第8話 ゼロ距離のぬくもり
静寂が戻った教室。
俺は床にへたり込んだ。目はまだ痛むし、体中の力が抜けていく。
「アト、大丈夫?」
鋳吹が俺の顔を覗き込む。
彼女の手のひらが、俺の目の上を覆った。ひやりとした冷たい感触が、焼けた目に心地よい。
「……治癒」
淡い光が染み渡る。痛みが引き、ゆっくりと目を開けると、心配そうな鋳吹の顔があった。
彼女自身もボロボロで、脂汗をかいているのに、真っ先に俺を治してくれたんだ。
「……ありがとな。あと、ごめん。疑って」
「ううん。アトが無事なら、それでいい」
俺は恐る恐る周囲を見渡す。クラスメイトたちは全員、机に突っ伏して眠っていた。ヒナも寝息を立てている。
「あいつら、今の見てたかな……?」
「大丈夫。結界の中で起きたことは、外部には漏れない。それに、認識阻害の霧を撒いたから……みんな、ただの深い居眠りか、変な夢を見たと思ってるはず」
「……用意周到だな」
俺たちは、まだ誰も目覚めないうちに、こっそりと教室を抜け出した。
帰り道。夕焼けがボロアパートの錆びた階段を赤く染めている。
俺たちの手首には、うっすらと赤い鎖のようなあざが浮き出ていた。
窓ガラスが割れたままの俺の部屋。風が吹き込んで寒いはずなのに、彼女がいるだけで不思議と寒くない。
「ねえ、アト」
「ん?」
「手、繋いでもいい? ……一八メートル以内なら、いいでしょ?」
鋳吹が上目遣いで、おずおずと手を差し出す。
学校でもベタベタしてきたが、この状況でさらに甘えてくるのか。積極的すぎるだろ。
俺はため息を一つつき、頭を搔いた。
(……まあ、今日くらいはいいか)
命がけで俺を守ってくれた相手だ。無下にできるはずがない。
俺は少しためらってから、その小さな手を握り返した。
ひんやりとしている。
陶器のように滑らかで、どこか人間離れした冷たさ。
けれど、その冷たい手が俺を強く握り返してくる感触に、確かな信頼と意志を感じた。
「……冷たいな、お前」
「そう? でも、アトの手は温かい」
鋳吹は嬉しそうに、俺の腕にすり寄ってくる。
「おい、歩きにくいって……」
「ゼロメートルだね」
「……はいはい」
俺は困ったように苦笑しながら、握った手に少しだけ力を込めた。
「ただいま、イブキ」
泥のような孤独な日常は終わった。
この厄介で、ひんやりとしていて、離れられない悪魔となら、この狭い六畳一間も悪くないかもしれない。
そう思いながら、俺たちは一つの影になって歩き出した。




