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迷宮市場の地図

『同盟は残らない。だから合言葉が要る。』

 墨手帳を胸に押し当てると、皮が私の鼓動を受け止めてくれた。紙のように軽くなく、石のように冷たくもない。残る媒体がある――それだけで、世界の歯車に噛まれ続ける恐怖がほんの少しだけ薄まる。


 手首の腕輪は百粒。黒い粒は九つ。

 昨日、白鐘の指輪の男に握手をされた。毒を入れられ、静かに死んだ。死んで戻った朝、廊下の落書きが言った。


 ――地図を取れ。

 ――迷宮は迷宮のままでは抜けられない。


 私はその言葉を、黒砂墨で手帳の頁へ写していた。写した文字は傷になり、傷は私から逃げない。逃げないものは、武器にも鎖にもなる。


 迷宮市場。午前十時の開門。

 私はいつもより早く書記局を出た。仕事をサボる罪悪感より、時間を無駄にする焦りのほうが重かった。都は一日を繰り返す。だからこそ、一時間の差が命取りになる。――同じ一日でも、私の内側は摩耗する。九つ黒くなるまでに、私はそれを学んだ。


 市場の門の外には、開門前から人が集まっていた。商人、運び屋、衛士の目を盗む連中、そして――盗むこと自体が仕事の者たち。布の影に身を寄せ、私は耳を澄ませた。市場は“道”でできているのではない。“音”でできている。鈴の鳴り方、呼び声の癖、足音の速度。迷宮はいつも音で入口を作る。


 ちん、ちん、ちん。

 頭上の鈴が、三段に分かれて揺れた。上段が二回、中段が一回、下段が――一度も鳴らない。私はそれをぼんやり眺めていた。なぜかその順番が、喉の奥のどこかをくすぐった。


 「鈴は三段」

 門の陰から、男の小声が落ちた。

 「指は黒」

 別の声が返した。


 合言葉みたいに短い。冗談みたいに軽い。けれど、返した側の手が一瞬だけ上がり、親指の腹が煤みたいに黒いのが見えた。黒指団――迷宮市場の裏の手足。噂でしか聞いたことのない名が、現実の骨を持った。


 「ゼフ、遅い」

 誰かが囁いた。


 ゼフ。

 それが“地図”へ繋がる名だと、私の直感が告げた。落書きが命じた地図。迷宮は迷宮のままでは抜けられない。抜けるには、迷宮の中の者の手を借りるしかない。


 門が開いた。人波が流れ込む。鈴が一斉に鳴り、露店が生き物みたいに場所を変える。私は流れに逆らわず、しかし“迷わないふり”で中心へ入った。迷うと食われる。迷わないと目立つ。目立てば、食われる。迷宮市場は、どちらに転んでも歯を立ててくる。


 私はわざと、銅貨の入った薄い巾着を腰の外側に下げた。餌だ。

 餌を垂らせば、釣れるのは魚ではなく、針の持ち主――そういう種類の池が、この都にはある。


 噴水の脇を通った瞬間、巾着が軽くなった。

 私は振り向かず、歩調も変えず、ただ指先だけで紐の感触を追った。いる。背後に。右半歩。呼吸が浅い。足音が軽い。獲物は獲物を見分ける。


 私は角を曲がるふりをして、急に立ち止まった。

 同時に、腕を後ろへ伸ばし、掴んだ。


 手首。骨が細い。逃げる力は強い。

 「離せ!」という声が喉で擦れた。若い男の声だった。私は掴んだ手首を引き寄せ、露店の布の陰へ押し込んだ。そこで初めて、顔を見た。


 黒い目。笑っていないのに笑っているような口。

 親指の腹が煤みたいに黒い。黒指。

 そして腰の後ろに、小さな糸巻き。糸に結び目がいくつもあり、先に欠けた鈴の欠片が括りつけられている。


 「……ゼフ」

 私は名を呼んだ。名を呼ぶのは危険だ。名は相手の輪郭を固定する。だが今日は、固定しなければ話が始まらない。


 男――ゼフは、私の口元を見て目を細めた。

 「呼ばれる筋じゃねぇ」

 「鈴は三段」

 私は合言葉を、息を吐くみたいに言った。

 「指は黒」


 ゼフの目が一瞬だけ凍った。凍ったのは恐怖ではなく、計算だ。誰がこの女にそれを教えた、と脳が走る顔。

 「……どっちだ。黒指か、聖歌院の餌か」

 「どっちでもない。書記だ」

 私は袖口を見せないように手首を引いた。「地図が要る」


 ゼフは鼻で笑った。

 「迷宮に地図はねぇ。あるのは“覚え方”だ」

 そう言いながら、彼は私の掴んだ手を逆に返し、するりと抜こうとした。逃げる動き。私は逃がさなかった。逃がせば、次はいつ捕まえられるか分からない。時間は有限だ。黒い粒が九つもある。


 「今日の十七時二十分、硝子港で“事故”が起きる」

 私は賭けに出た。情報を餌にする。「黒砂の輸送が一度止まる。混乱で衛士が二本の通りを塞ぐ。……黒指なら、その“穴”が欲しいだろ」


 ゼフの呼吸が一瞬止まった。

 止まったのは驚きではない。欲が反応したのだ。

 「……誰から聞いた」

 「“いつも起きること”だ」私は言葉を濁した。濁すのは癖になる。だが癖は読まれる。「私は、迷宮の外から見てる」


 ゼフは私を値踏みする目のまま、ふっと笑った。

 「面白い。じゃあ取引だ、書記」

 彼は私の巾着を軽く投げ返した。「金はいらねぇ。戻る」

 その言い方が、胸に刺さった。戻る。都が戻ることを知らないはずの口から、戻ると言った。偶然だ。偶然に決まっている。――なのに、背中が冷えた。


 「欲しいのは、名前を一つだ」

 ゼフはさらりと言った。「誰のでもいい。生きてて、首がついてて、呼べば振り向く名」


 名前。

 名は、私のこの都で最も失いたくないものに触れる。私は反射で墨手帳の重みを思い出した。最後は名を鐘へ預ける――そんな誓いの句が、まだ知らないはずなのに喉の奥で形になりかけた。


 「……名で何をする」

 「扉を開ける」ゼフは当たり前みたいに言った。「迷宮は道でできてねぇ。扉でできてる。扉は名で開く。……どうする?」


 私は歯を噛んだ。

 ここで拒めば地図はない。地図がなければ、鐘楼への道は毎回運任せになる。運任せの先には、白鐘の指輪の男の冷たい線が待っている。私は冷たくなるより先に、手段を増やす必要があった。


 「鐘守衛士団、今夜の裏門担当――ヴァルド隊の副官、アド・バレル」

 私は咄嗟に、書記局で見た交代表の名を吐いた。生きていて、首がついていて、呼べば振り向く名。私にとっては損が少ない名。ゼフにとっては、扉を開ける名。


 ゼフは舌で歯を鳴らし、「いいね」と呟いた。

 そして腰の糸巻きを引き抜き、私の掌へ押し付けた。


 「これが地図だ」

 糸は細く、黒い。ところどころに結び目。鈴の欠片。触れると、ちん、と小さく鳴った。迷宮市場の鈴とは違う、短い合図の音。


 「結び目一つで曲がる。二つで戻る。鈴が鳴るところは“人の流れ”だ。流れは壁にもなる」

 ゼフは早口で言った。「糸を張って歩けば迷わねぇ。だが、お前はそれを持って帰れない顔だ。……だから、覚えろ。結び目の順でな」


 持って帰れない顔。

 私は笑えなかった。図星だ。物は戻る。残るのは私の記憶と、皮の手帳だけ。だから私は頷き、糸の結び目の並びを目に焼き付けた。右、左、右、戻り、潜り――ゼフの指が空中に描く順番を、指の動きごと覚えた。


 「それと」

 ゼフは私の袖口を一瞬だけ見て、すぐ逸らした。見えたのか。見えてないのか。見えてるふりか。分からない。分からないのが怖い。

 「鐘楼へ行くなら、“表の扉”を数えるな。扉の数は衛士が守る。でもな、**鼠穴ねずみあな**は守らねぇ。守れねぇ」


 鼠穴。

 牢で見た補修口のことだ。私は喉が乾いた。


 「鼠穴は二十一時半、交代のときに一息だけ開く」

 ゼフは続けた。「だが、開いてても入れねぇ時がある。最近、白い粉が増えた。白鐘師が触った扉は、鼻が利く。黒砂の匂いがねぇ奴を弾く」


 黒砂。

 扉が匂いで弾く。都の扉が“時間”を嗅ぐ。私は背筋が粟立った。鍵座の砂時計が脳裏に浮かぶ。砂が鍵。砂がないと、扉の前まで行っても弾かれる。


 「黒砂商会の印札が要る」ゼフは肩をすくめた。「書記なら作れるだろ? 作れねぇなら――契約しろ。あいつらは名も砂も、鎖にして売る」


 名。砂。鎖。

 私の世界が、一本の糸で繋がっていく。ゼフの糸巻きみたいに。結び目の順番を間違えたら、首が締まる糸だ。


 私は糸巻きを握りしめ、「分かった」とだけ言った。言葉を増やせば増やすほど、相手に掴まれる。掴まれるくらいなら、先に掴む。


 ゼフは布の影へ下がり、最後に一言だけ落とした。

 「次に会うときは、これを言え。――『鈴は三段』。忘れんな。迷宮は忘れた奴から食う」


 合言葉。

 同盟は残らない。だから合言葉が要る。

 私はその言葉を、心の中で何度も反芻した。


 書記局へ戻る道すがら、私は一度も振り返らなかった。振り返れば、白鐘の指輪の男が遠くで笑っている気がしたからだ。けれど、背中のどこかでずっと感じていた。見られている、という冷たさ。見られていない、という不安。


 記録室の鍵を借り、封蝋を割り、黒砂墨を一滴だけ盗む。

 手順はもう指が覚えていた。私は墨手帳を開き、ゼフの“地図”を文字へ落とした。結び目の順、鈴の位置、鼠穴、二十一時半、白い粉、黒砂の匂い――。


 書き終えたとき、皮の奥で何かが脈打った気がした。

 まるで、扉の向こうの鼓動が、私が“準備を整えた”と知ったみたいに。


 廊下へ出ると、白い鐘の落書きの余白に、今日も白い粉の字が増えていた。


 ――次は砂だ。


 私はその一行を見つめ、喉の奥に、あの静かな毒の砂の感触が戻ってくるのを感じた。

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