02 特殊な力
新たな我が家となった館で最初にしたことは掃除だ。
廊下は埃まみれ、家具には蜘蛛の巣が張り、床にいたっては軋んでいる。
王城で育った私には衝撃的な環境だったが、嘆く余裕などなかった。
「これくらい自分でやらなきゃね」
埃の被った掃除用具を綺麗にして、さっそく作業を始めた。
額の汗を腕で拭い、ホウキと雑巾を持つ。
「さーて、頑張るよ!」
大声を出しても誰も返事はしない。
けれど、声を出すと少しだけ心が楽になった。
玄関から取りかかり、廊下を拭き、階段の手すりを磨く。
王女としての体面など、ここでは何の役にも立たない。
この場所で暮らす以上、自分の環境は自分で整えるしかなかった。
「さすがに一日で全てを綺麗にするのは無理ね……。まあ、焦らずに一つずつ整えていこう」
そう自分に言い聞かせ、二階の寝室だけはなんとか安らげる状態に仕上げた頃には、すっかり夜が更けていた。
◇
翌朝、目を覚ました私は、寝室の窓から外を見下ろした。
視界に映るのは、王城とは全く異なる素朴な町並みだ。
屋根は赤茶色で揃えられ、小さな商店が並び、行き交う人影がちらほら見える。
エリュシオン帝国の小さな町、ロックウェル。
まだ馴染みはないけれど、ここが今の私の居場所。
ここで生きると決めた以上、私から距離を詰めなくてはならない。
「よし、町民の方々と交流しよう!」
決意した私は、いつもの淡い色のドレス姿を来て館を出た。
今日の目的は、町民たちに顔を覚えてもらうこと。
王族だからと偉そうにせず、自分の足で一軒ずつ回って挨拶しよう。
礼を尽くして接すれば、きっと打ち解けられるはずだ。
そう思っていた。
◇
最初に訪ねたのは、パン屋らしい小さな家だ。
扉を叩くと、中から少し警戒した様子の男が出てきた。
色褪せた上着を着た中年の男は、私を見て僅かに眉をひそめた。
「なんだい、あんたは」
「はじめまして、私、ソフィアと申します。昨日からあそこの館で暮らしている者です。よろしくお願いいたします」
「館で暮らしてる? ……ということは、あんたがルミナール王国の王女様なのか?」
「……ええ、まあ、そういうことになります」
私が肯定した瞬間、男の表情が歪んだ。
「俺の弟はな、お前の国の軍隊に殺されたんだ。帝国に仕える兵士ならともかく、ただの交易商だったんだぞ。それなのに殺されたんだ」
「そ、それは……お悔やみ申し上げます。私には、何と言えばよいのか……」
「あんたが謝ってどうにかなるもんじゃない。謝られたって弟は帰ってこないしな」
男は唇を噛みながら、私を睨むような視線を向ける。
苦しい空気が流れた。
「そもそも、あんた、ここに住むって言うが、いずれ王国に戻るんじゃないのか? 人質なんて一時的なものだろ」
「いえ、私はここで長く暮らすつもりなんです。帝国政府からも帰れとは言われていません。ですから、私はこの町の一員に……」
「そんな話、俺は信じないね。……悪いが、商売の邪魔だ。帰ってくれ。王国の奴なんかと、それも王女なんかと喋ったんじゃ景気が悪くなっちまう」
「……わかりました。失礼します」
私は深くお辞儀すると、その家から離れた。
(思ったよりも風当たりがきついわね)
早くも心が折れそうになる。
だが、この程度のことで諦めていてはいけない。
勇気を出して、次は果物屋のドアを叩いた。
「えっと、どちら様?」
出てきた若い女性は怪訝そうに言った。
頭のてっぺんから足の爪先まで、品定めをするように見てくる。
「はじめまして、私、ソフィアと申します」
私は先ほどと同じように自己紹介をした。
「ふーん、王女様ねぇ。で、私ら田舎町の庶民を馬鹿にしに来たわけ?」
「そ、そんな……馬鹿にするつもりなんてありません! 皆様との関係を深められたらと思い、こうして一軒ずつ挨拶をすることに……」
「けど、その服、すごく上等よね。私たちを見下してるみたい。庶民の生活を分かろうともしていないじゃない」
「違います! 本当に、私はこの町に溶け込みたいんです。ただ、どうすればいいのか分からなくて……」
「とにかく、あんたとは関わりたくないわ。戦争でうちのいとこが亡くなったばかりなの。あんたの王国は私から大切な人を奪った。もう帰ってちょうだい」
「……申し訳ありません」
その後も家々を回ったが、同様の反応が続くばかりだった。
中には無言で扉を閉める者までいた。
「かなりの溝があるわね……」
私はため息をついた。
けれど、挫けるわけにはいかない。
この町で暮らしていくためには、時間がかかっても信頼を得るしかない。
「よし、まずは服装から見直そう」
ここまでを振り返ると、服装について言及されることが多かった。
高貴な身なりが神経を逆撫でしているらしい。
「王女然としていては、余計に壁を生んでしまうわ」
私は服屋を探し、庶民的な衣服を手に入れようと考えた。
少し歩くと、小さな看板に「仕立て屋マリア」と書かれた店が見つかった。
「すみません、こちらに服は売っていますか」
中に入ると、小柄な老女が振り返った。
白髪交じりの髪を布で包み、気取らない笑みを浮かべている。
他の町民よりは柔らかい表情に見えたので、私は内心ほっとした。
「売っているわよ。あんたは……ん? もしかして、あの館に来た王女様かい?」
「はい、ソフィアと申します。あの、私、庶民的な服が欲しいのです」
「ほほう、珍しいね。そんな高級そうなドレス姿で来るからには、上流階級の方かと思っていたが」
「もうそういうのは嫌で。私は、この町にちゃんと馴染みたいんです。だから、この町の人たちが普段着るような、素朴な服を求めているんです」
「たしかに、その服は気品がありすぎて浮いてるわ。町の人間はどうせすぐに帰るよそ者だと思ってる。私だって、正直そう思わないでもない」
「けれど、私は帰るつもりはありません。ここで生きたいんです」
「……あんたの目を見たら、嘘じゃない気がするね。いいわ、少し待ってておくれ」
老女は奥の棚から数着の服を取り出してきた。
質素な麻布で縫われ、裾の広がらない、動きやすそうな服が並ぶ。
色は茶や淡い緑、灰色など控えめなものばかり。
「どれも丈夫で、町で働く娘たちが着てるようなものだよ。好みはあるかい?」
「そうですね、これなんか……素敵ですね」
私は淡い緑色の緩やかなチュニックとシンプルなスカートを選んだ。
さっそく着替えて鏡台の前に立って確認する。
「おお……!」
思わず呟いてしまう。
まるで別人のような変わりようだった。
髪型は淡い金色の三つ編みから変わっていないのに、ドレス姿の時は印象が全く異なっている。
衣服は偉大であると思った。
「似合ってるじゃないか。それで、支払いはできるかい?」
「ええ、頂いた生活費がありますので」
私は服の代金を渡した。
「これであんたもロックウェルの娘……とまではいかないかもしれないけど、少なくとも浮かずには済むだろうよ」
「はい、本当にありがとうございます。あ、お名前はマリアさんでよろしかったでしょうか。お店の名前にそう書いてありましたが」
「ええ、マリアで合っているわ。商売だから別に礼はいらないよ。大変だろうけど、焦らずに頑張りな」
老女マリアが手を振った。
その目には、私を突き放すような冷たさはない。
それだけでも心が軽くなった。
◇
私は再び町を回った。
先ほどと同じ家を訪ねてみると、対応は少し和らいだ気がした。
「……また来たのか。今度は何を企んでる?」
「企んでなどいません。ただ、私は町の方々と仲良くなりたいだけです」
「ふん、服を変えたくらいで……」
「たしかに私はルミナール王国の王女です。ですが、この町ではそんなこと関係ありません。ひとりの住民として生活しようと考えています。先ほどの格好は不適切だと判断したため、こうして服装を着替え、改めてやって参りました」
「……まあ、さっきよりはマシになったな」
完全に打ち解けたわけではないが、少なくとも扉を即座に閉められることは減った。
それでも、厳しい視線や冷たい言葉は残っている。
戦争で受けた悲しみや怒りは、服を着替えたくらいでは消えないのだ。
「焦る必要はない……。少しずつ信頼を築いこう」
自分に言い聞かせ、その後も家を回った。
すると、時折だが、短いながらも会話ができるようになった。
例えば果物屋の若い女性は、警戒しつつ言葉を返してくれた。
「……で、あんた、ここで何するつもり?」
「何をするかは決まっておりません。ですが、この町のためにできることがあれば協力したいです。私も町の一員なのですから」
「協力? 魔力で何かしてくれるってわけ? ルミナール王国の王族って魔力がすごいんでしょ?」
「魔力ですか……」
私は苦笑いで頭を掻いた。
「残念ながら、私には魔力が殆どありません。ですから、こうして体を動かすことしかできないのです」
「そうなの。それで人質として飛ばされたってわけね」
「ええ、正真正銘、落ちこぼれです」
「……ちょっと不憫ね。ど、同情はしないけどね!」
と言いつつ、女性は果物を分けてくれた。
本人は「売れ残りの腐りかけ」と言っていたが、どう見ても新鮮だった。
それがすごく嬉しくて、私は思わずニヤけてしまった。
(今度は私が何かプレゼントしないと。あ、でも、その前にあの女性の名前を教えてもらわないと! 歳も近いし、友達になれたら嬉しいなぁ)
そんなことを館に戻っていると。
「きゃあああぁっ!」
急に遠くから悲鳴が聞こえてきた。
「何事!?」
私は果物を玄関に置き、声のした方向に走った。
他の大人たちも慌てた様子で同じ方向に走っている。
「やめて! 誰か助けて!」
町外れの方から、子供の泣き叫ぶ声がする。
「あれは……!」
そこには、巨大な魔物がいた。
二本の角を生やした四足獣で、鋭い牙を覗かせて唸っている。
「グォオオ!」
魔物は女の子を威嚇している。
少女は地面に尻餅をついて、後ずさりしながら泣きじゃくっていた。
「また魔物だ……!」
「あんな化け物、俺たちじゃ太刀打ちできないぞ……!」
大人たちは魔物の威圧感に凍り付いていた。
手に持っている武器――大半は農具だが――は、何の役にも立たない。
「おい、誰か兵士を呼べ!」
悲鳴と叫びが混乱を生み出す。
(何か、何かできないの……?)
私は魔力が弱い。
王国では畑に現れる小型の害獣すら追い払えないほどだった。
そんな私に戦えるわけがない。
けれど、放っておけるはずもなかった。
(それでも!)
私は咄嗟に走り出した。
震える足を必死で動かし、魔物の前に立ちはだかる。
「食べるなら私を食べなさい!」
魔物は驚いたようで固まっていた。
「今のうちに逃げなさい!」
少女に言う。
「う、うん!」
少女は泣きながら逃げていく。
「おい、あれってルミナールの王女様じゃないのか!?」
「マジかよ! ルミナールの王女が、帝国の少女を守っただと!?」
町民のざわめきが遠くで聞こえる。
そのうちの一人が「何してんだ、アイツ」と言った。
どういう意図で言ったのか分からないが、私も同じことを思った。
(何しているんだろ、私)
新たな町で溶け込もうと思った矢先にこの有様だ。
魔物に食べられてこの世を去る未来しか見えない。
(でも、衝動に駆られちゃったんだから仕方ないよね)
覚悟を決めて、目をギュッと瞑る。
しかし――。
「あれ……?」
待てども待てども魔物が襲ってこない。
本来であれば、私は既に食べられているはずだ。
「ガ、ガルルッ……!」
目を開けると、魔物が後ずさっているのが見えた。
「どうなっているんだ!?」
「魔物がビビっているぞ!」
「王女様が何かしたのか!?」
「いや、何もしてねぇ! 魔法だって使ってねぇぞ!」
町民たちも理解できずにざわついている。
(もしかして、あの魔物、私のことを嫌がっている……?)
困惑している間にも、魔物はじわじわと下がっていく。
そして、最後は遠くへ逃げ去っていった。
「魔物が逃げたぞ!」
町民たちは唖然としている。
私も膝の力が抜けて地面に手をついた。
子供を傷つけずに済んだことへの安堵で胸がいっぱいになる。
「王女さん、あんたすげーよ!」
「どうやったんだ!?」
「魔法は使っていなかったよな!?」
町民たちが駆け寄ってくる。
彼らは目の当たりにした現状に戸惑っているようだった。
「はて……? 私は何かしたのでしょうか……?」
私にも自覚がなかった。
ただ、魔物が私を嫌がっているのは明らかだった。
(もしかすると、私には何らかの力があるのかも? あり得るとすれば異常に低い魔力ってことになるけど……)
詳しいことは何も分からない。
だが、少なくとも、この出来事が私にとっては大きなプラスになった。
町民の私を見る目に、明らかな変化が生じていたのだ。
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