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黒砂の朝

『同じ鐘が鳴る朝に、私はまだ気づいていない。』

 灰月はいげつは、夜の名残を残したまま薄灰色の光を都へ落としていた。空に浮かぶ月はいつもより大きく、煤を塗り込めたように鈍い。灰月祭の前日になると必ずこうして、人の眠りを浅くする――と、古い迷信を笑う者もいる。私は笑えなかった。眠りが浅いのは、迷信より仕事のせいだった。


 午前六時。第1鐘が鳴る。

 評議会書記局の仮眠室、その天井板の節目まで見慣れている。鐘の振動が骨に伝わるたび、机の上に積まれた書類がわずかに震え、乾いた紙の匂いが立った。灰月祭の前日は、都が一日で一年分の嘘を吐く日だ。通行証、献納簿、治安布告、祝祭の式次第――どれも本当らしく見せかけるための文字で、私の仕事はそれを正しい順に並べ替えることだった。


 私はリース。十九。書記見習い。

 血の系譜だとか、古い鐘の一族だとか、そんな話を信じるほど暇ではない。信じたいのは、今日が無事に終わることだけだ。


 仮眠室の扉を開けた途端、廊下の冷えが頬を刺した。石床は夜の温度を抱え込んだまま離さず、素足に近い靴底から体温を奪ってくる。壁には、今朝貼り替えられたばかりの布告がずらりと並んでいた。灰色の封蝋、評議会の紋章、そして、角に押された小さな聖歌院の印――二つの権力が同じ紙に同居する時、たいてい碌なことにならない。


 「リース。生きてるなら運べ」

 帳簿係のハルヴァンが、眠そうな目で束を放って寄越した。受け止めた紙の重みだけで、今日が長いと分かる。

 「黒砂の輸送帳簿を硝子港へ。あと、鐘下街の巡回強化の布告を衛士団へ。それと……」ハルヴァンは声を落とす。「聖歌院に余計な顔を見せるな。今夜は審問が始まる。祭の前日に粛清を混ぜるのが、あいつらの趣味だ」


 “あいつら”が誰か、聞く必要もない。聖歌院の審問官セレス。名前を出すだけで、書記局の空気が一段冷える。私は頷き、書類束を抱え直した。


 書記局の窓は環状都市グリムベルを見下ろしている。外周へ行くほど貧しく、中心へ行くほど白くなる、嫌になるほど分かりやすい同心円。真ん中に立つのは終鐘楼――都の心臓だ。塔の先端は雲に刺さり、昼でも影は消えない。影は常に一定の角度で、まるで時間そのものがそこへ縫い付けられているようだった。

 幼い頃、母はその影を指して言った。「影が動くのを見すぎると、心が針になるよ」――意味は分からなかったが、母の声だけは妙に柔らかく覚えている。今日も覚えている。たぶん。


 鐘下街を抜けると、祭の飾り付けが始まっていた。灰色の布が家々に垂れ、灰月の形に切り抜かれた紙が風に揺れる。路地の子どもが布を引っ張っては叱られ、叱る声の裏で誰かが笑っている。笑いは軽いのに、都全体は息を潜めているようだった。灰月祭は“祝う”祭ではない。“見送る”祭だ。古い年を、灰にして捨てる。だから人は派手に飾り、静かに怯える。


 聖歌院の方角から、朝祈祷の合唱が薄く流れてきた。風に乗った歌は優しく聞こえる。けれど壁の内側では、人を縛る鎖になる――そう囁くのは迷宮市場の連中だ。私は歌に背を向け、足を速めた。歌に惹かれるのは、心が弱い証拠だと、書記局では教わる。


 硝子港は午前中から騒がしかった。硝子の板を貼った倉庫群が月光を反射して鈍く光っている。港に停泊するガラス船は、帆を張らずとも潮と風の気配で鳴った。きい、と。まるで泣くように。船底に敷かれたガラス板が、波の振動で軋むのだという。都の外へ出られない人間が、都の外へ行ける船を磨き続けるのは、どんな気分だろう。


 荷車が列を成していた。黒砂商会の印章が押された箱。護衛の衛士が二重に囲み、箱の隙間から黒い砂がこぼれないよう布が巻かれている。黒砂――時間を燃やす燃料。刻印術師がそれで秒を削り、聖歌院はそれで声を鋭くし、商会はそれで都の首根っこを掴む。私は書記として、黒砂の重量と移送経路を記した帳簿を届けるだけだった。

 帳簿の封を切った港の管理官が、ちらりと私を見た。「書記局の子か。字が綺麗だな。……汚れないうちに帰れ。今日は港で“事故”が起きる」

 事故、という言い方が妙に確信めいていて、私は首筋が寒くなった。灰月祭の前日、事故はいつも“偶然の顔”で起きる。起こされる。


 箱の側を通ると、鼻の奥がわずかに痺れた。砂の匂いはない。代わりに金属の冷たさが匂いの形をして侵入してくる。白い粉が微かに舞っていた。護衛の槍先に付いた粉だ。白鐘合金――終鐘楼の調律に使う金属。港にそんなものが混じる理由はない。私は咳払いし、視線を落とした。見ない。触れない。余計なものに関われば、文字の世界の外側へ引きずり出される。


 正午を回り、戻り道で迷宮市場の外縁をかすめた。露店の金属鳴子が鳴り、偽造の通行証が売られ、誰かの噂が笑いと一緒に撒かれていた。「今夜、終鐘楼の鐘が割れる」「灰月が落ちる」「審問官が異端を百人吊るす」――どれも祭の前日には便利な話題だ。私は足を速めた。噂は紙より軽いくせに、首を絞める手つきだけは重い。


 夕方。港の風が急に冷たくなり、ガラス船の鳴き声が強くなる頃、帳簿の束を抱え直した私は、硝子港と鐘下街をつなぐ路地へ入った。人の流れを避けるためだ。石壁は湿り、苔が灰色の月光を吸って黒く見えた。足音が一つ、増える。振り向く前から分かった。私は追いかけられている。


 振り返る前に、背中が押された。

 視界が揺れ、帳簿が宙に舞う。紙が散る音は、不思議と鈍かった。次の瞬間、喉の奥で何かが弾け、息が白く漏れた。痛みが遅れて追いつく。自分の体から熱が抜けていくのが分かるのに、血の匂いはしない。代わりに、冷たい粉の匂いがした。


 倒れかけた視界の端に、手が見えた。

 黒い手袋。指先だけ外されていて、そこに――白い鐘の形をした指輪。

 指輪の縁に、白い粉が薄く付いている。白鐘合金の粉だ、と頭のどこかが冷静に判断した。終鐘楼の調律師が使う金属。だとしたら、これは。

 指輪の影が、石畳に小さな鐘の形で落ちていた。その影は終鐘楼の影と、同じ角度を向いている気がした。


 「――」


 声にならない息が漏れた。助けを呼ぶ言葉ではなく、ただの空気だった。路地の向こうでガラス船が鳴き、遠くで聖歌院の鐘が一度だけ鳴った気がした。目の前の人物は何も言わない。私の胸のあたりに、もう一度、冷たい衝撃。今度は痛みが先に来た。世界が、近づく。石畳の目地が拡大し、苔の一本一本が見える。そんな細部を、私は妙に丁寧に覚えた。


 灰月が、視界の端から落ちてきた。

 月の表面の煤の筋まで見える。奇妙だ。落ちてくる月は怖いはずなのに、私はその瞬間、妙に安心していた。終わる。今日が終わる。書類も噂も、黒砂も、全部――文字の外側のものも。


 午前六時。第1鐘が鳴る。


 私は飛び起きた。

 天井板の節目。机の上の書類。乾いた紙の匂い。さっきまでの冷たい路地も、白い指輪も、喉の熱も、全部が夢だったみたいに消えている。だが、胸の中心だけがまだ冷たかった。息を吐くと震えた。


 「……?」


 喉へ手を当てる。切られていない。指に血も付かない。なのに、切られた感触だけが残っている。残るはずがないのに。


 手首に、知らない重みがあった。

 右手の手首を見下ろす。そこに、細い輪が嵌まっていた。外そうとしても動かない。金属ではない。骨でもない。肌と同じ温度で、肌より硬い。輪には粒が並んでいる。数えた。百粒。子どもが数える豆ではなく、誰かが私の命を数えるための粒だ。


 そのうちの一粒だけが、墨を垂らしたように黒ずんでいた。


 私は唇を噛んだ。痛い。痛みがある。これは夢じゃない。

 仮眠室の窓に駆け寄る。外は昨日の――いや、“さっき”の朝と同じ光景だ。灰布が揺れ、路地の子どもが怒鳴られ、遠くでガラス船が泣く。終鐘楼の影は、昨日と同じ角度で地面を切っていた。影が動かないという母の言葉が、冗談ではなくなる。


 廊下から、ハルヴァンの声が聞こえた。

 「リース。生きてるなら運べ」

 同じ言い方。同じ間。さっき聞いたばかりの声だ。背筋が粟立った。私は扉に手を伸ばして止まった。開けたらまた同じ束を投げられる。硝子港へ行けば、路地で――。


 同じ朝が、二度来た。


 私は帳簿の束に手を伸ばし、次に伸ばした手で、黒い粒を撫でた。冷たくはない。なのに、背筋が凍った。百粒が黒くなるまで、私は何度、同じ朝を迎えるのだろう。迎えたくない。迎えるしかない。


 ――今度は、死なない。死んでたまるか。


 そう誓った瞬間、なぜか、路地の白い指輪が笑っている気がした。『同じ鐘が鳴る朝に、私はまだ気づいていない。』

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