7-2 赤縄の檻
聖域の西側に佇む養生施設。白壁に囲まれたその建物は、外の喧騒とは無縁の静寂に包まれていた。
ビャクは音もなく建物に入り、板張りの廊下を進む。質素だが清潔な空間――しかし、鼻を突くのは消毒液の匂いではなく、ねっとりとした青臭い『生』の残り香だった。
奥の部屋から漏れる灯りを頼りに、彼女は影のようにその中を覗き込む。
部屋の中央、白いシーツの上に横たわる少年テオの姿に、ビャクは息を呑んだ。
「……何だ、これは」
それは治療と呼ぶにはあまりにも悍ましい場だった。
テオのまぶたの縁、耳の穴、そして剥がれかけた爪の隙間から、瑞々(みずみず)しくも禍々しい細葉が芽吹いている。
血管を這うように、皮膚の下では蔦がうねり、少年の輪郭を植物へと書き換えていた。
「いつもなら……祭事が始まればテオくんは元気になるのに……」
傍らでハサミを握りしめたユキが、絞り出すような声で言った。
彼女の足元には、切り取られたばかりの青い蔦が散乱している。だが、切ったそばから傷口は緑に染まり、新たな芽が肉を割って顔を出す。
再生の速度が、少女の必死の抵抗を嘲笑っていた。
「おい。何が起きている。シエラはどこだ」
ビャクの鋭い問いに、ユキは顔を上げた。その瞳は恐怖に濡れている。
「わからない、こんなの初めてなの! テオくんの体が、どんどん木になっちゃう……。これじゃ、テオくんが……!」
「祭事なんて……やっちゃいけないんだ」
弱々しい、だが芯のある声が混じった。
樹皮に浸食されかけた右目をかろうじて開き、テオがビャクを凝視する。その瞳には、自身の死への恐怖よりも深い、拒絶の意志が宿っていた。
「誰かの命を吸い上げて治療するなんて……そんなの、間違ってる。お姉さん、お願いだ、祭事を止めてくれ。今もシエラちゃんは、僕のために……生命力を吸われているはずなんだ」
「わたしからも、お願い!」
ユキが縋るように叫ぶ。
「シエラちゃんは、西の崖の中腹にある洞窟に……あそこに閉じ込められていると思うの!」
ビャクは返事も待たず、施設を飛び出した。
夜風を吸い込む。だが、その空気さえも汚染され、肺の奥が焼けるように疼く。
西の崖。そこには、司祭が張り巡らせたであろう結界が、粘りつく霧のように渦巻いていた。
ビャクは歩みを止めず、腰の刀の柄に指をかける。
(侵入者探知の結界か……)
ビャクは、迷うことなく死地へと踏み込んだ。
洞窟の最奥、そこには幾重にも重なる赤縄の呪印の中心に、『白銀の礼装』を纏う一躯のミイラが鎮座していた。
周囲には、役割を終えて枯れ木のように干からびた先代巫女たちの遺体が、無惨に転がっている。
御神体のミイラには、これまでの祭事では決して見られなかった異変が起きていた。
「……何だ、この熱気は」
ビャクは足を止め、目を見開いた。
これまでの巫女たちが「注ぎ込む」だけだったのに対し、シエラの生命力は、まるで乾いた大地に染み込む水のように、御神体のミイラへと吸い込まれていく。
死んでいたはずの肉体が、シエラの命と共鳴し、瑞々(みずみず)しい生気を取り戻し始めたのだ。
「おお……おおおっ! 素晴らしい、相性が良すぎる! 御神体が、これほどまでに歓喜しておられる!」
司祭は狂喜し、両手を広げて叫んだ。
ミイラの皮膚は赤黒い血色を帯び、血管がひとりでに脈打ち始める。
シエラの生命力があまりに強大で適合しすぎたために、ミイラは単なる中継地点を超え、一つの『生命』として再構築されようとしていた。
「シエラを離せ!」
ビャクは一足飛びに距離を詰めると、シエラを縛る縄へ刀を振り下ろす。
その刹那、御神体から溢れ出した圧倒的な圧力が、物理的な衝撃波となってビャクを壁際まで押し戻した。
「くそっ……!」
「邪魔をするな! この娘こそが真の楔だ。これほどの適合……もはや、テオを救うだけでは収まらん。御神体そのものが、十年前の姿を取り戻そうとしているのだ!」
ビャクが姿勢を立て直そうとしたその時、洞窟全体が激しく震動した。
シエラと御神体の共鳴が引き起こしたエネルギーは、もはや術の制御を完全に超えていた。
ミイラから噴き出した赤縄の奔流が、生き物のように洞窟の天井を打ち据えた。
「いかん、このままでは洞窟が……っ!」
司祭の顔に初めて焦燥が浮かぶ。
巨大な岩塊が次々と剥がれ落ち、崩落は洞窟内にとどまらず渓谷全体へとゆっくりと広がっていく。
御神体はシエラの命を吸い続けることを止めず、その余波で生じた不浄なエネルギーが、縄を通じて村へと逆流を始めた。
「届かないのか……っ!」
崩落する土砂の隙間から、ビャクは必死に手を伸ばした。
しかし、シエラの姿は赤縄の繭に包まれ、さらには降り注ぐ岩盤の向こう側へと遮られていく。
「シエラ――!!」
絶叫は轟音にかき消された。
大規模な崩落が洞窟を埋め尽くし、ビャクは押し寄せる衝撃と土煙の中に飲み込まれた。




