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聖歌の傷

『歌は記憶を渡さない。ただ、息の癖だけを明日へ押し流す。』

その夜、私は二十一時を少し過ぎた頃に聖歌院の裏門へ着いた。


終鐘楼の影から外れると、都の冷たさの質が変わる。鐘楼の周りは金属みたいに冷たい。聖歌院の周りは、もっと湿っていて、喉の奥へ染みる冷たさだった。祈りの場所のくせに、ここは息を奪う。


裏門の脇に、犬が二匹いた。

鎖に繋がれているが、牙は自由だ。祭前日の夜は人の出入りが増えるからか、普段より緊張している。私はゼフに渡された蝋玉を袖から出し、親指で潰した。香油の匂いが、甘く、濃く、頭が鈍るほど強く広がる。


犬の鼻先へ転がす。

一匹がすぐに匂いを追い、もう一匹も遅れて鼻を寄せた。低い唸りが、やがて喉の奥で眠るような音に変わる。


私は黒い糸の結び目を指で確かめた。二つ。

二回曲がれ。


裏門の錠は古く、閉める音だけが新しかった。私は門の隙間へ体を滑り込ませ、中庭の石畳を踏む。

右。

回廊の影。

左。

香の匂い。

もう一度右へ折れると、聖歌院の表側の荘厳さが嘘みたいに消えた。裏庭は狭く、白い石の壁に囲まれ、植え込みも最低限しかない。逃がさないための庭だ。


低い歌声が聞こえた。

ミラではない。練習用の単調な音階。誰かが喉を温めている。


私は足音を殺し、白い壁沿いに進んだ。

窓の格子越しに、細い部屋が見えた。祭壇ではない。控えの間のような場所だ。中にいたのは、銀の輪を喉に下げた少女――ミラだった。


彼女は椅子に座っていた。手は自由だが、自由だからこそ檻に見える。逃げようとしていないのではない。逃げても逃げ切れないと知っている姿だ。


私は格子へ寄り、声をひそめた。


「ミラ」


少女の肩が跳ねた。

振り向いた顔は、前に会った時より少しだけ白かった。目の下に薄い隈があり、喉元の銀の輪に黒い筋が増えている。


「……来た」

彼女は呟いた。驚きより先に、諦めたみたいな笑みが浮かぶ。

「来ると思った」

「どうして」

「歌ったから」


私は格子に手をかけた。

冷たい。白鐘合金が混じっているらしく、指先がじんと痺れる。


「お前、囲われてる」

「うん」

ミラは喉の輪に触れた。「今日は裏で歌えって。表じゃなくて、内側で」


歌鍵。

ルツは喉を囲っている。


私は辺りを見回した。見張りは今この庭にはいない。だが、人が来る気配は絶えない。中庭の外を、修道女や小姓が一定の間隔で横切っていく。ここで長く話すのは危険だ。


「聞きたいことがある」

私は言った。

「……覚えさせること、できるか」


ミラは私を見た。

「覚えさせる?」

「記憶そのものじゃなくていい。引っかかりでも、違和感でも。昨日見たみたいな気配でも」

私は喉が乾くのを感じながら続けた。「誰かに、次の朝まで」


ミラはすぐには答えなかった。

代わりに、息を吸った。歌う前の呼吸だと、今は分かる。


「できる、かもしれない」

彼女は小さく言った。「でも、“何があったか”は渡せない。渡るのは、もっと薄いもの。喉の形とか、息の止まり方とか。……見たことある、っていう感じだけ」


それで十分だった。

十分すぎる。


私は格子へ顔を寄せた。

「試したい」

ミラの目が揺れる。

「今?」

「今しかない」


彼女は喉の輪を握りしめ、ほんの少し目を伏せた。

「痛いよ」

「お前が?」

「ううん。歌ったほうも、受けたほうも。わたしは……喉が削れる」


その言い方が、奇妙に正確だった。

削れる。

楔を削るように。

鐘の調律のように。


私は拳を握りしめた。

「一回だけでいい」


ミラは黙ったまま頷いた。


その時、庭の外の回廊を小姓が一人通った。まだ若い。油壺を抱え、眠そうに歩いている。毎朝同じ仕事をしていそうな顔だった。

私はあの顔を覚えられる。

明日の朝も、たぶん同じ時刻に同じ場所を歩く。


「彼」

私は囁いた。

ミラは頷く。

「何を置く?」

私は一瞬迷った。

合言葉にするか。警告にするか。

結局、もっと単純なものを選んだ。


「『昨日も来た』」

私が言うと、ミラは苦く笑った。

「それ、ほんとだね」


小姓が格子の前を通る瞬間、ミラはほんの三音だけ歌った。


高くも低くもない、短い音。

けれど、音と音の間に、息が“止まる”。


小姓の足が止まった。

油壺が少し傾く。彼は眉をひそめ、喉元へ手をやった。

そして、小さく呟いた。


「……きのう」


それだけだった。

それだけなのに、私は背筋に電気が走るのを感じた。


小姓は首を振り、何事もなかったように去っていった。

だが去り際の歩幅が一度だけ乱れた。歌が“引っかかり”を残したのだ。


私はミラを見た。

彼女はもう片手で口元を押さえている。指の隙間から、細い赤が滲んだ。


「ミラ」

「大丈夫」

大丈夫な声ではなかった。声の縁が少しだけ擦れている。


「もう一回は」

私は言いかけて、やめた。

彼女は首を横に振った。


「一回で、十分。……次の朝に、確かめて」


次の朝。

そのためには、今日を終えなければならない。

私は格子を握る指に力を込めた。


「明日、朝の祈り」

「うん」

「彼を探す」

「うん」


小さな返事。

その短さが、約束の代わりだった。


外の回廊で足音が近づく。

見張りだ。


私は身を引き、壁の影へ溶けた。去る前に一度だけミラを見る。

彼女は喉の輪を押さえたまま、目だけでこちらを見ていた。

その目の奥に、恐怖と覚悟が同じだけ入っている。


私は裏門まで戻り、犬の横を抜け、夜の都へ滑り出た。

灰月は高く、終鐘楼の影は長い。時間がじりじりと零時へ近づいている。


今夜は長く死ねない。

検証のためなら、短く終わらせる。


書記局の記録室に戻り、私は墨手帳を開いた。黒砂墨を使う。鼓動が一拍欠ける。


――ミラの歌は“記憶”でなく“引っかかり”を渡す。

――小姓一名で実験。言葉「昨日も来た」。

――受け手:足を止め、喉へ触れ、「きのう」と反応。

――代償:ミラ、喀血。声の縁が削れる。


書き終えると、胸がひどく重かった。

この成功は、明日の検証が通って初めて意味を持つ。通らなければ、ミラの喉を削っただけだ。


私は袖から小瓶を出した。

残りは少ない。

だが十分だ。


「短く」


自分へ言い聞かせるように呟き、液を飲む。苦い。すぐに視界が鈍る。

痛みのない暗さが来る前、私はミラの掠れた声を思い出した。

昨日も来た。

ほんとだね。


午前六時。第1鐘。


目を開けた瞬間、私は手首を見た。

黒い粒は十八。


すぐに墨手帳を確かめる。記録は残っている。

私はそれを胸に押し込み、朝の仕事を最低限だけ済ませると、八時半前に聖歌院へ向かった。


朝祈祷。

人の流れ。

灰月賛歌の導入旋律。


ミラの声が響く。

昨日より少しだけ掠れている気がした。気のせいではないだろう。喉の輪が光を弾くたび、私は胸が痛んだ。


私は祈りの列の脇へ立ち、小姓を探した。

油壺を抱える若い顔。眠そうな目。

いた。


彼は回廊の端で、祈祷の準備のために油を置いていた。

私は人の流れを抜け、その前を横切る。


小姓の手が止まった。


彼は私を見て、眉をひそめた。

喉へ手をやる。

そして、言った。


「……昨日も、来た?」


私は息を止めた。


言葉は違う。

正確な記憶ではない。

けれど、引っかかりは残っている。次の朝まで。


私は小さく頷いた。

「来たよ」


小姓は自分の言葉に自分で戸惑い、慌てて油壺へ視線を戻した。だがもう十分だった。

歌は渡せる。

記憶ではなく、息の癖を。


その時、導入旋律が終わり、礼拝堂の空気が緩んだ。

私は顔を上げた。合唱隊の列の端で、ミラがこちらを見ていた。


ほんの一瞬だけ。


その瞳の奥に、前の周よりもはっきりとした“知っている”が宿っている気がした。

同時に、彼女は喉元を押さえ、苦しそうに息を詰めた。


私はそこで理解した。


この力は、使える。

けれど、使うたびにミラを削る。


そして――礼拝堂の柱の陰。

そこに、白い粉が一筋だけ付いているのが見えた。

新しい擦れ跡。

白鐘合金の削り粉。


ルツは、もう気づいている。

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