表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/24

審問官セレス

『紙の上の罪は消せても、疑いの置き方は消えない。』

白い粉が柱に付いているのを見た瞬間、背中の内側が冷えた。


礼拝堂の白い石柱、その影の付け根に、細い擦れ跡。

白鐘合金を削った時にだけ残る、冷たい粉。

ルツはここにいた。少なくとも、ここを見ていた。


私は反射で視線を伏せた。伏せたところで遅い。見つけたという事実が、たぶんもう顔に出ている。


「何を見つけたのですか」


声がした。

低く、乾いていて、刃先みたいに薄い声。


私は振り向かなかった。振り向く前から分かっていた。

この声は、歌の鎖とは違う。音で縛るのではなく、問いそのもので相手の逃げ道を狭める声だ。


ゆっくりと振り返る。


黒い法衣。銀の糸。胸元に吊るされた細い聖鈴。

顔立ちは端正というより、削りすぎた石像に近い。余計な肉が一切ない。視線だけが異様に生きていて、人の表情ではなく“ほころび”を見ている。


審問官セレス。

名を知らなくても、この都でその目だけは見分けがつく。


「……別に」

私は言った。喉が少し乾く。

「柱の汚れが気になっただけ」


セレスは私の答えを聞き、否定もしなければ頷きもしなかった。

ただ、私の顔から指先、袖口、靴の泥、そしてもう一度顔へと、順番に視線を滑らせた。

調べているのではない。並べている。手元の情報と、目の前の私を。


「書記局の見習いが、合唱隊の控え口まで来る理由としては弱いですね」

「祈祷を聞きに来ただけです」

「祈祷を聞きに来た者は、柱の根元を見ません」


言い返せなかった。

そういう類の男だ。ひとつひとつは小さい事実を、逃げ道のない順番に積んでくる。


私は目を逸らさず、代わりに一歩だけ礼拝堂の出入口側へ体をずらした。逃げるためではない。逃げる気があるように見せないためだ。

セレスの視線がそれを見逃すはずもない。


「あなたは昨日も来ていましたか」

「いいえ」

「今朝、小姓の一人が“昨日も来た”と口走った」

彼は静かに言った。「奇妙でしょう。彼は昨日、誰にも同じ言葉を言っていない」


ミラの歌。

私は心臓が一拍だけ重く打つのを感じた。


セレスの目が、ほんのわずかに細くなる。

「今、脈が速くなった」


私は奥歯を噛んだ。

この男はルツとは違う。命題を打ち込んだり、毒で世界をずらしたりはしない。

代わりに、人間のほころびを見つけることにかけては、都でいちばん上手い。


「あなたの仕事は、帳簿でしょう」

セレスは続けた。

「なら、歌い手の喉ではなく、紙の方だけ見ていればいい」


言葉は柔らかいのに、中身は命令だった。

私は短く頭を下げ、その場を離れた。離れるしかなかった。ここで粘れば、ミラに視線が戻る。戻った視線は、喉を裂く。


礼拝堂を出る時、私は一度だけ振り返った。

合唱隊の列の端で、ミラが喉元を押さえている。目は伏せられている。今のやり取りを、聞いていたのかどうかも分からない。


けれど、セレスは聞いていた。

私の沈黙も、ミラの呼吸も、小姓の引っかかりも。


正午を少し回った頃、書記局の空気はさらに悪くなった。


聖歌院の執行者が二人、正面から入ってきたのだ。

黒い外套、銀の糸、白い封蝋のついた照会状。

ハルヴァンがそれを受け取った瞬間、眉間に深い皺が寄った。


「何だって?」

「訪問記録、奉納受領簿、黒砂供給の記載照合です」

執行者は事務的に言った。「審問官セレスの命で」


書記局の何人かが私を見た。

見たというより、思い当たった顔をした。

商会の小箱が届いた日。納品帳のずれ。祭前礼の朝に聖歌院へいた私。点が増えたのだ。


私は机に向かったまま、平静を装って紙をめくった。

手が震えるのを悟られたくなかった。だが震えは、書記にとって最悪の証拠だ。字の端に全部出る。


ハルヴァンが低い声で言った。

「リース。お前、何をした」

「何も」

「何もしてない奴に、聖歌院と商会が同時に照会をかけるか?」


正しい。

正しすぎて腹が立つ。


執行者の一人が、私の机の前へ来た。

「今朝、どこにいましたか」

「書記局です」

「八時半から九時まで?」

私は口を開き、閉じた。

嘘は書ける。だが、いまこの場の嘘は紙に残らない。残らない嘘は、すぐに詰む。


「……聖歌院です」

正直に答えた方が、まだ傷が浅いと判断した。

執行者は頷きもしない。ただその返答を、紙ではなく自分の中の帳簿へ置いた。


「記録室も見ます」

「待ってください」

思わず声が出た。


まずい、と思った時には遅い。

二人の視線が揃って私へ向いた。


黒砂墨。

墨手帳。

いま記録室へ入られれば、最悪だ。墨手帳そのものは竜皮でただの古い帳面に見えるかもしれない。だが、見つからない保証はない。黒砂墨の匂いは強い。ルツは読めない。だが、セレスは“読む必要すらなく疑う”男だ。


「なぜ待てと言うのですか」

低い声。

私はすぐに答えられなかった。答えは一つしかないからだ。

――そこに困るものがある。

言えない。


その沈黙だけで十分だった。


「開けてください」

執行者が言う。


私は鍵を渡した。渡すしかなかった。

扉が開く。棚。帳簿。封蝋の割れた小箱。

黒砂墨の匂いが、ほんのわずかに立つ。


執行者はそれを嗅ぎ取り、無言で顔を上げた。


「……見習いが、ずいぶん深い場所まで手を伸ばしていますね」


背中に汗が流れた。

ここで墨手帳を出されれば終わる。

だが幸い、私は今朝、それを衣の内側の隠し縫い目へ差し込んでいた。ドーラの工房へ行った日から、手帳を棚に置くのをやめていた。残るものは、目の前に置くべきじゃない。


執行者は墨壺、小箱、封蝋の破片を見て、最後に私の机へ戻った。


「審問官がお呼びです」

「今から?」

「いえ。今日ではありません」


その答えに、私はわずかに違和感を覚えた。

今日ではない。

すぐに引っ立てるのではない。

拘束ではなく、泳がせるつもりだ。


その理由は、すぐ分かった。


夕方、書記局を出ようとした時、セレス本人が廊下の曲がり角に立っていた。

夕陽が背後から差し、顔の半分が影に沈んでいる。

私は立ち止まった。


「あなたを異端だと断じるには、まだ材料が足りません」

セレスは言った。

「けれど、偶然にしては線が重なりすぎる」


私は返事をしなかった。

返事は材料になる。


「商会。歌い手。記録室の黒砂墨」

彼は一本ずつ指を折るように言った。

「あなたは何かの中心に近い。だが、まだ自分でも全体を見ていない」


その言葉に、私の喉が冷えた。

見抜かれている。少なくとも半分は。


「今日から、あなたは観察対象です」

セレスは淡々と告げた。「次に合唱隊へ無断で近づけば、拘束します」


言い終えると、彼は私の机の縁へ、細い白い糸を一筋だけ結んだ。

聖歌院の監視印。

外から見れば些細な飾りにしか見えない。だが書記局の人間なら意味が分かる。――こいつは見られている。


セレスはそれだけして去った。


私は動けなかった。

糸は細い。

細いのに、首輪より重い。


夜、記録室。


私は扉を閉め、糸の意味を噛みしめた。

この周はもう動けない。

商会にも、聖歌院にも、鐘楼にも。セレスがこちらを見ている限り、何か一つ動けばすぐ線にされる。


負け筋だ。

ここから無理に動けば、長い死になる。高い死だ。


私は墨手帳を開き、黒砂墨で書いた。


――セレス、本格接触。

――私は異端ではなく「観察対象」。

――白糸の監視印。

――この周は捨てる。

――直接会えないなら、歌そのものを持ち出す道具が要る。


最後の一文の下へ、私は小さく書き足した。


――音を盗む。


音。

歌。

持ち運べる形にする道具。

前にどこかで聞いた。書庫か、市場か、禁書の端か。

音写貝。


私は小瓶の残りを飲んだ。苦味が舌に広がる。

短く終わらせる。

長く払わない。


意識が沈む直前、机の白糸が視界の端で揺れた。

まるで、次の周もそこに残っていそうに見えた。


午前六時。第1鐘。


私は飛び起き、机を見た。

白糸は、もちろんない。

だが手首の黒い粒は、十八から十九へ増えていた。


私は墨手帳を胸に押し当て、呟いた。


「次は、音を盗む」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ