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名の代金

『明日が来ない世界では、約束は言葉ではなく手順で作る。』

午前六時。第1鐘。


私は目を開くなり、まず手首を見た。

百粒の腕輪。黒い粒は十七。


一粒増えるたび、私は少しずつ「回数」で物を考えるようになる。今日が一日であることより、この一日があと何回使えるかの方が先に頭へ浮かぶ。嫌な変化だ。けれど、嫌だと思えるうちに使い方を覚えなければ、もっと嫌なものを失う。


墨手帳を開く。

昨夜、祭前牢の湿った石壁にもたれながら、私はようやく理解した。


ルツは未来を“見て”いるんじゃない。

今日を、そういう形へ“打ち込んで”いる。


商会の小僧、帳簿のずれ、封鎖された道、聖歌院の執行者。

一つずつは小さい。だが小さい歯車をいくつも噛み合わせれば、人ひとりを牢まで運ぶのは難しくない。


固定命題。


私はその言葉を手帳の空き頁へ、黒砂墨でゆっくり書いた。鼓動が一拍欠ける。


――楔は未来視ではない。

――今日を、その形へ寄せる。


そこまで書いて、私はペン先を止めた。

なら、私に必要なのは“自由”じゃない。敵と同じく、今日を寄せるための小さな手順だ。


思い浮かぶ顔は一つしかなかった。


ゼフ。


迷宮市場の盗賊。

合言葉を一つ知っていて、道を売り、人を値踏みし、けれど金より先に“使える手”を数える目をしていた男。


私は手帳を閉じた。


ルツが命題を打つなら、私も打つ。

紙ではなく、人の動きに。


午前十時。迷宮市場。


鈴が鳴る。布が揺れる。露店の位置がずれ、人の流れが通路を作り、通路がすぐに壁へ変わる。

私はもう、この市場の“最初の息”を知っていた。どこへ立てば押し流されにくいか。どの角で視線が集まるか。どの音が本物の鈴で、どの音が合図か。


干し果実の老婆の店先を通り過ぎ、私は噴水の裏手へ回った。

前にゼフが人の巾着を軽くした場所。目立たず、だが獲物を選びやすい場所。


鈴が三段に鳴る。

上段二つ。中段一つ。下段は鳴らない。


私は布の影へ向かって、小さく言った。


「鈴は三段」


沈黙。


次の瞬間、背後で誰かが笑った。

「指は黒」


私は振り向いた。

ゼフが、いつの間にか石柱の陰に座っていた。黒い目。笑っていないのに笑って見える口。親指の腹はやはり煤のように黒い。指先で、鈴の欠片を結んだ黒糸を弄っている。


「……ちゃんと覚えてたな、書記」

ゼフは立ち上がり、私を頭のてっぺんから靴まで見た。「で。今日は何を失くした?」


「時間」

私は即答した。

ゼフの口の端が少しだけ上がる。


「そりゃこの町じゃ高ぇな」


私は周囲を一度見た。人の波、布の揺れ、視線の抜ける角度。

ルツが見ているかもしれない。見ていなくても、市場は耳が多すぎる。


「歩きながら話したい」

「歩くのはいいが、真っ直ぐは歩くな」

ゼフは肩をすくめた。「この市場で真っ直ぐ歩くのは、捕まりたい奴だけだ」


私たちは露店の間を縫うように歩いた。

右へ、左へ、また右へ。まるで結び目を辿るみたいに。私は十話で貰った黒糸の順番を思い出しながら、ゼフの歩幅を目で追う。


「頼みがある」

私が言うと、ゼフは即座に返した。

「前金」


「前に名前を渡した」

「渡したな」

ゼフはあっさり頷いた。「あれで買えたのは、地図一回分と、今日おれを呼ぶ権利だけだ」


私は眉をひそめた。

「あれじゃ足りない?」

「足りると思ったのか?」

ゼフは呆れた顔で笑った。「生きた名前は高いが、一回使えば薄くなる。迷宮は“同じ払われ方”を嫌う。だから上乗せが要る」


都合のいい理屈だ、と一瞬思った。

だがすぐに、その理屈が好きな形をしていることに気づく。迷宮市場は、物ではなく“関係の癖”を売る場所だ。一度通じた手順を、次も通じる形へ作り直す。そのための上乗せ。


私は低く言った。

「何が要る」


ゼフは私を横目で見た。

「今日、十三時二十分。西の分岐で黒砂商会の荷車が一台、車輪を折る。違うか?」


私は足を止めかけた。

まだ言っていない。

なのに、ゼフが先に“欲しい情報の形”を示した。名前ではなく、今日しか使えない小さな未来。それがこの市場で一番高く売れるものだと、彼は知っている。


「……折る」

私は答えた。「前輪。右。折れたあと、衛士が二人南へ走る。西通りは八分だけ空く」


ゼフは短く息を吐き、黒糸の鈴を鳴らした。

ちん。

それは承諾の音だった。


「いい」

彼は言った。「じゃあ今から、おれは“雇われる”。ただし覚えろ。おれを毎周使うなら、毎回同じ時間、同じ声で、同じ合言葉をよこせ。鈴は三段。返しは指は黒。そこまではただの戸口だ。その先へ入るには、“今日だけの釣り針”を一本出せ」


私は頷いた。

手順。

それだ。

関係ではなく、手順。


「つまり、毎回お前を“同じ形”へ寄せればいい」

「そうだ」

ゼフは笑った。「お前、やっと市場の言葉になってきたな」


その一言に、私は妙な寒気を覚えた。

市場の言葉になる。

ルツに近づくのと同じ方向へ、自分が寄っている気がした。


けれど、止まれない。


「今すぐ欲しいのは?」

ゼフが問う。


私は少しだけ迷ってから、答えた。

「白鐘師が今、何を囲ってるか」


ゼフの足が、ほんの一拍だけ止まった。

それだけで十分だった。彼は知っている。


「囲ってるのは人じゃない」

ゼフは再び歩き出しながら言った。「喉だ」

「……喉」

「歌う奴のな。聖歌院の裏庭、今夜。銀の輪ぶら下げた娘が、一人だけ内側に移される」


ミラ。


私は喉の奥がきゅっと縮むのを感じた。

「理由は」

「知らねぇ。ただ、白鐘の手が先に嗅ぎに行ってた。歌い手の喉が欲しいんだろうさ」


歌鍵。

私は拳を握った。ルツは三つの鍵を揃えようとしている。喉、砂、掌。

私だけじゃない。ミラも、もう“盤面”に置かれている。


ゼフが歩きながら、ふと振り向いた。

「顔に出るぞ、書記」

「……出してるつもりはない」

「出てる。助けたい顔だ」


私は反射で否定しかけて、やめた。

助けたい。

その感情はまだ残っている。残っているうちに使わなければ、きっとそのうち失う。


「今夜、聖歌院の裏庭へ入る道は?」

私が問うと、ゼフは黒糸を一本切って、私の掌へ押しつけた。短い糸だ。結び目が二つ。


「裏門の犬は、祭前日は香油で酔う。嗅がせろ」

彼は腰の小袋から、小さな蝋玉を出した。香油を固めた玉だった。

「結び目二つは、二回曲がれって意味だ。三回曲がると聖歌隊の倉へ出る。間違えるな」


私は蝋玉と糸を受け取り、袖へ滑り込ませた。


「代金はこれで足りる?」

ゼフは肩をすくめた。

「今日はな。次も雇うなら、また今日しか売れない釣り針を持ってこい」


私は頷いた。

毎周、同じ時間、同じ合言葉、同じ入口。

それでゼフは“再雇用”できる。


ルツが命題で今日を寄せるなら、私は手順で味方を寄せる。


私たちは噴水の陰で別れた。

去り際、ゼフがぽつりと落とす。


「一つ忠告」

私は振り返る。

「白鐘師は、お前を折りたいんじゃない。使いたいんだ。折れた鍵は、扉を開けねぇからな」


その言葉は、昨夜ルツが言ったことと、ほとんど同じだった。


私は市場の喧騒へ身を戻しながら、墨手帳の重みを確かめた。

書かなければならないことが増えた。

けれど、それ以上に、今夜やるべきことが一つに絞られた。


ミラを囲わせない。

少なくとも、ルツの思い通りには。


私は歩きながら、心の中で次の頁の冒頭を書き始めていた。


――合言葉は、記憶の代わりになる。

――鈴は三段。指は黒。

――喉が狙われる。今夜だ。

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