分でも意味を説明できないのだろう。夢は断片だけを残す。
「借りは返した」
ヴァルドは通路の外を顎で示した。「行け」
私は一礼もせず、ただ短く頷いて影へ戻った。礼を言えば、この関係が“情”になる。情はループでは残らない。残るのは手順だけだ。
外気へ出た瞬間、胸の内で墨手帳が重くなった。
奪われる。
ルツはそれを狙ってくる。読めなくても、持ち去れば止められる。
私はその夜、記録室に籠もり、真っ先に黒砂墨を一滴だけ使った。
――ヴァルド:夢を見る。
――二十一段目、白い輪の手。
――東見張り段、交代で二十七息の空白。
――夢の最後:手帳を奪われる。
そこまで書いて、私は手を止めた。
終鐘が近い。
今夜は、ただ死んで戻るだけでは足りない。
手帳をどう守るかを考えなければならない。
私は皮の表紙を指で押さえ、低く呟いた。
「読めないなら……盗むしかないよね、ルツ」
終鐘楼の方角で、遠く小さく、ちん、と何かが鳴った。




