05 港町レーヴァン
馬車はゆったりとした速度で道を進んでいた。
町を出てしばらく経つ。
周囲は静まり返り、窓の外にはなだらかな丘陵地帯が広がっていた。
(どうしよう! どうしよう! 隣に皇太子殿下! 隣に皇太子殿下!)
私は、前代未聞で未曾有の事態に落ち着かない気分だった。
チラリと横を見ると、アルト殿下が腕を組んで座っている。
深い青紺色の瞳は閉じており、その表情は穏やかだ。
しかし、どこか近寄りがたい空気があった。
(話しかけるべきなのかな? それとも黙っていたほうがいいのかな?)
どうすればいいのか分からず迷う。
町を出発する際は温かい雰囲気だった殿下が、今は周囲をシャットアウトしているように見える。
私の唇は緊張で乾き、手のひらにはうっすらと汗が滲んでいた。
「あのぉ……」
意を決して、私は静かに声を掛けてみた。
「…………」
しかし、アルト殿下は全く反応しない。
(無視されている? それとも不機嫌になってしまった? もしかして私、何か粗相をしでかしてしまった!?)
とてつもない不安が込み上げてくる。
「あ、アルト殿下……?」
再び声を掛けても返事はなかった。
(ん?)
よく見ると、殿下の胸はゆっくり上下していた。
その表情は穏やかで、耳を澄ますと寝息のような音が聞こえる。
「も、もしかして、寝ていらっしゃるのでしょうか……?」
私は目を丸くする。
(嘘でしょ?)
思わずそう口走りそうな気分だった。
一応、私はルミナール王国の王女だ。
「失敗作」と揶揄されようとも、正式な王女なのだ。
そのうえ、王国とエリュシオン帝国とは少し前まで戦争状態にあった。
しかも、その戦争では帝国が勝利し、王国は従属することになった。
常人であれば、そんな状況で眠ることなどできない。
私が「王国の恨み!」などと言って襲いかかるかもしれないからだ。
実際、私がその気になれば殿下を魔法で殺すことができる。
私の拙い魔力でも、無防備な人間を窒息させるくらいは可能なのだ。
警護の騎士が目を光らせていたとしても止められないだろう。
それなのに……。
(あまりにも肝が据わっている……!)
私はアルト殿下に対して驚くとともに、自分に対してはこう思った。
勝手に気まずくなったり、勇気を振り絞ったりして馬鹿みたいだ、と。
(でも、寝るなら寝るで一言あってもいいのに……!)
そんなことを思っていると、くだらない考えが脳裏によぎった。
例えば、アルト殿下の頬を指でつついてみるとか。
(いや、何を考えているんだ、私)
妄想が発展していくにつれて冷や汗が出てきた。
不敬行為で処罰されるところまで思い至ったからだ。
「はぁ……」
私はため息をつき、シートに背を預けた。
外はまだ昼過ぎなのか、柔らかな陽光が窓辺に差し込んでいる。
独特の揺れが心地よく、私の瞼も次第に重くなってきた。
「……少し眠ろうかしら」
軽く目を瞑ると、一瞬にして眠りに落ちた。
◇
「ソフィア、起きるといい」
聞き慣れた声がして、私は「はっ」と目を開けた。
目の前にはアルト殿下の顔があった。
少し申し訳なさそうな表情をしているのは気のせいだろうか。
「すみません、私、いつの間にか……」
「かまわない。疲れていたのであろう。港町レーヴァンに着くぞ」
「港町……。たしかに潮の匂いがします!」
鼻をくすぐる海の香りが、馬車の中にまで入り込んでいた。
先ほどまでとは打って変わって湿った風が流れており、磯の風味を含んだ空気が頬を撫でる。
「ここは帝国有数の港町だ。漁業や貿易が盛んで、様々な物資が行き来している。だが、町の周辺や海には魔物が多くてな。最近では魔物のせいで漁獲量が低下しており、魚類の価格高騰を招いている」
「なるほど。たしかにロックウェルの方々もお魚が高くなったと嘆いていました」
話していると、馬車が止まった。
騎士が扉を開き、アルト殿下が先に降りていく。
アルト殿下に恥を掻かせないよう、私も慎重に続いた。
「うわぁ……」
風が少し強く、遠くに白い帆を張った船が見える。
町民たちがざわついているが、その視線はアルト殿下に集中していた。
私の存在に気づいた人もいて、「誰だあの女?」などと囁く声が聞こえる。
「アルト殿下、ようこそお越しくださいました!」
町長らしき中年の男性が駆け寄ってくる。
日焼けした顔に濃い眉毛が印象的で、分厚い手袋と長靴を履いている。
普段は漁師をしているのかもしれない。
「久しぶりだな、町長。報告書の準備はできているな?」
「はい、こちらでございます!」
町長は丸められた書類を差し出した。
「ふむ、やはり魔物の被害が深刻だな」
「陸の魔物は警備を強化していただいたおかげで対応できているのですが、いかんせん海のほうが苦しい状況でして……」
「陸と違って海の魔物は海中に潜んでいるからな。向こうから顔を出さない限り駆除できないのが厳しいところだ」
「仰る通りです」
殿下は報告書の確認を終えた。
「町長、事前に連絡が行っていると思うが、我々は特別な儀式を行うため数日間この町に滞在する。協力を頼みたい」
「もちろんでございます! しかし、殿下もご存じの通り、この町には迎賓館がありません。ですので、前に殿下がお越しくださった際にご利用された町一番の宿屋を用意しております。なにぶん質素ですが、ご容赦ください」
「感謝する。場所は知っているが……一応、案内してくれ」
「かしこまりました!」
町長が先導し、私たちは宿屋へ向かった。
「それで、あの女は誰なんだ……?」
「さあ?」
「殿下の恋人か?」
「そんなわけないだろ。あの服を見たろ? 俺たちと同じような格好だった」
「どう見ても貴族ではなかったな」
町民たちの興味は私に向いていた。
ロックウェルの民が殿下の顔を知らなかったように、庶民の多くが皇太子や王女の顔を知らないものだ。
◇
宿屋は港近くの小さな建物だった。
町一番とのことだが、町長の言っていた通り質素だ。
それでも、清潔感があり、大事に扱われていることが伝わってきた。
一階は木製のカウンターと丸い椅子が並ぶ食堂で、客室は二階にあった。
部屋の確認が終わると、私たちは食堂に移動した。
「部屋はこれで問題ないな。町長、しばらく世話になる」
「はっ、何かあればお申し付けください! それでは失礼します!」
町長が頭を下げて退室すると、殿下は私を一瞥し、食堂の窓を開けた。
潮風が流れ込んでくる。
「ここでの儀式は明日から行う予定だ。今はまだ夕暮れ前で、食事までには時間がある。ソフィア、せっかくだから町を案内しようと思うがいかがだろうか」
「え、私もご一緒してよろしいのですか?」
「当然だろう。貴女は形式的には『人質』だが、我が帝国の最重要人物である。こうして帝国の安寧に協力していただいているのだから、本来であれば盛大な宴を開いてもいいくらいだ」
「いやいや、そんな、畏れ多い……!」
「それでは、一緒に町を歩こう」
「はい! よろしくお願いします!」
私は深々と頭を下げた。
「話は聞いていたな? 私はソフィアと町を歩いてくる。そなたらは自由に過ごすといい」
陛下は食堂の外で待機していた騎士たちに命じた。
騎士たちは驚いたものの、すぐに敬礼して宿屋から出ていった。
「殿下、警護の方がいなくて平気なのですか?」
「問題ないさ。あの者たちにも息抜きが必要だしな。それに、自分の身は自分で守れる。もちろんソフィアの身も私が守る」
アルト殿下は腰に装備している剣を叩いた。
その所作が実に頼もしくて、私は安心した。
◇
石畳の道を歩きながら、アルト殿下は町の文化について教えてくれた。
「この港町レーヴァンは、朝は漁師たちが新鮮な魚を並べる市場が有名だ。サバやイワシ、そして時には巨大なマグロまで獲れる。船での運搬が容易なため、内陸にはないような珍しい魚や貝も手に入る」
「すごい! 海の恵みを享受しているんですね!」
「そうだ。そして夕方にはランタンが灯り、港が黄金色に染まる。漁から戻る船の明かりと街灯が海面に映るその姿は、まるで宝石のようだ」
「とてもロマンチックですね」
想像するだけで胸が高鳴る。
夕暮れが街角に影を落とす頃、海辺の風景はきっと美しいに違いない。
「残念ながら市場はもう閉まっているが、手工芸品を売る露店は出ているはずだ。漁で獲れた貝殻や真珠などを使ったアクセサリーが有名で、女性たちに人気があるらしい」
「貝殻や真珠を使ったアクセサリーですか。これまた素敵ですね」
話しているうちに、露店が立ち並ぶ通りに出た。
風に揺れるカンテラが吊るされ、貝殻細工や真珠のネックレスが所狭しと並んでいる。
キラキラと光を受けて輝く真珠は、人気の高さを感じさせる美しさだった。
「ほら、あそこを見ろ」
アルト殿下が一つの露店を指した。
その店では、殊更に目を引く真珠のネックレスが売られていた。
色は乳白色で、ほんのりと虹色の艶が走っている。
「綺麗……!」
私は呟いた。
すると、アルト殿下はその店に近づき、店主に声をかけた。
「このネックレスを買おう」
アルト殿下が選んだのは、私が綺麗と評したネックレスだ。
その店で最も高い商品であり、他の店の品と比較しても高価である。
ロックウェルで私が支払った全てのお金を足した額よりも高い。
「「えっ!?」」
これには私と店主が驚いた。
「えっ、殿下!? な、何を……!」
驚く私をよそに、殿下は淡々と支払いを済ませた。
「こ、ここ、こちら、お釣りになります……!」
店主はプルプルと震えながら釣り銭を渡す。
相手が皇太子殿下とあって恐縮しきっていた。
他の露天商もびっくりした様子で眺めている。
「ありがとう」
アルト殿下は釣り銭とネックレスを受け取った。
そして――。
「プレゼントだ、ソフィア」
なんと、私にネックレスを渡してきた。
「え、い、いえ! そんな! 私はそんな高価なものを頂けません!」
「遠慮するな。私の頼みを聞いて同行してもらったお礼だ。是非とも受け取っていただきたい」
「で、でも……!」
「もしかして、私の贈り物は受け取れないと申すのか? 今ここで断るということは、私の気持ちを否定するのと同じだぞ?」
アルト殿下がニヤリと笑う。
冗談のつもりだろうけれど、冗談になっていなかった。
「め、めめ、滅相もございません! ありがたく頂戴いたします!」
「せっかくだから今ここで身に着けるといい」
「え、ここでですか?」
「きっと似合うぞ」
「分かりました……!」
私は照れながら首筋に手を回した。
ネックレスの鎖は細く、冷たい感触が少し背筋を伝う。
極度の緊張感も相まって、うまく留め金を合わせるのに手間取ってしまう。
すると――。
「手伝おう」
と言って、アルト殿下が私の後ろに回った。
「で、殿下!?」
「じっとしていろ」
殿下の息が耳にかかる。
低く男らしい声が脳に突き刺さった。
心臓が高鳴る。
「これでよし」
アルト殿下がネックレスを着けてくれた。
丁寧な手つきで留め金が留められ、綺麗な真珠が私の胸元で輝く。
「とても似合っている」
「ほ、本当ですか……?」
「本当だ。非常に美しい。誰よりも魅力的だ」
アルト殿下が「そう思うだろ?」と店主に振る。
「で、ででん、殿下っか、殿下、殿下の仰る通りです!」
店主は緊張のあまり噛み噛みになっていた。
「……ありがとうございます、殿下」
本当はもっと嬉しそうにお礼を言いたかった。
だって、飛び跳ねたくなるほど嬉しいのだから。
しかし、恥ずかしさと緊張のせいで暗い感じになってしまった。
それでも、私の気持ちはあると殿下に伝わっていた。
「満足してもらえたようで何よりだ」
アルト殿下が微笑む。
その顔を見ていると安心できて、私も「はい」と微笑んだ。
「このネックレス、大事にします。一生の宝物にします」
「もちろんだ。高かったからな。君が思っているより俺は貧乏なんだぞ?」
アルト殿下が笑みを浮かべる。
ここにきて初めて、私のことを「君」と言い、自身を「俺」と言った。
距離が詰まったことが感じる。
「お! 見ろ、ソフィア!」
殿下が港を指す。
夕方になったことでランタンが灯り始めていた。
一つまた一つと灯っていき、やがて全てのランタンが灯る。
「本当に港が黄金色に染まっていますね」
「感動するだろ?」
「はい……!」
「この景色を見せてあげたかったんだ」
私は真珠のネックレスに手を当てながら頷いた。
(幸せってこういうことなんだ)
アルト殿下と共に、しばらくの間、港を眺めていた。
評価(下の★★★★★)やブックマーク等で
応援していただけると執筆の励みになります。
よろしくお願いいたします。