5-7 血塗られた入国票 (5章完)
車輪が激しく石畳を叩き、荷馬車は悲鳴のような音を立てて夜の街へと駆け出した。
揺れる荷台の中、ライルは泥と返り血にまみれたまま、荒い呼吸を繰り返す。隣ではヴァルトが、焼きただれた右腕をマントの闇に隠し、平静を装っていた。
「……っ、ハァ……。助かった、礼を言う」
ヴァルトが御者台で手綱を握る男へ声をかける。
「へへっ、ヴァルトの旦那にあの世で再会する前に、こっちで顔を貸せて光栄ですよ」
「お前、ガラムか……!?」
不意に現れた知人の顔に、ヴァルトは内心の動揺を押し殺した。
(……法的に死亡扱いになっているはずの俺を、こいつは『生きているヴァルト』として扱っている。特殊部隊を抜け、刻印が失効していることを知らないか……?)
ヴァルトは慎重に言葉を選び、ライルへと視線を向けた。
「ライル、紹介しておこう。こいつはガラムだ。帝国諜報員でな。潜入と逃走の技術だけは一級品だ」
「一級品だなんて、旦那に言われると照れるねぇ。俺みたいな戦えない『非戦闘員』は、逃げ足だけが命ですから」
ガラムは笑いながら鞭を振るう。かつてヴァルトが率いた特殊部隊と、ガラムの諜報機関は協力関係にあった。
だが、今のヴァルトにとってガラムは、いつ懸賞金のために牙を剥くかわからない危うい相手だった。
「ところでガラム、なぜお前が『あんな場所』にいた。任務か?」
「そりゃあ旦那、仕事ですよ。あの血なまぐさい神事から逃げ出した『肥料』どもを始末するか、連れ戻すのが俺の役目。神事を見たものは絶対に生かすなってね……ですけどねぇ、まさか旦那があんなところから出てくるなんて…」
ガラムは口笛を吹く。
本来、ガラムの放った火線は逃亡者を殺すためのものだった。だが、そこに「特大の獲物」であるヴァルトを見つけた彼は、急遽予定を変更し、植物を排除してヴァルトを救い出す道を選んだのだ。
(生け捕りにして『然るべき場所』に突き出せば、これ以上の手柄はねぇからな)
ガラムの瞳が、鏡のような闇を反射して光る。
(ヴァルトの旦那は帝国でも上位の腕前だ。さて、どうやってお縄にかけるか……)
「旦那、今日は帝国手前の街で一泊しませんか? あそこには帝国のツケが利く宿があるんでさぁ、いつも仕事のあとはタダ飯食って帰ってるんですよ」
(旦那は脱走中の身だ。帝国には入りたくないはず。ここが落とし所だろう)
「そうだな。今日はゆっくりしよう」
(よしよし。宿に着いたら即座に本国へ連絡だ。夜のうちにお縄にかかってもらいましょ)
夕刻、目的の街を目前にして荷馬車が止まった。
ヴァルトとライルが荷台から降りる。ヴァルトが静かにライルへ問いかけた。
「ライル。俺の考えていることがわかるか?」
ライルは腰の剣に手を当て、短く答える。
「ああ。分かるよ、それくらい」
「ヴァルトの旦那、街の門を開けてもらうよう交渉してきます。ちょっと待っててくれ」
ガラムがそう言って歩き始めようとした瞬間、ヴァルトがその前に回り込んだ。
「ガラム、ちょっとこれを見てくれ」
ヴァルトは右腕を隠していたマントを広げる素振りを見せる。
「ん? なんですか、旦那ぁ?」
ガラムが好奇心に負け、首を突き出したその時――。
――ぽとり。
ガラムの首が地面に落ちる。ライルの、音もさせない鮮やかな一閃だった。
「今から、お前がガラムだ」
ヴァルトは無造作にライルへ告げた。
「え? ヴァルトがガラムになるんじゃないのか?」
「俺は表には出ていないが、帝国に近いこの街では、俺の顔を知っている奴がいるかもしれん。お前の方が適任だ。……そいつの懐を探れ」
ライルは言われるがまま、まだ温かい亡骸の胸元に手を差し入れた。
指先に触れたのは、分厚い革のケース。引き抜くと、そこには帝国の紋章が刻まれた「諜報員証」と、この街へ入るための「入国許可票」が収められていた。
ガラムの首元から噴き出した鮮血が、白かった入国票を無惨な赤に染め上げていく。
ライルはその血塗られた入国票をじっと見つめ、こびりついた鉄の臭いを吸い込んだ。自分たちがこれから踏み込む場所は、こういう世界なのだ。
「ヴァルト、血で汚れてしまったぞ」
「気にするな。それが帝国へ入るための正装だ」
ヴァルトとライルは、冷たくなった亡骸を残し、街に向かって歩き出す。
ライルは沈みゆく夕日を見つめ、静かに拳を握った。血に染まった入国票が、ポケットの中でじっとりと重い。
(帝国とは目と鼻の先。もう、後戻りはできない…)
だが、ライルの胸には一抹の不安――いや、巨大な焦燥が澱んでいた。
ヴァルトは言っていた。帝国に立ち向かうには、あの女――ルナの協力が必要不可欠だと。最強の戦力を仲間に引き入れることが、潜入の絶対条件だったはずだ。
なのにそれが出来なかった……。あのおぞましい帝国を相手に、二人だけで皇帝を討てるのだろうか。
闇が二人を包み込む。
帝国への境界線は、希望と絶望を混ぜ合わせたような色をして、二人の前に立ちはだかっていた。




