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偽物の番を信じたのは、あなたです

作者: 風谷 華
掲載日:2026/03/03

幼い頃、侍女のアンネに聞いた話がある。


「お嬢様、鳥というのはね、番になった相手を一生愛し続けるんですよ」


アンネは庭園の窓から、二羽の小鳥が寄り添う様子を指差しながら、そう教えてくれた。


「どちらかが死んでしまったら?」


「もう一方も、何も食べなくなって……それで、後を追うように死んでしまうことが多いそうです」


「それは、悲しい話ね」


「悲しいですか?」アンネは首を傾げた。「私は、素敵だと思いますよ。それほどまでに、誰かを愛せるということが」


七歳のレティシアには、まだよく分からなかった。


でも、数年後、日記にこう書いた。


「私がこんなにも鳥を愛しているのには理由がある。

番になった鳥は深く愛し合い、片方を失うともう片方も何も食べなくなって死んでしまうことが多いらしい。

本当なのか嘘なのかは分からない。

でも、私もそんな風な恋愛をしてみたいと思っているのだ。」


十八年分の日記の最後の頁に、その文章を書き写した夜。


私は迷わず、暖炉に放り込んだ。


だって――それはもう、叶わない夢だったから。


少なくとも、あの人との間では。



  ◇



この世界には、翼紋というものがある。


この世界の人間は、誰もが胸元に羽根の形をした紋章を持つ。「番の紋章」と呼ばれるそれは、魂の深さと繋がりの可能性を示す証明だ。


二人の紋章が共鳴した時、光を放つ。


これを「番の共鳴」と言う。


共鳴には段階がある。


最初に起こるのは「半共鳴」。紋章がうっすらと光るだけで、魂が繋がるわけではない。縁のある相手、あるいは何らかの感情的な引力がある相手との間で起こる現象だ。


そして「完全共鳴」。魂と魂が一つに繋がる、本物の証明。眩い光を放ち、二つの紋章が鎖のように絡み合う。完全共鳴した二人は「真の番」と呼ばれ、その絆は死後も続くと伝えられていた。


そしてこの世界には、ごく稀に「複数の相手と半共鳴できる魂」が存在する。


魂の器が大きい、とも言われる。


複数の相手と縁を持ちうるがゆえに、どの相手を選ぶかは本人の意思と、相手の誠実さにかかっている。


私が、そのような魂を持つとは、知らなかった。


知っていたのは、私の隣にいた男だけだった。



  



アルベルト王太子と私の半共鳴は、十二歳の時に起きた。


庭園で、偶然に手が触れた瞬間。


胸元が、ふわりと温かくなった。


それは幸福な瞬間だった。


なのに、アルベルトはその時、こう言った。


「やっぱりな。絶対そうだと思っていた」


まるで答え合わせをするように。


すでに結論を知っていたかのように。


それが、最初の予兆だったと、今なら分かる。







王都最大の夜会。


百を超えるシャンデリアが煌めく会場で、私は壁際に立っていた。


「レティシア様、殿下はどちらに?」


カリナが耳元で囁く。


「向こうに」


私は視線だけを動かした。


会場の中心で、アルベルトが笑っていた。


完璧な金髪。完璧な微笑み。


その隣に、褐色の髪の令嬢。


エミリア・クロイス。三ヶ月前から社交界に現れた、十七歳の新顔。


私とは正反対の雰囲気を持つ、儚げで可憐な少女。


今夜で、七度目だ。


アルベルトが夜会に私を連れてきて、私ではない誰かの隣で笑うのが。


私は、もう驚かなかった。


驚く感情が、いつの間にか消えていた。



――三ヶ月前、アルベルトとエミリアの紋章が完全共鳴したという話が流れた。


私は最初、信じなかった。


半共鳴の状態にある婚約者がいる男の紋章が、別の女と完全共鳴するなど、通常はあり得ない。


でも「通常」という言葉には、例外がある。


一つ目の例外。「複数の相手と半共鳴できる魂」が絡んでいる場合。


二つ目の例外。「強い感情が一時的な共鳴を引き起こした」場合。


どちらが起きたのか、私には分からなかった。


ただ、確かに言えることが一つあった。


アルベルトは、エミリアを本気で美しいと思っていた。


本気で、夢中になっていた。


何年もかけて積み上げてきた私との絆よりも、三ヶ月で得た新しい輝きの方が、眩しく見えたのだろう。


人間とは、そういう生き物だ。


手の中にある宝石より、向こうの棚で光る石ころの方が大きく見える。


私はそれを、責める気力も残っていなかった。



「レティシア・エルフォード公爵令嬢」


突然、会場に響いた声に、私は振り向いた。


壇上に、アルベルトが立っていた。


会場が静まる。


私は、静かに瞬きをした。


……来たのね。


「君との婚約は、ここで破棄させてもらう」


ざわ、と空気が揺れた。


私は壇上へ歩み出た。


一歩。二歩。三歩。


百を超える視線が、私に集まる。


アルベルトの隣には、エミリアが立っていた。うっすらと涙を浮かべた目で、私を見ている。


胸元の翼紋が、淡く光っていた。


だが――


私には分かった。


その光が、わずかに濁っていることが。


色が、薄汚れていることが。


「真実の番は彼女だったのだ。レティシア、君が悪いわけではない。ただ――」


「そうですか」


私は遮った。


会場の空気が、凍った。


泣き崩れるはずだった。


懇願するはずだった。


でも私は、笑った。


完璧な、社交用の笑みで。


「では、どうぞお幸せに」


ドレスの裾を持ち、完璧な礼をする。


振り返り、壇上を降りる。


背後で、アルベルトが何かを言った。


聞こえなかった。


聞こうとも思わなかった。



廊下へ出て、夜風に当たった。


月が欠けていた。


胸の翼紋に、手を当てた。


一度も完全共鳴したことのない、私の翼紋。


でも今夜、それは静かに、温かかった。


理由が分からなかった。


「……?」


首を傾げながら、私は馬車を待った。



  



後日、私は知ることになる。


あの夜、王都の外れに、一羽の黒い鷹がいたことを。


金色の瞳で、城の方角を見つめていたことを。


そしてその鷹が、城の中の私を、どれほど気にかけていたかを。


でもその夜の私には、まだ何も分からなかった。







婚約破棄の翌朝、私は離れに移された。


「名誉を傷つけた令嬢」として。


「王太子を奪おうとした悪女」として。


噂は勝手に膨らみ、来客は途絶えた。


食事は減り、使用人も減った。


カリナだけが残ったが、彼女も本邸に戻すよう、父から命じられた。


「カリナ、行って」


「でも、レティシア様」


「いいから。あなたまで巻き込みたくない」


カリナが泣きながら去っていく。


一人になった。


本当の意味で、一人になった夜。


私は窓辺の椅子に腰を下ろし、空を見上げた。


泣けなかった。


ただ、胸の奥に重いものがあった。


悲しみとも、怒りとも、違う感覚。


ずっと待っていたものが来なかった時の、静かな疲労。


「……ねえ、番の紋章さん」


胸元に呟いた。


「あなたはいつ、光るの?」


返事はなかった。


当然だ。


私は苦笑して、目を閉じた。



気づけば、うとうとしていた。


夜風が、頬に触れた。


窓を、閉め忘れていた。


目を開けると。


そこにいた。


窓枠の上に、静かに止まっていた一羽の鷹。


漆黒の羽。


月光の中で光る、金色の瞳。


「……」


野生の鷹が、こんな街中に。


しかもこの目は、あまりにも知性的だった。


まるで、私の奥底まで見透かすように。


しばらく、見つめ合った。


私は小さく笑った。


「あなたも、番を探しているの?」


冗談だった。


ただの独り言のような、冗談。


その瞬間。


胸が、熱くなった。


「っ……!」


思わず胸を押さえる。


翼紋が、熱を持っていた。


一度も光ったことのない、私の翼紋が。


鼓動のように、脈打っていた。


黒い鷹が、静かに首を傾げた。


次の瞬間。


光。


眩い、白い光。


そして。


窓辺に立っていたのは、人間の男だった。



長い黒髪。深夜の色をした軍服。


そして。


金色の瞳。


あの鷹と、全く同じ色。


男は私を見下ろし、静かに膝をついた。


「ようやく見つけた」


低い声。


その声を聞いた瞬間、胸の翼紋が爆発するように輝いた。


男が手を伸ばし、私の翼紋に触れた。


光。


熱。


部屋中が白く染まる。


魂が、震えるような感覚。


心臓が、知らない速さで鳴っている。


光が収まった時。


男の胸にも、翼紋があった。


私のものと、鎖のように絡み合い、完全に繋がっていた。


完全共鳴。


本物の番。


「嘘」


私は囁いた。


「本当だ」


男は答えた。


「……あなたは、誰なの」


「ルシアン・ヴァルドレイン」


血の気が引いた。


ヴァルドレイン帝国。王国の隣国。その第一皇子。


「なぜ、ここに」


「三年前、戦場で一度だけ見た」


ルシアンは、膝をついたまま言った。


「国境付近の小競り合い。君が難民の護衛に同行していた。その時、君の翼紋が一瞬光った。俺の胸も同時に熱くなった」


「……覚えていない」


「俺には見えた。それ以来、ずっと探していた」


「婚約者がいたのに?」


「番が幸せなら、それでよかった」


私は息を呑んだ。


「でも」ルシアンは続けた。「昨夜の夜会で、彼が君を捨てた。その瞬間、俺は誓った」


金の瞳に、静かな炎が燃えた。


「この国ごと、奪ってもいいと」


「……過激ね」


「本気だ」


「それは困る。国が滅びたら、困る人が大勢いるから」


ルシアンは一瞬、黙った。


「……君は、変わった女だな」


「よく言われるわ」


「褒めている」


口の端が、わずかに上がった。


その顔を見た時、私は気づいた。


胸の翼紋が、温かく光り続けていることに。


「……一つだけ、聞いていい?」


「何でも」


「アルベルト殿下とあなた。どちらが私の本物の番なの?」


ルシアンは少しも迷わなかった。


「俺だ」


「なぜそう言い切れるの」


「王太子との半共鳴は、感情の引力に過ぎない。俺との共鳴は、今の光を見たか?」


私の胸の翼紋が、まだ温かく輝いていた。


「王太子と君の翼紋が、あれほど輝いたことがあったか?」


「……なかった」


「だから、俺が本物だ」


その言葉の重さを、私はゆっくりと受け取った。


「……泣くつもりは、なかったのに」


涙が一筋、頬を伝っていた。


ルシアンが、静かに私の頬に触れた。


大きな手。ひんやりと、でも優しく。


「泣いていい」


「なんで、そんなことを」


「番だから」


私は俯いた。


十年間の婚約。完璧な令嬢でいることへの疲れ。


一度も光らなかった翼紋への、静かな孤独。


それが全部、今になって押し寄せてきた。


静かに、泣いた。


ルシアンは何も言わなかった。


ただ、私の隣に立っていた。


夜が、深まっていった。







翌日から、帝国が動き始めた。


経済制裁。外交圧力。


王国が揺らぐ。


私はそれを、離れの窓から感じ取った。


ルシアンは毎夜来た。


鷹の姿で窓枠に止まり、私が窓を開けると人の姿に戻る。


三日目の夜、彼はこう言った。


「エミリアのことを調べた」


「……何が分かったの?」


「彼女の翼紋の変色が、急速に進んでいる」


私は静かに頷いた。


「やはり、偽りだったのね」


「ああ。彼女は元々、王国軍の騎士団長と強い感情で繋がっていた。アルベルトに近づいたのは、意図的だった可能性が高い」


「目的は」


「王太子妃の地位」


「……かわいそうに」


ルシアンが、私を見た。


「エミリアが?」


「アルベルトが」


「なぜ」


「本物の番が目の前にいたのに、見えなかったから」


ルシアンは少し黙った。


「……君は、彼を今も好きなのか」


「いいえ」


迷いなく答えた。


「でも、憎んでもいないわ。ただ、もう終わったのよ」


「終わった、とは」


「アルベルトへの気持ちが、ね。正確には……いつ終わったか、も分からないくらい、ゆっくりと冷めていったけれど」


私は窓の外を見た。


「最初の頃は、好きだったと思う。でも彼は、私を大切にする方法を知らなかった」


「どういうことだ」


「いつでもそこにいる存在は、失ってから価値に気づく。彼にとって私は、そういう存在だったのよ」


ルシアンが、わずかに眉を寄せた。


「……十年間、そんな扱いを受けていたのか」


「酷い扱いをされたわけではないわ。ただ、後回しにされ続けた。意見を聞かれることもなく、隣に立つことを求められながら、隣にいることを見てもらえなかった」


「……」


「一番傷ついたのはね」


私は続けた。


「三ヶ月前、エミリアとの共鳴が起きた夜。アルベルトが私に謝りに来て、こう言ったの。『君のことは大切に思っているが、エミリアの輝きが眩しすぎて』って」


ルシアンの目が、険しくなった。


「それは」


「彼には悪意がなかったと思う。ただ、正直すぎた。でもその言葉で、何かが終わった。静かに、音もなく」


「君が笑って婚約破棄を受け入れたのは」


「もう空っぽだったから」


ルシアンが、私の手を取った。


「俺は、君の言葉を後回しにしない」


「……まだ、それを信じる根拠がないわ」


「これから作る」


「?」


「信じる根拠を、これから積み上げる。だから今は、信じなくていい」


私は彼を見た。


金の瞳が、真剣だった。


嘘をつく目ではなかった。


「……では、積み上げてもらうわ」


「ああ」


「途中で面倒になっても知らないわよ」


「ならない」


「断言できるの?」


「番だから」


胸の翼紋が、温かく輝いた。


私は小さく笑った。



  ◇



五日目の夜、カリナが走ってきた。


「アルベルト殿下から、謝罪の書状が届いています……!婚約の再考を、とのことで」


私は手を止めた。


「…………」


「どうなさいますか、レティシア様」


「断って」


「よろしいのですか」


「よろしいわ」


「でも、殿下は」


「カリナ」


私は彼女を見た。


「アルベルト殿下のことを、私は嫌いになれない。人として。でも、もう一度隣に立とうとは思えない」


「なぜですか」


「あの人の隣では、私は私でいられないから」


カリナが、静かに頷いた。


「分かりました」


「それと」


「はい」


「私は帝国へ行くことになると思う。ついてくる必要はないわ」


カリナが目を見開いた。


「帝国……まさか、翼紋が共鳴を?」


「完全共鳴した」


「完全……!」カリナの目に、涙が浮かんだ。「レティシア様……!ようやく……!」


「泣かないで」


「泣きます……!十年間、光らない紋章を見続けていたんですよ、私……!」


私は苦笑した。


「そんなに気にしていたの?」


「当たり前です……!」


カリナが涙をぬぐいながら、真剣な顔をした。


「帝国へ、ご一緒させてください」


「でも」


「レティシア様のそばにいます。どこへでも」


私は彼女を見つめた。


「……ありがとう」


「お礼は、いりません」


「でも言わせて」


カリナが、泣きながら笑った。



その夜、ルシアンに伝えた。


「帝国へ、連れて行って」


ルシアンの金の瞳が、わずかに揺れた。


「……今の言葉は」


「あなたへの答えよ」


「本気か」


「本気じゃない言葉を言った覚えはないわ」


ルシアンが、深く息を吐いた。


「二日待て。準備をする」


「何を?」


「君を、正式に迎え入れるための全てを」


その声が、穏やかだったのか、喜んでいたのか。


私には区別がつかなかった。


でも、翼紋が温かく輝いていたから。


きっと、どちらも正解だった。








翌朝、父に呼ばれた。


「アルベルト殿下から、再考の打診があった」


「お断りします」


「理由を聞いてもよいか」


私は父の目を、正面から見た。


「私の翼紋が、完全共鳴しました」


執務室が、静まり返った。


「……誰と」


「ルシアン・ヴァルドレイン皇子です」


父の顔色が変わった。


「……帝国の第一皇子と。いつ」


「五日前の夜に、初めて言葉を交わしました。ただし、彼は三年前から私の番であることを知っていたようです」


「なぜ今まで」


「私に婚約者がいたから、待っていたそうです」


父は長い沈黙の後、額に手を当てた。


「おまえは分かっているのか。帝国へ行くということが、どういうことか」


「分かっています」


「王国に戻れなくなるかもしれない」


「分かっています」


「エルフォード家との縁も、薄れる」


「……それだけが、心残りです」


父が顔を上げた。


「アルベルト殿下が謝罪に来ても、戻るつもりはないのか」


「はい」


「なぜ」


私は少し考えた。


「殿下を、恨んでいません。でも、あの方の隣では、私は私でいられない。それが分かってしまった以上、戻ることはできません」


父は黙っていた。


窓の外の鳥の声が、静かに聞こえた。


「……お前の母は、俺の番だった」


突然の言葉に、私は瞬いた。


「十八歳の時に出会って、紋章が完全共鳴した。家格の差があったが、そんなことは関係なかった。彼女が俺の番だった、それだけで十分だった」


「お父様……」


「三年前に病で死んで、俺は……随分と長い間、食欲がなかった」


父の声が、かすかに震えた。


「番を失った鳥は、弱る。それは本当だ」


私は何も言えなかった。


父は目を伏せた。


「……帝国へ行け」


「お父様」


「番を手放すな。失ってから後悔することのないように」


目が、熱くなった。


私は立ち上がって、父の前に膝をついた。


「ありがとうございます、お父様」


「みっともない顔をするな、令嬢らしくしろ」


でも、父の目も赤かった。


私は頭を下げて、立ち上がった。


部屋を出る前に一度だけ振り返ると、父は机に向き直っていた。


肩が、小さく揺れていた。


私は静かに、扉を閉めた。



  ◇



二日後の夜明け前。


ルシアンが手配した馬車が、エルフォード邸の裏門に待っていた。


帝国の紋章を隠した、地味な旅行用の馬車。


カリナが荷物を持って立っていた。


馬車の中で、ルシアンが待っていた。


「来たか」


「約束したもの」


「後悔は?」


「ありません」


ルシアンが、私の手を取った。


強く。でも、乱暴ではなく。


「帝国では、俺が守る」


「ありがとう」


「何があっても」


「知っているわ」


「……俺を、信じるか」


私は彼の目を見た。


金色の瞳。三年間、鷹の目で私を見守り続けた瞳。


「信じるわ」


彼が、私の手を握る力が少し強くなった。


馬車が動き出した。


王都の夜明けが、窓の向こうで白み始めていた。


私は後ろを振り返らなかった。


前だけを見た。


ルシアンの手を握り返しながら。







国境まで三日。


馬車の中で、私たちは少しずつ話した。


「アルベルト殿下のこと、聞いてもいいか」


二日目の夕刻、ルシアンが言った。


「何を?」


「どんな十年だったか」


私は少し考えた。


「最初の五年は、幸せだったと思う。半共鳴をした相手と婚約できた。彼は私を嫌いではなかった。一緒に庭を歩いたり、互いの好きな本の話をしたり」


「それが変わったのは」


「彼が政務を持つようになってから。私は……段々と、後回しになっていった」


「具体的には」


「約束を忘れられることが増えた。意見を求められなくなった。夜会で、私より面白い話し相手がいれば、そちらへ行ってしまう。それ自体は仕方ない。でも、謝りもしなくなった」


「……」


「一番堪えたのはね」


私は窓の外を見た。


「二年前の冬。私の誕生日に、彼は来なかった。翌日、理由を聞いたら、『急な会議があった。でもどうせ毎年あるだろう』と言った」


ルシアンの手が、少し強く私の手を握った。


「……そんな男の婚約者で、十年間いたのか」


「大袈裟に言えばそう。でも、彼が意図的に傷つけていたわけではないの。ただ、私の存在が彼にとって『あって当然のもの』になっていた。空気みたいに」


「それは」


「十分に、傷つくことよ」


ルシアンは黙った。


しばらくして、こう言った。


「俺はそうならない」


「また断言するの?」


「する」


「根拠は」


「三年間、番のいる女を遠くから見守り続けた男が、手の届くところにいる番を粗末にするはずがない」


私は少し笑った。


「……それは確かに、説得力があるわ」


「俺が空気になりそうになったら、言え」


「なったらね」


「必ず言え」


「……分かったわ」


ルシアンが、私を見た。


その目が、真剣だった。


「約束だ」


「約束よ」


翼紋が、温かく輝いた。



  ◇



国境を越えた日の夕刻。


報告が届いた。


「アルベルト王太子、倒れる。翼紋の変色が急速に進み、発熱と倦怠感で床に就いた」


ルシアンが書類を閉じた。


私は窓の外を見た。


「……そう」


「哀れだとは思うか?」


「少し、思う」


「憎くはないのか」


「憎めない。でも」


「でも?」


「あなたと出会えたのは、あの人が私を手放したからよ。不思議ね」


ルシアンが、私を見た。


「……俺は感謝しない」


「アルベルト殿下に?」


「あの男が正しく君を愛していたなら、俺は君に会えなかった。だが感謝はしない」


「なぜ?」


「君が傷ついたから」


その言葉が、静かに胸に落ちた。


「……ありがとう」


「何のために言う」


「怒ってくれることへの、お礼よ」


ルシアンが、少し目を細めた。


「……帝国では、俺が怒る必要のないようにする」


「期待しているわ」


馬車は、帝都へと走り続けた。







帝都での婚礼は、三ヶ月後に執り行われた。


帝国式の白い礼服。


香草と花に包まれた大広間。


翼紋が空へと光を放った時、広間に集まった全員が目を見張った。


光は天井を抜け、夜空に柱のように立ち昇った。


「本物の番だ」


誰かが囁いた。


婚礼の夜。二人だけの部屋で。


「後悔は?」


ルシアンが囁いた。


「ありません」


「俺も、ない」


「あなたは何も失っていないから当然でしょう」


「失うものは全て、これから一緒に積み上げるつもりでいる」


「……大きなことを言うのね」


「本気だ」


「知っている」


「俺が死んだら?」


私は彼の胸元に手を当てた。


翼紋が、温かく光る。


「追いかけます」


「迷いなく?」


「迷いなく」


「なら俺は絶対に死なない」


「毎回そういう返し方をするのね」


「番が死ぬと言えば、死なない。合理的だろう」


「……全然合理的ではないわ」


「でも、君は笑っている」


「…………」


確かに、笑っていた。


心の底から。


「番の鳥は、片方を失うと死ぬらしいですよ?」


「知っている」


「だから、絶対に死なせない」


「その言葉、信じるわ」


翼紋が、互いの胸で同時に輝いた。


鎖のように絡み合い、離れることのない紋章。


これが、私の番の証明。


重い愛。逃げられない愛。


でも。


それが欲しかった。


ずっと、欲しかった。


鳥は、番と共に空を奪う。


もう私は、捨てられる側じゃない。


二度目の恋は、国を越えて。


魂ごと繋がる。


これが、私の番の物語。


――そしてこれは、始まりの章に過ぎない。




一年後。



帝都の窓辺で、朝の茶を飲んでいた。


隣に、黒髪の夫が座っている。


「今日の会議は?」


「午後から。君も来るか」


「政務に口を出してもよいの?」


「俺が求めている」


「ならば、参加する」


ルシアンが、私の手に自分の手を重ねた。


翼紋が、ほのかに温かくなる。


窓の外で、二羽の鳥が飛んでいた。


番の鳥。一緒に、空を泳ぐように飛んでいた。


「……ねえ」


「何だ」


「あの鳥、毎朝ここに来るのね」


「ああ」


「巣でも作るつもりかしら」


「さあ。居心地がいいのだろう」


私はその鳥を見ながら、言った。


「あなたは私を、空気にしないと言っていたわ」


「ああ」


「この一年、約束を守ってくれた」


ルシアンが私を見た。


「続けろ」


「これからも守って」


「当然だ」


「それだけ」


「……それだけか」


「ええ」


ルシアンが、私の頭に手を乗せた。


「……ちゃんと、見ている」


「知っているわ」


「毎日、見ている」


「知っているわ」


「これからも、見ている」


「……しつこいわよ」


「番だから」


「その言葉を、何回聞いたか分からない」


「これからも言う」


「じゃあ、これからも聞くわ」


翼紋が、温かく、ゆっくりと光った。


二羽の鳥が、どこかへ飛んでいった。


私たちは、二人で、その空を見ていた。





――完。





【翼紋の設定について】


「複数の相手と半共鳴できる魂」は、この世界では稀な存在です。それはつまり、複数の人に深く愛される可能性を持つということ。でも同時に、どの相手を選ぶかは、「誰が本物か」ではなく「誰が誠実か」にかかっているということでもあります。


アルベルトは、レティシアと繋がれた。でも繋がることと、大切にすることは別の話です。


ルシアンは、繋がりを信じて三年間待ち続けた。

ルシアンは、レティシアが幸せならそれでよかった。

たとえ、レティシアが自分の番にならなくても。


その差が、全てでした。


お読みいただき、ありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
複数の相手と半共鳴できる魂という設定だとハーレムや逆ハーレムもあるのかな。 アルベルトは誕生日忘れたり公開婚約破棄したり致命的に無神経ですね。多分政務では周囲やレティシアがそこをフォローしてたのでは…
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