8-13 ただいま、もう二度と離さない (最終話)
天を衝く神木の頂で、滅亡の実が音を立てて弾けた。
ビャクにとって、撒き散らされる光はもはや祝福ではなく、この世の終わりを告げる輝きにしか見えなかった。
「……終わった。全て、無駄だったのか」
ビャクが、震える手から刀を落とした。乾いた音が静寂に響く。
70年前、世界を血の海に沈めたあの大厄災。神木から産み落とされた竜が、数多の命を紙切れのように引き裂いたあの悪夢が、今まさに繰り返されようとしていた。
「私たちが足掻き、奪い、失ってきたものは……この絶望を再び呼び起こすための儀式に過ぎなかったというのか……!」
ビャクの呻きは、希望を絶たれた者の血を吐くような独白だった。
植物と化した姉妹の像は物言わず、ただ滅亡のゆりかごを支え続けている。ライルは膝を突き、空っぽになった腕を見つめ、声にならない叫びを喉に詰まらせていた。
──だが、その時。
引き裂かれた実の割れ目から溢れ出したのは、どす黒い殺意ではなく、春の陽だまりのような温かな白光だった。光の粒子が雪のように舞い散る中、空からゆっくりと、何かが降りてくる。
それは、世界を焼き尽くす竜の鉤爪ではなかった。人の、あまりに脆く、美しい少女の体だった。
ライルが、止まっていた息を吐き出した。宙から力なく落ちてくるその体を、ライルは折れた右腕の激痛も忘れ、必死に両腕を広げて受け止めた。
「……っ、ああ……」
腕の中に伝わる、あまりに脆く、確かな体温。抱き上げられた少女――シエラは、ライルの胸の中でゆっくりと、重い瞼を持ち上げた。
その左脚は、根元から失われている。神木の理に逆らい、理不尽な宿命から彼女を切り離した際に支払われた、残酷な対価のように。
だが、ライルは彼女を離さなかった。失われた脚の分まで、彼女の全てを背負うかのように。
「……ライル? 変な顔。……また、泣いてるの?」
その声が、凍りついたライルの時間を溶かした。ホムンクルスではない。器だけの肉体でもない。記憶も、心も、その魂も――ライルが何よりも愛し、手を伸ばし続けたシエラそのものだった。
「シエラ……シエラ! ああ、シエラ!!」
ライルは腕の中の彼女を、壊れ物を扱うように何度も、何度も抱きしめた。
神木は、竜ではなく『一人の人間』を産み落としたのだ。
否、神木の一部となったリアナが、消えゆく意識の淵で、ライルのあの慟哭を聞き届けたのだ。国を、宿命を、神の理さえも裏切り、彼女は最後に、シエラという奇跡をこの世に残した。
『シエラを、よろしくね』
風のささやきの中に、たった一度だけ、凛としたリアナの声が溶けていた気がした。
「ああ……ありがとう、リアナ、ありがとう……!」
ライルの目から、溢れんばかりの涙がシエラの頬に落ちる。
シエラは戸惑ったように目を瞬かせ、それから、すべてを思い出したように愛おしそうに目を細めた。
彼女は自由な両手を、ライルの背中にそっと回す。
「ライル、ただいま……もう、どこにも行かないよ」
70年前の悲劇は、ここで断ち切られた。
二人の王女は永遠の緑となり、世界を包む静かな守護者となった。
シエラの左脚は二度と戻らない。それでも、命の温もりだけは、今、ライルの腕の中に確かにある。
見上げれば、神木の隙間から、どこまでも澄み渡る青空が広がっていた。
不完全な、けれど確かな希望を抱いて。青年と、左脚を失った少女の永い旅路は、柔らかな光の中で静かに結ばれた。
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「暗殺依頼を受けたらとんでもない事になった」を最後まで読んでいただき、本当にありがとうございます。
この物語は、『正しくなくても、美しくなくても、あなたがその手を離さないと決めたなら、それは奇跡に変わる』というコンセプトのもとに執筆いたしました。
主人公のライルは決して清廉潔白な英雄ではありません。ヒロインのシエラも、そして悲劇の女王エルザも、皆どこかに拭えない欠点や欠陥を抱えています。
けれど、そんな不完全な彼らがボロボロになりながらも何かを貫こうとする姿に、何かを感じていただけたなら、作者としてこれ以上の喜びはありません。
誰しも、人には言えない欠落や、ままならない運命を抱えているかと思います。それでも最後に、ライルとシエラのように、誰かの温もりを信じられる一歩を踏み出せることを願って。




