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銀髪の贖罪

 

 ロックソルト村の朝は、いつも岩塩の鉱脈から響くハンマーの音で始まる。村の教会では、神父ジャスティの祈りの声が静かに広がっていた。シフォンが引き取られてから、すでに30年の月日が流れていた。

 ジャスティは白髪混じりの頭を垂れ、ソルテラは皺の増えた手で聖書を握りしめていた。

 二人は老人ともいえる年齢になっていたが、神への信仰心は微塵も衰えていない。

 毎朝の祈りを欠かすことはなく、村人たちに神の教えを説き続ける姿は、村の精神的な支柱だった。

 

 一方、シフォンは赤ん坊の頃の面影を残したまま、7歳程度の幼い容姿を保っていた。

 ハイエルフの血がもたらす長命の影響は明らかで、人間たちの時間軸とはかけ離れた成長速度だった。

 銀色の髪は肩まで伸び、赤い瞳は知的な輝きを宿していた。見た目とは裏腹に、彼女の知能は驚異的だった。

 ジャスティとソルテラが神学校で学んだ全ての知識を、シフォンは貪欲に吸収した。神学、歴史、薬草学、果ては古語まで。

 教会の蔵書室で、ジャスティの古い本を読み漁る姿は、まるで飢えた獣のようだった。

 

「シフォン、君の知識欲は神の恵みだよ。もっと学べば、村の役に立つだろう。」

 

 ジャスティはそう言って、シフォンを褒めた。ソルテラは優しく頭を撫で、温かいスープを振る舞った。シフォンは感謝の言葉を口にし、笑顔を浮かべた。

 村人たちからも、彼女は「教会の賢い娘」として慕われていた。

 

 数年後、シフォンの興味は新たに武術や武器術へと移った。

 村の自警団の詰所に出向き、猟師たちから剣や弓の扱いを学んだ。特に槍において、彼女は天賦の才を発揮した。

 細い腕が槍を振るう姿は、まるで風のように軽やかで、的確だった。時折り、狩猟団に同行するようになり、森の奥で獣を仕留める手伝いをした。村人たちは、そんなシフォンを「深い信仰心を持ちながら、村のために働く素晴らしい人柄」と讃えた。彼女の善行は、村の噂話の中心だった。

 

 だが、その実、シフォンは深い苦悩を抱えていた。育ての親から教えられたまま、彼女は善行を重ねてきた。病人の看病、貧しい者への施し、教会の掃除。すべてを忠実にこなしたが、それらに喜びを感じることができなかった。

 心のどこかで、何かが欠けている。シフォンは生まれつき、自身や他者の幸福や喜びといった感情を理解できなかった。満たされない空虚感が、常に胸を締めつけた。 

 周囲が当然のように持っている「善」や「道徳」が、彼女にとってはただの義務。機械的にこなす行為でしかなく、何の喜びも生まない苦痛だった。

 

「なぜ、皆は笑顔で善を為すのだろう? 私には、それがわからない……。」

 

 夜の教会で、シフォンは独り呟いた。聖書の言葉を暗唱しても、心に響かない。祈りを捧げても、神の声は聞こえない。

 ただの空虚な儀式。彼女は自分を「欠陥品」のように思ったが、それを口に出すことはなかった。

 ジャスティとソルテラを悲しませたくない。それが、彼女の唯一の「善」の動機だった。

 

 そんなある日、シフォンは狩猟団と森へ出かけた。

 岩塩の交易路を守るための定期的なパトロール兼狩猟。ヴェゼルをはじめ、数人の猟師たちと一緒だった。森は深い霧に覆われ、木々が密集する危険な場所。シフォンは槍を携え、軽やかに進んだ。

 

「シフォン、今日は鹿を狙おうか。君の槍なら、一撃だ。」

 

 60を超え、皺が増えてもなお現役のヴェゼルが笑って言った。シフォンは頷き、グループの先頭を歩いた。だが、道中で霧が濃くなり、彼女は一人はぐれてしまった。木々の間を彷徨う中、突然、荒い息づかいが聞こえた。三人の男が現れた。ぼろぼろの服を着た、目つきの鋭い盗賊たちだ。

 

「おい、見ろよ。小さい娘だぜ。運がいいな。」

 

 一人がニヤリと笑い、ナイフを抜いた。他の二人は棍棒と剣を持っていた。彼らはシフォンを囲み、近づいてきた。

 

「大人しくしろよ。お前みたいな可愛い娘、楽しませてくれよ。」

 

 シフォンに乱暴を行うという意図が明らかだった。シフォンの赤い瞳が冷たく光った。だが、それだけではない。彼らの会話から、村を襲う計画が漏れ聞いた。

 

「この後、ロックソルト村を襲うんだ。岩塩のおかげで金がたんまりだって話だ。」

 

 シフォンの心に、義務感が湧いた。村を守る。それが善だ。彼女は手にした槍を構えた。盗賊たちは嘲笑ったが、次の瞬間、シフォンの動きは電光石火だった。槍の穂先が閃光のように走り一人の喉を貫き、血が噴き出した。

 残りの二人が慌てて武器を振り上げるが、遅い。シフォンは体を翻し、二番目の男の胸と喉元を突き、三番目の棍棒を避けて首を薙いだ。あっという間の出来事。三人の盗賊は、地面に倒れ、動かなくなった。

 

 シフォンは槍を握ったまま、立ち尽くした。息は乱れていない。心臓の鼓動さえ、平常だった。悪者だったとはいえ、三人の人を殺してしまった。だが、躊躇や抵抗感がなかった。それが、彼女を恐ろしくさせた。

 

「私は……何も感じない。殺すことに、罪悪感すらないのか?」

 

 血の臭いが鼻を突く。シフォンは震え、槍を落とした。初めての殺人。理性が追いつかない。自分の中に、怪物がいるような気がした。

 

 やがて、離れ離れになっていた猟師たちと合流した。ヴェゼルが心配そうに駆け寄ってきた。

 

「シフォン、無事か? 何があったんだ?」

 

 シフォンは正直に話した。盗賊に囲まれ、乱暴されそうになり、村を襲う計画を聞き、殺してしまったこと。猟師たちは顔を見合わせ、ヴェゼルが肩を叩いた。

 

「身を守るためだ。仕方なかったよ。お前は村を救ったんだ。」

 

 他の猟師たちも頷き、慰めてくれた。村に戻り、ジャスティとソルテラに報告した。二人はシフォンを抱きしめ、祈りを捧げた。

 

「神はお許しになる。汝の行為は、正義だよ。」

 

 ジャスティの言葉は優しかった。ソルテラは涙を浮かべ、シフォンの髪を梳いた。村人たちも、シフォンを英雄視した。だが、シフォンの心は晴れなかった。躊躇なく人を殺し、その行為に抵抗感がなかった自分。理想も願望も欲求も、何も持ち合わせていない精神的に空虚な自身。そんな自分にも、美しいと思える何かがあるはずだ。善性があると信じたい。

 

 それから、シフォンは高い倫理観から、自らの破綻と歪みに苦しみ始めた。自分の中に善性があると信じ、厳しい鍛錬を始めた。朝から晩まで、槍の稽古。森での瞑想。聖書の熟読。魔術の勉強。回復魔法の習得。様々な事に打ち込み、成果を上げたが、心の空虚は埋まらない。打ち込んでは捨て、別の道を探す。まるで、永遠の迷路を彷徨うようだった。

 

 周囲は、そんなシフォンを「敬虔な信者」と見ていた。ジャスティは誇らしげに語った。

 

「シフォンは、神の道を真摯に歩んでいる。素晴らしい娘だ。」

 

 村人たちも、彼女の鍛錬を美徳とした。だが、シフォン本人も、自分の破綻した人格に気づかないままだった。空虚を埋めるための作業を、ただ繰り返す。善の仮面を被り、内なる闇を隠す。いつか、光が見えると信じて。

 

 月日はさらに流れ、シフォンの日常は変わらなかった。狩猟の帰り道、ヴェゼルが言った。

 

「シフォン、お前は強くなったな。でも、たまには休めよ。」

 

 シフォンは微笑んだが、心は空っぽだった。森の風が、銀髪を揺らす。赤い瞳に、未来の影が映った。

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