7-1 聖域の毒
切り立った深い渓谷に周囲を囲まれた、閉ざされた村。
白磁の壁が連なる聖域の施設内は、質素ながらも清潔に保たれ、窓から差し込む朝日は柔らかい。
だが、そこに漂うのは鼻を突く薬草の苦い匂いと、拭い去ることのできない濃厚な死の気配だった。
その一室でライルはベッドに寝かされていた。
聖域に到着後、彼はすぐに気を失い倒れてしまっていたのだ。
帝都での決戦、そして皇帝ガルダスから引き継いだ『澱』の呪いの代償か。
彼の血管は、灼熱の泥を直接流し込まれたかのように、どす黒く脈打っている。
寝かされているライルの横で老婆が呟く。
「ひとまず、これで安静にしていれば大丈夫だね」
傷口に手際よく布を当てているのは、元宮廷魔導師の老婆フイユだ。
今は慈愛に満ちた修道女の姿をしているが、その眼差しは、眠るライルの顔を隅々まで観察するように鋭い。
ライルの傍らでは、支給された薬と栄養剤によって生気を取り戻したビャクが、壁に背を預けていた。
瞳は細められ、フイユの挙動を一つも見逃すまいと注視している。
「……婆ちゃん。この薬、妙に甘いな」
「おや、贅沢を言うんじゃない。体に良いものは、いつだって変な味がするものよ」
フイユは事もなげに答え、濡れた布を絞る。ビャクは抱いた不信感を押し殺し、本題を切り出した。
「シエラはいつからいないんだ?」
フイユは悲しげに眉を寄せ、動きを止めた。
「四日前のことさ。ユキちゃんとテオの見舞いに行ったのを最後に、その日の夜、忽然と姿を消してしまった……」
「どこに行ったか、心当たりは?」
「ないねぇ。……そう……、この辺りは深い渓谷に囲まれているから、うっかり足を滑らせてしまった可能性もあるかねぇ……」
震える声で語るフイユ。だが、ビャクはその言葉の端々に、ひび割れた鏡を覗き込むような違和感を嗅ぎ取っていた。
「……そもそも、この教会は何を信仰しているんだ。あの入り口にあった石像は何だ?」
「ああ、あれは『相対天使』様。この辺りは昔から不浄の瘴気が集まりやすくて、特有の疫病が蔓延していたの。
十五年前、まだお若かった司祭様がその病に倒れた時、二人の抱き合う幼い天使が現れて、奇跡的に司祭様を救った……。
それがきっかけで、この地に教会が建てられたのさ」
「奇跡、か……」
ビャクは目を閉じて意識を研ぎ澄ませる。
「……シエラと会っていたという、テオとユキとは誰だ」
「テオは司祭様の息子さん。今は疫病を再発して、村の西にある養生施設で寝たきりになっているよ。
ユキちゃんは、ここで引き取られた孤児。歳が近いせいか、シエラちゃんとすぐに仲良くなって……あの子も、親友がいなくなって、さぞかし心を痛めているだろうねぇ」
フイユの指先が、再びライルの額を撫でる。その手つきは慈母のようでありながら、どこか獲物の鮮度を確かめるような冷徹さが透けて見えた。
「婆ちゃん、ありがとう。私はシエラを探しに行ってくる。ライルを頼むぞ」
「ええ、任せておきなさい。……ビャクさん、シエラちゃんを探しに行くなら、崖の方には近づかないこと。あそこは足場が悪く、神聖な場所だからねぇ」
忠告を背に、ビャクは音もなく部屋を後にした。
一歩、外へ踏み出した瞬間。ビャクの肌を刺したのは、高原の爽やかな風などではなかった。肺の奥にねっとりと張り付くような、澱んだ大気。
ライルを蝕むあの『澱』と同質の、吐き気を催すほどに濁った感覚。
(……この村、何かが致命的に腐っている)
ビャクは瞳を細め、西の空を見据える。そこにはフイユの言う『養生施設』があるはずだった。
確信と共に、ビャクは風となって村の西へと駆け出した。
その背後で、教会の鐘が鳴り響く。まるで死者を送る葬送のように。




