第9話 限界距離とバスルーム
翌朝。
俺が目を覚ますと、視界一面が「白」だった。
天井じゃない。白くて、すべすべしていて、ほんのり甘いミルクの匂いがする……肌?
「……んぅ、アト、おはよ」
「うわあああっ!?」
俺は飛び起きた。
目の前にあったのは、鋳吹の顔。いや、胸元だった。
狭いシングルベッドの上、俺たちは抱き合うようにして眠っていたらしい。
「お、お前、なんで俺の布団に!」
「……床は、痛いから」
鋳吹は悪びれもせず、欠伸をしながら俺のパジャマの裾を掴む。
「それに、離れると死ぬ」
「一八メートルあるんだから、部屋の隅と隅でも平気だろ!」
「やだ。……アト、温かいから」
彼女はむぅと頬を膨らませると、二度寝しようと俺の腹に顔を埋めてきた。
彼女の肌は、人間離れしたひんやりとした冷たさを持っていた。まるで極上の陶器か、大理石のようだ。
それが俺の体温を求めて密着してくる。
これが「悪魔」じゃなくて普通の美少女なら、中三の男子としては天国なんだろうが、今の俺には心臓に悪いだけだ。
だが、本当の地獄はここからだった。
「……アト、お風呂」
鋳吹が自分の髪を摘んで言った。
昨日の戦闘で、鋳吹の銀髪や体は煤や泥で汚れていた。
「ああ、そうだな。沸かすよ」
俺たちはベッドから這い出し、浴室へ向かう。
築四十年のボロアパート『明星荘』。風呂場は玄関脇にあり、脱衣所なんて洒落たものはない。洗濯機置き場を兼ねた狭い廊下がその代わりだ。
レバーを回し、カチカチとバランス釜に火をつける。
お湯が溜まると、鋳吹は廊下で服を脱ぎ始めた。
「ちょっ、待て! 俺は向こう向いてるから!」
「ん。……アト、行っちゃダメだよ?」
「行かねえよ! 行けねえんだよ物理的に!」
俺はキッチンの換気扇の下まで退避し、背中を向けてうずくまる。
背後で衣擦れの音がして、浴室のドアが開く音、そしてチャポンという水音が響いた。
(……一八メートルって、意外と長いようで短い)
俺は換気扇の油汚れを見つめながら、必死に無心を装う。
だが、想像力というのは残酷だ。
すぐ数メートル後ろの壁の向こうで、あいつが裸でお湯に浸かっている。
肌が白いとか、意外と発育がいいとか、昨日の感触とか、そういう情報が脳内を駆け巡る。
『……アト』
浴室から、こもった声が聞こえた。
「な、なんだよ!」
『……シャンプー、どれ?』
「青いボトルだ! あと、石鹸はネットに入ってるやつ!」
『……ん』
ゴシゴシと体を洗う音が聞こえてくる。
ダメだ、静かだと余計なことを考えてしまう。
「~♪」
俺は大声で歌い始めた。校歌だ。色気のかけらもない校歌を、必死に絶叫して雑念を振り払う。
「み~がく~学びの~窓近く~!」
隣の部屋から「うるせえぞ!」と壁ドンの音がしたが、今の俺にはそれどころじゃない。
十分後。
ガチャリと浴室のドアが開いた。
「……アト、出た」
振り返った俺は、絶句した。
モウモウと立ち込める湯気の中、バスタオルを一枚だけ巻いた鋳吹が立っていた。
濡れた銀髪が肌に張り付き、上気した肌は桜色に染まっている。
そして何より、バスタオルの巻き方が甘い。鎖骨から胸のラインが、危うい曲線を描いている。
「っ……お前、服! 着ろよ!」
俺が慌てて目を逸らすと、鋳吹はトテトテと近づいてきて、俺の背中にぴとりと張り付いた。
ひやりとした水滴の感触。風呂上がりだというのに、彼女の肌の表面はどこか冷たい。
「……背中、届かなかった」
「は?」
「洗って」
「ぶっ!!」
俺は噴き出しそうになるのを堪えた。
濡れた体で抱きつかれ、石鹸のいい匂いが鼻をくすぐる。
「ば、バカ野郎! 中学生男子になんてこと頼むんだ! 自分でやれ、長いタオル使え!」
「……アト、冷たい」
「俺は理性の限界なんだよ!」
一八メートルという「死の鎖」は、俺たちを強制的に「ゼロ距離」へと縛り付ける。
この同居生活、敵に殺される前に、俺の心臓が爆発して死ぬかもしれない。
俺は天井を仰ぎ、明星荘のシミを見つめながら、これから始まる長い一日を思って遠い目をした。




