第10話 通学路の違和感
学校への道のりは、針のむしろだった。
「……おい、頼むから少し離れてくれ」
「やだ。一八メートル」
「今は30センチだろ! せめて1メートルくらい空けろよ!」
俺の悲痛な叫びも虚しく、鋳吹は俺の左腕をガッチリと抱え込んで離さない。
彼女の体温は、やはりどこか人間離れしてひんやりとしている。
夏の朝の日差しが照りつける中、その冷たさは正直心地いい。……いや、そういう問題じゃない。
「見て、あれ。明星くんだ」
「うわ、ホントだ。転校生の子とベッタリじゃん」
「付き合ってんの? 昨日までボッチだったのに?」
すれ違う他校の生徒や、近所の主婦たちの視線が痛い。
昨日の「教室での一件」は、鋳吹の魔法で『集団幻覚』として処理されたらしいが、登下校のこの状況は誤魔化しようがない。
俺は学ランの襟を立て、できるだけ顔を隠して歩く。
対照的に、鋳吹は周囲の目など意に介さず、時折空を仰いだり、道端の花を見つめたりしている。
その横顔は、初めて外界に触れた子供のように無垢で――そして、どこか危うい。
「アト、人間って多いね」
「東京だからな。……お前、疲れないか?」
「ううん。アトの『熱』があるから、平気」
鋳吹は俺の腕に頬をすり寄せた。
俺は心臓が跳ねるのを無視して、前を向く。
通学路の途中にある、古い歩道橋に差し掛かった時だった。
カン、カン、と鉄板の階段を登る音が響く。
俺の前を歩いていたサラリーマンが、急にスマホを落とした。
「あッ」
彼が屈み込むのを避けるため、俺は一歩、横にズレた。
歩道橋の端。錆びついた手すりの影が、濃く落ちている場所だ。
ゾクリ。
背筋に悪寒が走った。
殺気? いや、もっと生理的な嫌悪感。
次の瞬間、俺の右足の足首に、何かが絡みついた感触があった。
冷たくて、ヌメリとした――
「うわっ!?」
足がもつれる。
ただ躓いたのとは違う。明確に、地面へと『引きずり込まれる』ような引力。
俺の体はバランスを失い、鉄の階段に向かって顔から倒れ――
ガシッ!
「――っ!」
衝撃は来なかった。
鋳吹が、俺の襟首を後ろから掴んで引き戻していたのだ。
その力は華奢な見た目からは想像できないほど強く、俺は一瞬で体勢を立て直された。
「い、イブキ? サンキュ……危なかった」
俺が安堵の息を吐こうとすると、鋳吹は俺を見なかった。
彼女の真紅の瞳は、鋭く細められ、俺が踏みそうになった「影」を睨みつけている。
「……そこに、いるの?」
低い声。
普段の甘えた声色とは違う、捕食者の唸り声だ。
「え? 何が……」
俺も視線を向ける。
そこには、ただ歩道橋の影があるだけだ。
だが、じっと見つめていると、その影の一部が、不自然に揺らいだ気がした。
まるで、アスファルトの亀裂に染み込む黒い水のように。あるいは、とぐろを巻いた蛇の尾のように。
シュルリ、と微かな音を残して、その気配は側溝の闇へと消えていった。
「……逃げた」
鋳吹が警戒を解き、ふぅと息を吐く。
「イブキ、今のは……」
「敵の斥候。……弱いけど、嫌な匂いがした」
彼女は俺の腕を、さっきよりも強く抱きしめ直した。
「アトの足、狙ってた」
俺は自分の足首を見る。
靴下の上からでもわかるくらい、冷たい感触が残っている。
ヤコブの予言。『道のほとりの蛇、馬のかかとを噛む』。
聖書の授業で聞いたフレーズが、不意に脳裏をよぎった。
「……これから、もっと来る」
鋳吹がポツリと言う。
「でも、大丈夫。私が全部、噛み砕くから」
その言葉は頼もしかったが、同時に彼女が背負っているものの重さを俺に突きつけた。
日常の中に、死が混ざり始めた。
俺たちは、一八メートルという短い鎖で繋がれたまま、この見えない地雷原のような日常を歩いていかなきゃならないんだ。
「……行くぞ、イブキ。遅刻する」
「ん」
俺は彼女の手を――今度は腕じゃなく、その冷たい手をしっかりと握った。
学校のチャイムが、遠くで鳴り響いていた。




