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音写貝

『歌は音ではなく、息の止まり方で鍵になる。』

午前六時。第1鐘。


私は寝台の上で息を止めたまま、天井板の節目を数えた。

一、二、三。

それから右手首を見た。百粒の腕輪。黒い粒は十九。


昨日、私は白糸を机に結ばれ、セレスに「観察対象」と告げられた。

そして次に狙うべきものを決めた。


音を盗む。


墨手帳を開く。昨日の最後の一行が、皮の上でまだ黒い。


――次は、音を盗む。


私はその字をなぞり、顔を洗い、袖の縫い目に手帳を差し込んだ。

白糸は消えている。世界はちゃんと戻った。戻ったからといって、疑いまで消えるわけではないが、少なくとも今日の朝はまだ誰の目にも留まっていない。


廊下へ出る。

白い鐘の落書きは、今朝も新しい言葉を増やしていなかった。

それでよかった。今日は、誰かの指図より先に、自分の手順で動きたかった。


午前十時。迷宮市場。


鈴が三段に鳴る。

私は噴水の影へ入り、小さく言った。


「鈴は三段」


布の向こうから、すぐに返る。


「指は黒」


ゼフは今日もいた。

市場の時間は、人の記憶ではなく癖で動く。だから正しい場所に正しい声を落とせば、味方は毎周“そこにいる”。


「今日は何を買う?」

ゼフは柱にもたれ、黒糸を指に巻きつけたまま笑った。「地図は前に渡した。喉の道か、砂の道か、それとも死にやすい近道か」


「音を残す道具が要る」

私が言うと、ゼフの目がわずかに細くなった。

「紙じゃだめか」

「だめだ。紙は息を覚えない」


その答えに、ゼフは短く息を吐いた。

「高い買い物だな」

「今日の釣り針ならある」


私は声を落とした。

「午後二時十二分、西魚路の天秤が折れる。塩漬けの荷が全部こぼれる。衛士は二人、掃除に回る。南の倉庫帯が七分空く」


ゼフは黒糸の鈴を一度鳴らした。

承諾の音。


「ついて来い」

彼は歩き出す。「ただし、今日はおれの後ろを歩くな。横を歩け。後ろを歩く奴は、たいてい追っ手だ」


市場の奥へ。

魚の臭い、香油、偽物の銀粉、黒砂を薄めた墨、聖歌院から流れた古鈴。音の多い通りを二つ抜け、最後に布で塞いだ狭い隙間へ入る。そこだけ、鈴が鳴っていなかった。音が少ない場所は、市場では逆に不自然だ。


布の向こうは、貝殻の匂いがした。潮の匂いではない。乾いて白くなった殻の匂い。

棚に、大小の貝が並んでいる。磨かれたもの、罅の入ったもの、内側に銀の粉を塗られたもの。店番は、皺の深い老婆だった。片目だけが妙に澄んでいる。


「欲しいのはどれだい」

老婆は私ではなく、ゼフに聞いた。

「この書記が“息を残したい”んだとさ」

ゼフが言うと、老婆はようやくこちらを見た。


「息を?」

「歌を」私は言い直した。

「歌なら耳で覚えりゃいい」

「耳は裂ける」


その一言で、老婆の澄んだほうの目が少しだけ変わった。

「……ああ。そういう裂け方か」


私は何も答えなかった。

答えなくても、老婆は引き出しから小さな白い貝を取り出した。手のひらに乗るくらいの、薄い二枚貝だ。継ぎ目のところに銀の留め金がついている。


「音写貝」

老婆は言った。「歌そのものは全部は残らない。残るのは、最初の息、最初の音、最初の沈黙だ」


私は喉の奥が冷たくなるのを感じた。

「沈黙も?」

「むしろそこだよ」

老婆は貝の口をわずかに開き、耳元で鳴らした。何も鳴らない。だが、何も鳴らないこと自体に圧がある。

「いい歌は音程じゃなく、“どこで息を止めたか”で鍵になる。聖歌院の連中はそれを隠したがる」


歌鍵。

私は思わず貝に手を伸ばした。老婆はすぐには渡さない。


「使い方」

彼女は言う。「開くのは歌の前。閉じるのは余韻の前。遅いと雑音を食う。早いと沈黙を食い損ねる」


「代金は」

私が問うと、老婆は笑った。


「貸すだけだよ。割ったら喉をもらう」

冗談には聞こえなかった。

ゼフが横で肩をすくめる。「市場では安い方だ」


私は音写貝を受け取った。

殻は思ったより温かかった。海ではなく、人の耳に長くいた貝の温度。


「一度しか使うな」

老婆は最後に言った。「二度目の歌を食わせると、最初の沈黙まで濁る」


昼過ぎ、私は西魚路の騒ぎを遠目に確認した。

天秤は確かに折れ、塩漬けの荷が石畳に散らばり、衛士が二人南へ走った。

ゼフはそれを見て、もう私の方を見もしなかった。取引が終わった目だ。


私はその隙に聖歌院へ向かった。


正面ではなく、裏手の奉納廊下。

祭の前日は出入りが多く、侍女や小姓が祭具を運んでいる。私は記録係のふりで帳面を抱え、その列に紛れた。帳面の内側に、音写貝を隠している。


礼拝堂の脇、合唱隊が並ぶ位置の下手に、灯明台の陰がある。

私はそこで足を止め、帳面を開くふりで貝を置いた。銀の留め金を、ほんのわずかに開く。


あとは待つ。


ミラが現れた。

喉の銀の輪。白い顔。掠れかけた声。

彼女は列の端に立ち、息を吸う。


今だ。


私は指先で貝をそっと押さえた。

音が始まる。


一音。

二音。

三音。


だが私が本当に背筋を凍らせたのは、その後だった。

ミラの声が途切れた一瞬、礼拝堂の空気が“止まる”。誰も息をしていないみたいな沈黙がある。音写貝の殻が、その無音にだけ震えた。


(これだ)


私は余韻が膨らむ前に、銀の留め金を閉じた。

貝の内側で、何かが小さく鳴った。音ではない。息がしまわれる音だ。


祈りが終わると同時に、私はその場を離れた。

誰にも止められなかった。止められなかったことが、かえって不気味だった。ルツが見ているなら、わざと通した可能性がある。


夜、記録室。


私は扉を閉め、灯りを落とし、音写貝を机に置いた。

墨手帳を開く。黒砂墨を一滴だけ使う準備をする。先に書くのではない。まず聴く。


銀の留め金を開く。


……ふ、と、小さな吸気。

次に、ミラの導入三音。

そして。


無音。


無音のはずなのに、そこに圧がある。肺を止められる。喉の奥が勝手に閉じる。

沈黙が“形”を持っていた。


私は思わず椅子の背に手をかけた。

音程は覚えられる。

だが、この“止まり方”は、耳だけでは覚えきれない。


急いで墨手帳へ書き取る。


――音写貝:最初の息/三音/無音の圧。

――歌鍵は音より“間”。

――閉じるのは余韻の前。


そこまで書いて、私はようやく息を吐いた。

取れた。

少なくとも、形の一部は取れた。


その時だった。


机の上の音写貝が、勝手に震えた。


私は凍りついた。

留め金は閉じている。もう開いていない。

なのに、殻の継ぎ目から、すう、と冷たい息が漏れる。


次の瞬間、貝がひとりでに鳴った。


三音。

ミラの導入旋律。

そして沈黙。


その沈黙の底に、もう一つ別の“吸気”が重なっていた。


深く、大きく、喉ではなく空洞全体で吸う音。

まるで、礼拝堂の向こうではなく、塔のもっと下で何かが呼吸したみたいな。


私は椅子を蹴るように立ち上がった。

記録室の空気が一瞬で冷え、蝋燭の炎が横へ引かれる。


終鐘が近い。


私は反射で音写貝を押さえた。

殻は氷みたいに冷たくなっている。


「……何を食ったんだ」


答えはない。

ただ、貝の中にもう一つの息がいる。


深夜零時。終鐘。


骨の裏で、世界が鳴った。

私は音写貝を握ったまま、墨手帳の頁が巻き取られないことだけを祈った。

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