審問官セレス
『紙の上の罪は消せても、疑いの置き方は消えない。』
白い粉が柱に付いているのを見た瞬間、背中の内側が冷えた。
礼拝堂の白い石柱、その影の付け根に、細い擦れ跡。
白鐘合金を削った時にだけ残る、冷たい粉。
ルツはここにいた。少なくとも、ここを見ていた。
私は反射で視線を伏せた。伏せたところで遅い。見つけたという事実が、たぶんもう顔に出ている。
「何を見つけたのですか」
声がした。
低く、乾いていて、刃先みたいに薄い声。
私は振り向かなかった。振り向く前から分かっていた。
この声は、歌の鎖とは違う。音で縛るのではなく、問いそのもので相手の逃げ道を狭める声だ。
ゆっくりと振り返る。
黒い法衣。銀の糸。胸元に吊るされた細い聖鈴。
顔立ちは端正というより、削りすぎた石像に近い。余計な肉が一切ない。視線だけが異様に生きていて、人の表情ではなく“ほころび”を見ている。
審問官セレス。
名を知らなくても、この都でその目だけは見分けがつく。
「……別に」
私は言った。喉が少し乾く。
「柱の汚れが気になっただけ」
セレスは私の答えを聞き、否定もしなければ頷きもしなかった。
ただ、私の顔から指先、袖口、靴の泥、そしてもう一度顔へと、順番に視線を滑らせた。
調べているのではない。並べている。手元の情報と、目の前の私を。
「書記局の見習いが、合唱隊の控え口まで来る理由としては弱いですね」
「祈祷を聞きに来ただけです」
「祈祷を聞きに来た者は、柱の根元を見ません」
言い返せなかった。
そういう類の男だ。ひとつひとつは小さい事実を、逃げ道のない順番に積んでくる。
私は目を逸らさず、代わりに一歩だけ礼拝堂の出入口側へ体をずらした。逃げるためではない。逃げる気があるように見せないためだ。
セレスの視線がそれを見逃すはずもない。
「あなたは昨日も来ていましたか」
「いいえ」
「今朝、小姓の一人が“昨日も来た”と口走った」
彼は静かに言った。「奇妙でしょう。彼は昨日、誰にも同じ言葉を言っていない」
ミラの歌。
私は心臓が一拍だけ重く打つのを感じた。
セレスの目が、ほんのわずかに細くなる。
「今、脈が速くなった」
私は奥歯を噛んだ。
この男はルツとは違う。命題を打ち込んだり、毒で世界をずらしたりはしない。
代わりに、人間のほころびを見つけることにかけては、都でいちばん上手い。
「あなたの仕事は、帳簿でしょう」
セレスは続けた。
「なら、歌い手の喉ではなく、紙の方だけ見ていればいい」
言葉は柔らかいのに、中身は命令だった。
私は短く頭を下げ、その場を離れた。離れるしかなかった。ここで粘れば、ミラに視線が戻る。戻った視線は、喉を裂く。
礼拝堂を出る時、私は一度だけ振り返った。
合唱隊の列の端で、ミラが喉元を押さえている。目は伏せられている。今のやり取りを、聞いていたのかどうかも分からない。
けれど、セレスは聞いていた。
私の沈黙も、ミラの呼吸も、小姓の引っかかりも。
正午を少し回った頃、書記局の空気はさらに悪くなった。
聖歌院の執行者が二人、正面から入ってきたのだ。
黒い外套、銀の糸、白い封蝋のついた照会状。
ハルヴァンがそれを受け取った瞬間、眉間に深い皺が寄った。
「何だって?」
「訪問記録、奉納受領簿、黒砂供給の記載照合です」
執行者は事務的に言った。「審問官セレスの命で」
書記局の何人かが私を見た。
見たというより、思い当たった顔をした。
商会の小箱が届いた日。納品帳のずれ。祭前礼の朝に聖歌院へいた私。点が増えたのだ。
私は机に向かったまま、平静を装って紙をめくった。
手が震えるのを悟られたくなかった。だが震えは、書記にとって最悪の証拠だ。字の端に全部出る。
ハルヴァンが低い声で言った。
「リース。お前、何をした」
「何も」
「何もしてない奴に、聖歌院と商会が同時に照会をかけるか?」
正しい。
正しすぎて腹が立つ。
執行者の一人が、私の机の前へ来た。
「今朝、どこにいましたか」
「書記局です」
「八時半から九時まで?」
私は口を開き、閉じた。
嘘は書ける。だが、いまこの場の嘘は紙に残らない。残らない嘘は、すぐに詰む。
「……聖歌院です」
正直に答えた方が、まだ傷が浅いと判断した。
執行者は頷きもしない。ただその返答を、紙ではなく自分の中の帳簿へ置いた。
「記録室も見ます」
「待ってください」
思わず声が出た。
まずい、と思った時には遅い。
二人の視線が揃って私へ向いた。
黒砂墨。
墨手帳。
いま記録室へ入られれば、最悪だ。墨手帳そのものは竜皮でただの古い帳面に見えるかもしれない。だが、見つからない保証はない。黒砂墨の匂いは強い。ルツは読めない。だが、セレスは“読む必要すらなく疑う”男だ。
「なぜ待てと言うのですか」
低い声。
私はすぐに答えられなかった。答えは一つしかないからだ。
――そこに困るものがある。
言えない。
その沈黙だけで十分だった。
「開けてください」
執行者が言う。
私は鍵を渡した。渡すしかなかった。
扉が開く。棚。帳簿。封蝋の割れた小箱。
黒砂墨の匂いが、ほんのわずかに立つ。
執行者はそれを嗅ぎ取り、無言で顔を上げた。
「……見習いが、ずいぶん深い場所まで手を伸ばしていますね」
背中に汗が流れた。
ここで墨手帳を出されれば終わる。
だが幸い、私は今朝、それを衣の内側の隠し縫い目へ差し込んでいた。ドーラの工房へ行った日から、手帳を棚に置くのをやめていた。残るものは、目の前に置くべきじゃない。
執行者は墨壺、小箱、封蝋の破片を見て、最後に私の机へ戻った。
「審問官がお呼びです」
「今から?」
「いえ。今日ではありません」
その答えに、私はわずかに違和感を覚えた。
今日ではない。
すぐに引っ立てるのではない。
拘束ではなく、泳がせるつもりだ。
その理由は、すぐ分かった。
夕方、書記局を出ようとした時、セレス本人が廊下の曲がり角に立っていた。
夕陽が背後から差し、顔の半分が影に沈んでいる。
私は立ち止まった。
「あなたを異端だと断じるには、まだ材料が足りません」
セレスは言った。
「けれど、偶然にしては線が重なりすぎる」
私は返事をしなかった。
返事は材料になる。
「商会。歌い手。記録室の黒砂墨」
彼は一本ずつ指を折るように言った。
「あなたは何かの中心に近い。だが、まだ自分でも全体を見ていない」
その言葉に、私の喉が冷えた。
見抜かれている。少なくとも半分は。
「今日から、あなたは観察対象です」
セレスは淡々と告げた。「次に合唱隊へ無断で近づけば、拘束します」
言い終えると、彼は私の机の縁へ、細い白い糸を一筋だけ結んだ。
聖歌院の監視印。
外から見れば些細な飾りにしか見えない。だが書記局の人間なら意味が分かる。――こいつは見られている。
セレスはそれだけして去った。
私は動けなかった。
糸は細い。
細いのに、首輪より重い。
夜、記録室。
私は扉を閉め、糸の意味を噛みしめた。
この周はもう動けない。
商会にも、聖歌院にも、鐘楼にも。セレスがこちらを見ている限り、何か一つ動けばすぐ線にされる。
負け筋だ。
ここから無理に動けば、長い死になる。高い死だ。
私は墨手帳を開き、黒砂墨で書いた。
――セレス、本格接触。
――私は異端ではなく「観察対象」。
――白糸の監視印。
――この周は捨てる。
――直接会えないなら、歌そのものを持ち出す道具が要る。
最後の一文の下へ、私は小さく書き足した。
――音を盗む。
音。
歌。
持ち運べる形にする道具。
前にどこかで聞いた。書庫か、市場か、禁書の端か。
音写貝。
私は小瓶の残りを飲んだ。苦味が舌に広がる。
短く終わらせる。
長く払わない。
意識が沈む直前、机の白糸が視界の端で揺れた。
まるで、次の周もそこに残っていそうに見えた。
午前六時。第1鐘。
私は飛び起き、机を見た。
白糸は、もちろんない。
だが手首の黒い粒は、十八から十九へ増えていた。
私は墨手帳を胸に押し当て、呟いた。
「次は、音を盗む」




