表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/19

黒砂商会の値札

『一度結んだ鎖は、明日になっても外れない。』

 午前六時。第1鐘。

 目を開けた瞬間、私は胸の上の墨手帳を掴んでいた。皮の重みがある。残る。残ってしまう。それが今の私の救いで、呪いだった。


 手首の百粒。黒い粒は――十。

 昨日の終鐘が、また一粒ぶん私を黒くした。十という数が急に“現実の厚み”を持って押し寄せる。たった一日を十回。たった一日で、十回ぶんの疲労と死の残り香を抱えたまま。


 廊下へ出て、白い鐘の落書きの前に立つ。余白に白い粉の字がある。


 ――次は砂だ。


 短い。だが、正しい。

 鐘心臓の扉には砂時計の座があった。ゼフは言った。「白い粉が増えた。扉は黒砂の匂いがねぇ奴を弾く」と。私は前の周、鼠穴から入れた。だがあのとき、扉の前で白鐘の指輪の男に殺された。殺されたという事実は、扉が“変わり始める”合図だったのかもしれない。


 砂が要る。

 鍵の砂。匂いの砂。墨の砂。


 私は書記局へ向かう足を途中で曲げ、内周へ向かった。黒砂商会の会館は、終鐘楼の影が一番濃く落ちる通りにある。白い石の街で、そこだけが黒い。黒い硝子を積み上げたような建物で、正面の壁に大きな砂時計の紋が浮き彫りになっている。砂時計館――人はそう呼ぶ。


 門前に立つ衛士は商会の私兵だった。槍の柄に白い粉が薄く付いている。白鐘合金の粉。なぜ商会の槍に、と考えた瞬間、喉の奥が冷えた。白鐘師が商会と繋がっている――それが当然のように思えたからだ。


 「用件は」

 私兵は私の服を値踏みした。見習いの外套。薄い布。値札のない客。


 私は袖を握り、腕輪が見えない位置で息を整えた。ここで怪しまれたら、契約以前に締め出される。

 私は鞄から一枚の紙を取り出した。今朝、書記局の端で作った偽の照会状だ。評議会の封蝋をそれらしく押し、文字は癖のない筆致で整えた。嘘は書記の呼吸――だが今日は、嘘の行き先が鎖になる。


 「評議会書記局より、黒砂墨の追加供給の照会です」

 私兵は紙を受け取り、眉をひそめた。読めない顔をする。読む必要はない。封蝋の形だけで判断する者の顔だ。


 「……中へ」


 扉の内側は、外より冷たかった。冷たいのに汗の匂いがした。人の汗ではない。時間が削れる匂い。黒砂墨と同じ匂い。私は息を浅くしながら、受付台の前に立った。


 机の向こうにいた男は、手の爪が妙に短かった。噛んだのではない。削ったのだ。血の出方を一定にするために。

 男は私の紙を一瞥し、即座に返した。


 「墨は売れない。売るなら契約だ」

 「必要なのは一滴です」

 「一滴でも同じだ。黒砂は時間だ。時間を売るなら、相手の時間も担保に取る」


 担保。

 私は唾を飲んだ。担保に取られるものが、私にはもう一つある。残りの粒――いや、残りの“私”。


 「現金で払う」

 「現金は終鐘で灰になる」

 男は淡々と言った。まるで当然の事実みたいに。私は背中が冷えた。商会の人間は“終鐘で戻る”ことを知っているのか? いや、違う。これは商会の言い回しだ。祭前日の夜は何もかもが“無かったこと”になる。だから現金は灰になる。そういう比喩。そうに決まっている。決まっているのに、言葉が私に刺さる。


 「……契約は何を求める」

 私が問うと、男は引き出しから小箱を出した。蓋を開けると、黒い硝子の小壺が二つ。ひとつは黒砂墨。もうひとつは、粒のままの黒砂。砂は小さく鳴っていた。耳ではなく、歯の裏で。時間の粒が擦れ合う音。


 「黒砂契約」

 男は壺の横に、薄い札を置いた。黒い札だ。表面に砂時計の紋。裏面に細い鎖の刻印。

 「ここに血を落とし、黒砂墨で署名。契約は皮膚の下に沈む。沈めるには……」

 男は水時計を示す代わりに、壁の大きな砂時計を指した。「終鐘まで一時間以上。今なら間に合う。間に合わなければ、ただの墨汚れだ」


 一時間以上。

 つまり、契約は夜のうちに“定着”する。定着したら、戻っても残る――そんな予感が、胸の奥で形になる。私が求めているのは“残るもの”だ。だが残るものは、たいてい鎖だ。


 「条件を読む」

 私は札を手に取った。文字は細い。だが読める。商会の契約文は、人を縛るために読みやすく作られている。


 供給:黒砂墨一滴/日、黒砂粉一摘み/日。

 対価:銀貨十枚相当、または等価の書類奉仕。

 誓約:黒砂を商会の印なく持ち出さぬ。

 罰則:誓約違反時、契約者の“時間”を没収する。


 没収。

 時間を。

 私は喉の奥が砂色に染まる錯覚を押し戻した。白鐘の指輪の男の毒。あれも時間を狂わせた。黒砂は、世界のどこにでも同じやり方で刃を立てる。


 「銀貨十枚は払えない」

 私は言った。どうせ終鐘で戻る。払う銀貨も戻る。だが“払った事実”だけが残れば、こちらの手札になる。

 男は肩をすくめた。「なら書類奉仕。評議会書記なら得意だろ」

 「奉仕の内容を限定する」

 私は即座に返す。「『商会の帳簿一枚を、指定の様式で清書する』。それ以上はない」


 男の目が細くなった。交渉だ。書記の戦場。

 「随分、字の値札を小さくする」

 「小さくしなければ、私の手は震える」

 私の言葉に、男は初めて短く笑った。笑いは乾いていた。商会の笑いだ。人の皮膚の下へ値札を貼る者の笑い。


 「いい。だが誓約は削れない」

 「誓約は守る。ただし“印”をくれ」

 私は札を指で叩いた。「扉が匂いを嗅ぐ。私の匂いが足りないなら、供給の意味がない」


 男は一拍だけ止まり、私を見た。

 私は視線を逸らさなかった。逸らしたら負ける。負けたら鎖が太くなる。


 「……扉、か」

 男は何かを飲み込むように言い、引き出しから薄い金属片を出した。黒い札より小さい。指先ほどの大きさで、砂時計の紋が刻まれている。

 「砂印さいん札。これを持つ者は黒砂の匂いを“借りられる”。ただし札は持ち主を選ぶ。契約が沈んだ者にしか馴染まない」


 馴染む。

 それはつまり、私の皮膚の下に印が入る。


 私は指先で自分の爪を押し、血を絞った。ほんの一滴。墨手帳の皮を傷つける勇気があるなら、指先の皮くらい削れる。

 血が札に落ちた瞬間、札の砂時計紋が一度だけ暗く光った。


 「署名」

 男が黒砂墨の壺を差し出す。匂いが刺さる。時間が擦れる匂い。私は羽ペンを取り、墨に浸した。鼓動が一拍欠ける。慣れてはいけない欠け方だ。


 私は署名した。

 リース、と。癖のない字で。けれど字の奥で、何かが私の名を噛んだ気がした。名が鎖になり始める感覚。


 「……終鐘までに沈む」

 男は札を指で押さえ、低い声で言った。「沈んだら、破れない。破れば時間が消える。……安い値札じゃないぞ」


 安い値札じゃない。

 私は頷き、砂印札を受け取った。金属片は冷たくない。けれど掌の奥の逆針が、ひとつだけ回転を止めた。鐘心臓の扉に触れたときと同じ反応。私が“鍵”だと確定していく。


 外へ出ると、夕方の光が灰色に傾いていた。私は袖で砂印札を包み、都の中心へ歩いた。確認したい。扉が匂いを嗅ぐなら、今、私の匂いは変わったはずだ。


 終鐘楼の根元の補修口――鼠穴へ回る。まだ二十一時半ではない。扉は閉じている。私は指先で留め金に触れた。

 触れた瞬間、扉が“引いた”。生き物みたいに。

 そして、私の掌の逆針が痛んだ。拒絶。匂いが足りない、と言われている。


 私は袖の中から砂印札を取り出し、指先でそれを擦った。

 金属片が熱を持つ。熱は火ではなく、鼓動の熱だ。私はその熱を留め金へ移すように当てた。


 ……す、と。

 扉が一息だけ緩んだ。

 中の冷気が、細い線になって私の指先を舐めた。白い粉の匂いに、黒砂の匂いが混ざる。扉は嗅いでいる。嗅いで、通した。


 私はそれ以上開けず、すぐに離れた。

 目的は侵入ではない。確認だ。――匂いが鍵になること。そして、その匂いを私は“買った”こと。


 夜が深まり、都が固くなっていく。契約が沈むまでに一時間以上。私は終鐘まで生きて、沈ませなければならない。死ねばリセットされる。札も消える。だが“沈んだ契約”だけが残るなら――残るのは武器か、鎖か。


 午後十一時四十分。

 私は記録室に籠もり、墨手帳へ今日のことを書いた。黒砂契約、砂印札、扉が嗅ぐ、誓約違反で時間没収。書きながら、指先の小さな傷が妙に疼いた。血が、皮膚の下へ吸い込まれていく感覚。契約が沈んでいる。


 深夜零時。終鐘。


 世界が巻き取られる。灯りが横へ引かれ、呼吸が吸い戻される。

 私は指先を見た。血を落とした場所に、小さな砂時計の痕が浮かんでいる。浮かんで――消えない。消えるはずなのに、消えない。皮膚の下へ沈んだ印が、世界の逆流に置いていかれる。


 午前六時。第1鐘。


 私は飛び起き、まず手首を見た。黒い粒は十一。

 次に指先。砂時計の痕が、そこにある。消えていない。

 胸が冷たくなった。残った。……契約が残った。


 私は衝動のまま砂時計館へ走った。砂印札は当然、持っていない。物は戻る。だが印だけが残るなら、相手はどうなる? 相手も忘れているのか。忘れていないのか。忘れていても、皮膚は覚えているのか。


 受付台の男は、私を見るなり眉をひそめた。

 「用件は」

 昨日の男だ。顔も声も同じ。だが目は“初対面”の目だ。

 私は喉が鳴るのを感じながら、指先を見せた。


 「砂印だ」

 男の視線が痕に落ちた瞬間、彼の表情が一瞬だけ崩れた。驚きとも恐怖とも違う。――体が先に反応した顔だ。

 男は無意識に自分の手首を押さえ、次に私の指先をもう一度見た。


 「……誰だ、お前」

 声が震えた。覚えていない。なのに、体が覚えている。


 「契約した」

 私は短く言った。嘘ではない。昨日、確かに。終鐘まで沈ませた。

 男は否定しようとして、否定できなかったように口を閉じた。喉が鳴る。彼の喉も、私の喉も、同じ鎖で引かれている。


 「……帳簿を」

 男は吐き出すように言い、引き出しから黒砂墨の小壺を出した。

 「一滴。供給。……くそ、何だこれは」


 彼は自分の意思に反して手が動くことに苛立っていた。

 私はその一滴を受け取りながら、背中が冷えるのを感じた。


 契約は、私だけを縛るのではない。

 相手も縛る。

 そして相手の縛られ方は、相手自身にすら理解できない。


 私は墨手帳を胸に押し当てた。

 武器だ。

 同時に、誰かを巻き込む鎖だ。


 砂時計館を出たとき、灰月の光がやけに鈍く感じた。都のあちこちで鈴が鳴り、祭の準備が進む。世界は同じ顔をしているのに、私の中だけ“次の日”へ向けて歪み始めている。


 書記局の廊下に戻ると、白い鐘の落書きの余白に、新しい白い粉の字が一本増えていた。


 ――鎖も鍵だ。


 私はその字を見つめ、指先の砂時計の痕を握りしめた。

 次は――螺旋だ。鐘楼の内側へ、匂いと鎖を持って入る。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ