死に戻りの合図
『死ななくても終わるなら、逃げ場はどこだ。』
午前六時。第1鐘。
同じ音が、同じ骨の位置を叩いた。
私は跳ね起き、息を整えるより先に右手首を見た。百粒の輪。外れない輪。昨夜――いや、さっき硝子港の路地で見た白い指輪と冷たい衝撃が、まだ喉の奥に残っているのに、体は無傷で、心臓だけがやけに速い。
百粒のうち、一粒だけが黒い。
墨を落としたように、静かに黒い。
「……夢じゃ、ない」
呟く声が掠れた。掠れたのは恐怖のせいか、それとも今の私がまだ“死の続き”にいるからか。私は輪を掴んで引いた。動かない。指をねじ込んでも、爪を立てても、輪は肌と一緒にそこにある。金属の冷たさも、骨の硬さもないのに、皮膚より確かだ。まるで“私の一部”として最初からそうだったみたいに。
廊下から聞こえた。
「リース。生きてるなら運べ」
昨日と同じ声。昨日と同じ間。
それだけで、吐き気が喉元まで上がってきた。もし扉を開けた瞬間に景色が崩れ、私は本当に狂ってしまうのではないか――そんな気がした。だが扉を開けなければ、確かめようがない。
私は扉を開けた。
冷えた石廊下。灰色の封蝋。評議会の紋章。聖歌院の小さな印。
布告の文字の癖まで、同じだった。
ハルヴァンが帳簿の束を放って寄越した。受け止めた紙の重みも同じ。私は反射で「はい」と言いかけて、飲み込んだ。ここで返事を変えたところで、世界が揺れるわけではない。それなら――先に確かめるべきものがある。
「……ハルヴァン。今日は、何日だ」
ハルヴァンは一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに呆れた顔になった。
「灰月祭の前日。寝ぼけてるなら顔洗え。今夜は審問が始まる。余計なこと考えるな」
余計なこと。
私が見た死と、この輪は、余計なことなのか。
私は束を机の上に置き、書記局の片隅にある小さな記録室へ滑り込んだ。誰にも見られない場所。紙と埃の匂いが濃い場所。私は鍵を掛け、机に向かい、まず深呼吸を一つした。
書記は、現実を信じる職だ。
信じると言っても、祈りではない。検証だ。
私は机の引き出しから小刀を取り出し、天板の端に刃を当てた。ためらいはなかった。現実が繰り返すなら、机は“戻る”はずだ。戻らないなら、私は本当に狂っている。
ギ、と小さく木が鳴った。
私は天板に一本の傷を刻んだ。文字ではなく、ただの線。書き手の癖が出ないように、できるだけ真っ直ぐに。
次に壁の石の継ぎ目へ、爪で小さな欠けを作った。最後に紙片へ「六時」「死」「戻る」とだけ書き、机の隅に置いた。紙片は……消える気がしたが、念のためだ。
「よし」
腕輪の黒い粒をもう一度撫で、私は記録室を出た。
今日、私は硝子港へ行かない。
死なない。
死んで、また戻るなど――考えただけで胃が捻れる。
それでも世界が繰り返すなら、“死”以外の合図があるはずだった。私の死が引き金なら、私は引き金を引かなければいい。だが、もし引き金が別にあるなら――逃げようがない。
私は丸一日、書記局から出ないと決めた。
運搬はハルヴァンに「腹が痛い」と押し付けた。怒鳴られたが、仕事は回った。灰月祭の前日は誰もが忙しく、ひとりの見習いの顔色など見ていられない。そういう意味では、都はいつでも私に優しくない。
午前八時半。聖歌院の朝祈祷の合唱が、窓の外をかすめていった。昨日と同じ旋律。風の強さまで同じ気がする。私は耳を塞がなかった。歌が何かを変えるなら、変わるはずだ。変わらないなら、ただの音だ。
音はただ、私の背骨を撫でて消えた。
正午。鐘下街の方角が少し騒がしくなる。
午後。迷宮市場の喧噪が遠くに膨らみ、また萎む。
夕方。硝子港から吹く風が冷え、ガラス船の鳴き声が窓ガラスの縁で震えた。
すべてが、昨日と同じ順番で流れている。
同じということは、予測できるということだ。
予測できるなら、私は安全だ――そう思いたかった。
だが、夕方になっても手首の輪は外れず、黒い粒は増えず、減りもせず、ただそこにあるだけで、私の神経を削った。
私は何度も記録室に戻り、天板の傷を指でなぞった。線はそこにある。壁の欠けもある。紙片もある。少なくとも、今日はまだ“昨日の続き”だ。
夜。書記局の廊下は静まり、布告の紙だけが風でわずかに鳴った。
遠くで、鐘下街の方がざわつく。審問官セレスの摘発が始まったのだろう。怒鳴り声、泣き声、槍の打ち鳴らし。私は窓から目を逸らした。今夜、誰が捕まろうと、明日には――。
明日。
その言葉を考えた瞬間、喉が乾いた。明日は来ないのかもしれない。私だけが来ないのかもしれない。都全体が来ないのかもしれない。
私は眠れなかった。眠るのが怖いのではない。眠っている間に“合図”が来たら、見逃すからだ。私は蝋燭を追加し、濃い茶を淹れて喉へ流し込み、机に頬杖をついた。書記の手は、夜更かしに慣れている。慣れているはずだった。
時刻は、書記局の水時計で分かる。砂ではなく水が落ちる。黒砂と違い、こちらは燃えない。燃えないものは、都では信用されない。だが今夜だけは、燃えないことがありがたかった。
午後十一時四十分。
都が、ほんの少しだけ息を吸う気配がした。窓の外、終鐘楼の影が濃くなる。灰月が雲の切れ目から覗き、月光が机の上の文字を白く浮かせる。紙の白さが骨に近い色へ変わる。
午後十一時五十分。
私は立ち上がり、記録室へ入った。鍵を掛ける。机の傷を確認する。壁の欠けを指で押す。紙片を掌で覆う。
現実よ、動くな。
私の目の前で、動くな。
午後十一時五十九分。
終鐘楼の方向が、暗い。闇ではない。暗さが“固い”。
空気が粘り始め、蝋燭の炎が引っ張られる。煙が上ではなく横へ流れる。
紙が、一枚だけ、机から浮いた。――逆に、落ちたのではない。浮いたのだ。私の指が震え、紙片を押さえる掌に汗が滲んだ。
深夜零時。終鐘。
音は、耳ではなく歯の裏で鳴った。
「ごん」と一撃、世界が叩かれる。次の瞬間、叩かれたはずの音が、引き戻されるように消える。鐘の余韻が伸びるのではない。余韻が“巻き取られる”。私は反射で机の端を掴んだ。掴んだ感触が遅れて来る。時間が、私の手を置き去りにする。
蝋燭の炎が逆立った。
滴った蝋が、机へ戻っていく。
水時計の水が、上へ昇っていく。
紙片の文字が、滲み、ほどけ、白へ戻る。
「やめろ……!」
叫びは声にならなかった。声が口から出る前に、声が喉へ吸い戻される。私は机の傷へ爪を立てた。壁の欠けを抉ろうとした。だが指先の力が、世界の流れに逆らえない。
木の傷が、滑らかに埋まっていく。
石の欠けが、元の角へ戻っていく。
まるで、私が今日を生きたことだけが“間違い”で、世界が正しい形へ戻ろうとしているみたいだった。
最後に残ったのは、手首の輪の重みだけだった。
輪は戻らない。輪だけが、世界の反転から取り残されている。私はその感触にしがみつくように目を閉じた。
――午前六時。第1鐘。
私は仮眠室の寝台で息を吸い込んだ。
肺に入る空気が冷たい。紙の匂い。天井板の節目。机の上の書類。
同じだ。完璧に同じ。
私は跳ね起き、記録室へ駆けた。廊下を走る足音が自分のものだと、なぜか信じられない。鍵を開け、扉を押し開け、机へ飛びつく。
天板の端に刻んだはずの線は、なかった。
壁の欠けも、なかった。
紙片は、白紙のまま机の隅に置かれていた。昨夜、私が握り潰したはずの皺すらない。
「……全部、戻る」
私は喉を鳴らした。笑いではない。吐き出せない空気の音だ。
死ななくても、終わる。
終わりが来れば、戻る。
逃げ場は――ない。
手首を見た。百粒。
一粒黒いままだと思った。だが、黒いのは二粒だった。昨日の死、そして今夜の終鐘。二つ。私は指先で二粒をなぞり、冷えた汗が背中を伝うのを感じた。
その時、廊下で紙が擦れる音がした。布告を貼り替える音だ。朝の作業。いつも通り。
私はふらつく足で廊下へ出た。
壁の布告の列、その端。
昨日――いや、さっきの朝にはなかったはずの白い線が、石に描かれていた。
小さな鐘の形。
白い粉で描いたみたいに、輪郭だけが残る鐘。
誰が? いつ?
都が毎回同じなら、こんなものは残らないはずだ。残るなら、それは――。
私は鐘の落書きに指を伸ばしかけて、止めた。触れた瞬間に消えるのが怖かった。触れた瞬間に、私の方が消えるのが怖かった。
落書きの下に、さらに細い線が一本引かれている。まるで、返事を書くための空白みたいに。
私は息を呑んだ。
この都のどこかに、私と同じように“戻っている”何かがいる。
そしてそれは、私に――話しかけている。




