第9話 庇護欲と静かに降り積もる執着と
ヒースクリフは、その日のお出かけが「練習」ということを了解した上で、最初から大変意欲的に、真面目に取り組む姿勢を見せた。
「ヴィクトリア嬢、お手をどうぞ。足元にお気をつけください。私につかまってくださって大丈夫ですよ」
馬車に乗るだけで、優しく声をかけ、壊れ物のように扱ってくれる。
(ラルフのときも大切にされていたけど、男同士だった分、過保護にも限度があったように思います。体格も今ほど大きくは変わらなかったですし、ラルフ自身、女性がいればエスコートに回る側だったから、ヒースクリフに何から何までしてもらうわけでもなく)
自分でできることは自分でしていたし、ヒースクリフがそこに口出しをすることもなかった。
だが、今のヴィクトリアは明らかにヒースクリフよりも華奢で、動くときにはドレスの裾を気にしなければならず、靴も長く歩くのに適したものではない。
そういった「か弱い」属性が、ヒースクリフの庇護欲を刺激するのか、すべてにおいて誠心誠意気遣われるのだ。
「髪飾りがご入用ということであれば、ブルーイット侯爵家が懇意にしている店がありますので、このまま向かってよろしいですか。ヴィクトリア嬢が普段お使いの店があるのであれば、そちらでもよろしいのですが」
馬車の中で、予定をすり合わせるときも、ほどよくリードしてくれる。
(帰国したばかりなのに事情通ということは、昨日のうちに今日のコースをいくつも想定して、行き先を選定してくれていたってことですよね。きっと、侯爵家からお店側に立ち寄る旨も伝えてくださっているはず。たまたま髪飾りでしたが、ドレスとか手袋とか帽子と言われても、全部対応するつもりだったのでは)
準備する時間など、ほとんどなかったはずなのに。
「昨日の今日で、下調べしてくださったんですね。どうもありがとうございます」
馬車の座席に並んで座り、ヴィクトリアが素直に感心した気持ちと感謝を伝えると、ヒースクリフは嬉しそうに顔をほころばせた。
「無茶なお誘いをした自覚は、ありましたので。他にも必要なものがあれば、すべて手配いたします」
「大丈夫ですよ。まだシーズンが始まったばかりなので、着ていないドレスもあります。お茶会のひとつやふたつ、恐るるに足りませんわ」
正面の席には、付き添いのブリジットが座っており、決して二人きりの空間ではない。しかし、ヒースクリフはヴィクトリアしか見ておらず、何か言うたびに真面目そのものの顔で目を見つめてくるのだ。
「着ていないドレスというのは、今日のそのドレスもですか」
車内のスペースが限られていることもあり、距離は近い。向き合ったヴィクトリアは、改めてヒースクリフの完璧な顔の造形に感心しつつ、やや見上げるようにして視線を受け止めて、まっすぐに目を見つめ返して答えた。
「はい、これもです。流行りと言われて新しく仕立てたんですけど、少し派手に感じて、いざとなると気後れしてしまって。結局、流行りとは多少違っても、普段は肌が見えないドレスばかり選んでしまうんです。今日は、思い切って初めて着てみました。似合いますか?」
前世、ラルフだった頃は、何かあればヒースクリフにあけすけと相談していた。その記憶がうっすらあったので、何気なく「これはどうか」との意味で似合いますかと聞いてしまったのだ。
ヒースクリフは、ゆっくりと視線をすべらせて、ヴィクトリアの頭のてっぺんから顔や胸元に目を向けた。
すぐに顔を上げ、視線を絡めながら悩ましいような声で答えてきた。
「とてもよくお似合いで、あなたの魅力をこれ以上なく引き立てていると思います。ですが、あまりに可愛らしすぎて心配になります。このまま馬車に閉じ込めて、さらってしまいたい。他の誰かの目に、あなたの姿をさらしたくないんです。今日は、俺から離れないでください」
切々と語られるのは、胸に迫るような甘い囁き。まるで、言葉に絡め取られて息もつけぬほど強く抱きしめられているかのようだ。
ヴィクトリアは、まさに息を止めて聞き入ってしまった。
(「練習」でこんなに真剣になれるなんて、さすがヒースクリフ。私は、迂闊にも「練習」ということを忘れるところでした。前世のラルフは彼のこの素敵さや潜在能力に、気づいていなかったと思います。仲の良い友達で、いつまでもそばにいてくれると無邪気に信じて、真剣に向き合っていなかったかもしれません。離れ離れになる日がくると、考えたこともありませんでしたから)
それがただの思い込みで、儚いものであることは、十分思い知った。
永遠なんて無い。別れの日は突然に来る。また巡り会えたのは奇跡であり、一瞬も無駄にできないと、改めて強く思う。
ヴィクトリアは、無意識にヒースクリフの手を取って、しっかりと握りしめて言った。
「私は、あなたのお側から片時も離れません。せっかく会えたのです。時間を、めいっぱい有効に使いたいです。あなたこそ、私の目の届かないところに行ってはいけませんよ。約束してください」
「はい。何があっても、あなたのこの手を絶対に離しません」
アイスブルーの瞳でヴィクトリアを見つめたまま、ヒースクリフもまたヴィクトリアの手に手を重ねて力を込めてくる。
あまりにも真剣に見つめ合っていたせいか、知らぬ間に顔が近づいていた。
まるで、キスでもするかのように。
ガタン、と馬車が揺れた拍子に、ヴィクトリアは目を瞬く。同時に、ヒースクリフが姿勢を正して、異変を探るように前を向いた。
その動きにならって、ヴィクトリアも前に向き直る。
向かい合った席に座っていたブリジットが、頬を染めて顔を逸らしていることに気づいて「あら?」と不思議に思った。
それから、自分とヒースクリフの間にあった会話を高速で思い出して「ああ!」と思い至る。
(まるで、恋人みたいな空気になっていましたね! 私は前世の思い出に浸っていただけで、ヒースクリフは「練習」しているだけなんですけど。どうしても、久しぶりの再会だから、何をするにも熱が入ってしまいまして)
しかも、片時も離れたくないというのは、どうあっても揺るがないヴィクトリアの本音だ。ヒースクリフとは、前世のような形で別れたくはない。
それこそ、一番会いたかった相手に巡り合った以上は、不慮の死を避けるべく真剣に生きるつもりだ。ナタリアのことも、警戒する心づもりでいる。
だが、一口に「死なないようにする」と言っても、具体的にどうすれば良いのかさっぱりわからない。
たとえば、ナタリアに関しては「避けていれば大丈夫」なのだろうか? その不安がある。
(ナタリア嬢がなぜラルフを殺したのか、まだはっきりと思い出せません。そもそも、ラルフ自身「なぜ」がわかっていなかったのかも。今生ではこのまま関わらなければ安全と安易に考えず、思い切ってナタリア嬢に近づいてみるのはどうでしょう……。せっかくお茶会という機会もあるのですから)
ナタリアとはどういったひとで、何を考えているのか。そこ確認し、この世界でも何かしら事件を起こそうとしているなら、未然に止める。
守りに徹するよりも、自分から動いた方が、結果的には良い方向に向かうのではないかという考えが、ヴィクトリアの中で生まれつつあった。
そう考えるに至った理由はもちろん、ヒースクリフの存在である。
「今度は、幸せにしたいです」
思わず、声に出てしまった。
すぐに、隣に座ったヒースクリフから「今度は? 何を?」と、不思議そうに聞かれる。
不穏な追想もあり、表情が険しくなっていたことに気づいたヴィクトリアは、ぱっと笑顔になってヒースクリフに告げた。
「今度は……、ええと、これからはという意味です。私を取り巻く、身近で大切な方々のことを、幸せにしたいです!」
「そう、ですか」
ヒースクリフは、ものいいたげな態度ながら、口をつぐむ。
そのアイスブルーの瞳をしげしげと見つめ返して、ヴィクトリアは感心しながら自分の胸に湧き上がった感動を伝えた。
「あなたは、本当に綺麗な目をしています。神秘的で、物語の中のひとみたいです。ひとではなくて……、妖精や精霊の王のような」
くすっと笑って、ヒースクリフは目を細めた。
こうしてヴィクトリアの前でひそやかに笑うときの彼は、どことなく前世の彼とは少し印象が違う。
まなざしひとつ、口角の上げ方ひとつをとっても、あの頃のラルフが決して感じることのなかった、男性の色香が漂っているのだ。艷やかで、華があり、目の前の相手を自分へ惹きつけて、決して離すまいとするような。
声にも深みがあり、耳に優しく甘く響く。
「先祖にそういった、尊き存在の血が混じっていると、家伝にはあります。血統に箔をつけたいだけかと、俺は信じたことはありませんでしたが……。こうしてあなたに興味を持ってもらえるきっかけになるなら、使えるものはなんでも使いましょう。もっとよく見てください、俺のことを」
そう言うヒースクリフ自身が、瞬きもせずヴィクトリアを見つめてくる。
視線にこもる熱を意識して、ヴィクトリアはほんのり頬に血を上らせると、そっと目を伏せた。
視界には、真っ白い肌と胸の谷間。急に、落ち着かない気持ちになってくる。
(やはり、胸を強調するドレスは、大胆すぎたでしょうか。ヒースクリフは興味はないとわかっていても、なんだか恥ずかしいです……)
機会があれば、どこかで着替えてしまいたいと弱気になりかける。だが、勧めてくれたブリジットの手前、くよくよしている場合ではないと思い直して、顔を上げた。
そして、「帰国してから、何かお好きな食べ物を召し上がったりなさいました?」とさりげなく話題を変えて、和やかな会話を続けるようにした。
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ヒースクリフ視点書いたらすごいことになってそう。
※ブリジット「私は壁です!!(お嬢様、ご褒美をありがとうございます)」