第22話 千思万考よりも彼らの唯一
生まれ変わっても途切れず続く、彼らの絆。
虫の知らせという表現では足りないほどの確実さで、ヒースクリフは自分の運命の番たる相手の危機を察知する。
エドガーは、ヒースクリフとともに旧王宮へと向かう予定でブルーイット侯爵邸を出て、車寄せで待機していた馬車へ乗り込もうとしていた。そこで、ヒースクリフの顔つきが変わった。
「馬車ではなく馬で。すみません、別行動になるようです。間に合えば後から合流します」
最低限の連絡事項を告げて、馬車につながれていた馬に手をかける。てきぱきと馬車から外しはじめて、持ち出すつもりとの意図を察した御者が「せめて鞍を」と声をかけるものの、ヒースクリフはやけにきっぱりとした声で答えた。
「距離は離れていないから、問題ない」
鞍も鐙もなく、手綱だけを手にしてひらりと舞うように馬の背に乗り上げる。
金色の髪がなびき、アイスブルーの瞳が、風を読むように遠くへと向けられた。
用意していた馬車がすぐに出せないことになり、御者が慌てたように「殿下」とエドガーへ声をかける。
「大丈夫。行かせてあげよう。ヒースクリフは、自分のやるべきことをわかっているんだ。私は急がないから、馬車はゆっくり用意して」
君のせいではないのはわかっていると、片目を瞑って言ってから、ヒースクリフへと顔を向けた。
「ヒースクリフの身柄は現在のところ、私の預かりだ。意に染まぬことがあっても、怒りに負けて暴力を振るうのは許さない。無論、必要の範囲内の立ち回りであれば、止めない。状況を確認した上で、私から最大限の口添えをする。あとは……」
真剣に自分を見返してくるヒースクリフに対して、優しく笑いかける。
「死なないように」
「わかりました」
「本当に? 死なないってことは、死なないってことだからね」
微笑んだまま、エドガーは「行っていいよ」と続けた。
手綱を手にして、その顔をじっと見下ろしたヒースクリフは、思いが溢れたように訥々とつたない言葉を紡ぐ。
「長い間、自分の半分が欠けている感覚がありました。何をしていても満たされず、落ち着かない、空虚な日々を過ごしていました。エドガー様に出会えたこと、お側にいることを許して頂けたのが、俺のこれまでの人生での、救いでした」
何か、言い足りない。言葉にできない思いが大きすぎて、うまく表現することができない。
ヒースクリフの抱えるもどかしさはわかっているとばかりに、エドガーはもう一度重ねて言う。
「行きなさい。こうしている間にも、時間は止まらずに流れている」
はい、と答えてヒースクリフは馬首をめぐらせ、前を向いてからは、振り返ることなく駆け出した。
それを見送ってから、エドガーは控えていた侍従に声をかける。
「朝のうちに、ブレナン伯爵邸に向けたお茶会中止の伝令は、屋敷に戻っているか」
「いえ、まだです。明日の件について、お嬢様から折り返しのお返事を頂けるようであれば、待機して受け取ってから戻るように申し伝えてありますので、時間が読めないところがあるのですが……。さすがに遅いですね」
差し向けた馬車が戻らぬ中、ヒースクリフが異変を察知し、先行して向かった。
エドガーはおおよそ、この状況下で起こり得る危機について想像を巡らせる。
お茶会中止の急な予定変更は、当然相手方へと知らせる。ブルーイット侯爵邸を出たその馬車を「何者か」が、取り押さえた。ヒースクリフが乗っていれば捕らえるつもりだったのかもしれないが、乗っていなければ、伝令の持つ手紙等を開封して目的を確認する。
その後の行動は、予想がつく。
せっかく手に入れたブルーイット侯爵家の馬車を有効に使うべく、ブレナン伯爵邸に向かえば良い。騙してヴィクトリアを確保することは、やろうと思えばできるはずだ。
手元の情報から、エドガーはそこまで考えることはできる。ヒースクリフは、直感だけでその結論にたどりつき、いちはやく行動を起こした。
道を開くのは、自分の運命たる相手へ、時空を超えてまっすぐと続く、ヒースクリフの一途な思いだ。エドガーには、それが幻視できるかのような感覚があった。
「『旧王宮』へ、使いを出して欲しい。私の到着が遅れる、と。アルバート殿下との交流会の延期や中止の判断は、シルトン王室の意向にお任せする。道中で、事故に遭遇しているブルーイット侯爵家の馬車を回収しなければならないようだ。ヒースクリフが先行しているが、私も向かうとしよう」
言うだけ言ってから、ふと思い出したようにジャケットの内ポケットからガラスの小瓶を取り出す。
今回は毒じゃなかったんだなぁとひとり呟いてから、侍従へと声をかけた。
「これの件も知らせておいたほうがいいね。ナタリア嬢自ら、私の従者として会場入りしたヒースクリフへ手渡したのは、目撃情報が出るだろう。私も証言をする。たとえ王室が動こうと、もみ消させたりはしない。薬物が蔓延るのは、国として大問題のはずだ。ベンジャミン公爵家の、肥大した権力に重い一撃となるだろう」
てきぱきと指示を出し、自ら一筆したためるために、一度邸内へと引き返す。
周囲にいた侍従や御者たちは、エドガーの静かな気迫に飲み込まれたように佇んでいたが、すぐに各自指示に従い、動き始めた。
* * *
「《ナタリア……! これ以上の罪を犯すな! 公爵家の生まれで、一度はこの国の正妃への道を歩んだ自分の役目を思い出せ!》」
ヴィクトリアの声で、ラルフが吠えた。血に塗れた顔の中で、紫水晶の瞳が強い輝きを放つ。
がらりと変わった雰囲気、口調にナタリアが目を見開いた。
「……誰?」
華奢なヴィクトリアの体には、暴力を跳ね除ける力がない。それでも、溢れる気迫で、従僕の一瞬の隙をつくと、揺れ動く馬車の中で立ち上がる。
足を組んで座席に座ったナタリアを傲然と見下ろし、雷鳴のように鋭い言葉を浴びせかけた。
「《僕から、軽蔑以外の感情を引き出すことができないゴミカスに成り果てるつもりか》」
「あなた、何を言ってるの」
「《憧憬や愛という自分の感情を認められず、他人から自分への関心の引き方を知らない。傷つけることでしか、振り向かせる方法を持たず、世界と関わることができない。幸せになる道は無数にあるのに、そのどれをも選ばずに、君は君以上にはなれず、何度やり直してもそのたびによりくだらない存在に落ちていく》」
ヴィクトリアの体が炎を帯びているかのように、熱く高まっていく。
(ラルフ……!)
失われた世界の、消えた可能性のひとつ。彼に残るわずかな記憶は、ヴィクトリアにとって「たまたま手に入れた、二重線で消された日記帳」だ。ヴィクトリアには読み取れない文字もたくさんある。
それを心に記憶として刻んでいるラルフ自身が、ナタリアに全力で向かい合って、言葉として紡いでいく。
「《どうあっても、君は絶対に変われないことがわかった。変わる気も、自分を顧みる気もないから、もう誰にも救えない。君はその場所で、見当違いな呪いを撒き散らしながら、朽ちていけ!》」
王子のラルフが、そこにいた。
すべての記憶を共有しているわけではないヴィクトリアにも、その心根の強さが痛いほどに伝わってくる。
いざとなれば、眉一つ動かさすことなく、誰の嘆願にも揺らがず己の下した処断を口にすることができる、王の中の王たる者。
精霊の血を引く護衛騎士の加護を受け、この国を守り抜く絶対の守護者たる王に、彼はなるはずだった。
その命をかけてまで、彼は落ち行くナタリアに向き合おうとしたのではないか。
駒として配置され、望まぬまま正妃への道を歩むしかなかった彼女に、その使命に目覚めよと。
タルトが毒入りであることは知っていたのだ。それでもラルフは口にした。
それが彼女の望む愛ならば、と。
「……っ。はやくその女を黙らせて! 腕も足ももいで、顔をずたずたに引き裂いてさらしてやればいいんだわ!」
体から、ゆらりと熱を立ち上らせて、ヴィクトリアは首を傾げてみせた。
あ、ああ、と従僕が返事にはならない呻きをもらす。
「早くしなさい!」
たまりかねたようにナタリアが叫び、従僕がヴィクトリアへと手を伸ばす。
「ヒースクリフ」
ヴィクトリアとラルフが、同時にその名を口にした。
馬車が止まった。
馬のいななきや、御者の罵声など、異変らしきものは何一つ聞こえない。
絶対の静寂の中で、ゆっくりとドアが開く。
物音のひとつも立てずに腕が伸びてきて、空間を塞いでいた従僕の体を掴んで投げ捨てた。
どう、と転がる音だけがする中で、金色の髪をなびかせたヒースクリフが姿を見せて、アイスブルーの瞳をヴィクトリアへと向ける。
顔中が痛い。流れる血と乾く血で頬が突っ張っている。全身も打ち身だらけで、縄で繋がれた手は感覚がない。
ひどい見た目であることは、自分で見ずともわかるヴィクトリアであったが、引きつれた頬をなんとか動かして、笑いかけてみせた。
「せっかくのドレスを、汚してしまいました。でも、あなたが贈ってくださった髪飾りは無事だと思います。だから、あまり心配しないでください」
落ち着いてくださいと、言いたかった。
だが、その言葉に先に反応したのはナタリアで、憎々しげに表情を歪めて立ち上がり、ヴィクトリアの髪飾りへと手を伸ばす。むしり取ろうとするように。
それを、ヒースクリフが許すわけがない。
風のように、ヒースクリフが馬車へと乗り込んできた。とっさに、ヴィクトリアはその体に体当たりをする。ナタリアではなく、自分へと注意が向くように。
後手で縛られているせいで、ヴィクトリアから抱きついたりしがみついたりはできないが、その分、不安定な体はヒースクリフによってしっかりと受け止められた。
ヴィクトリアは勢いを緩めず、ヒースクリフを馬車外へと押し出そうとする。
意図を汲んで、ヒースクリフはヴィクトリアを抱きかかえたまま道へと降り立った。ナタリアを閉じ込めるようにして、馬車のドアを閉める。
追いかけるべく、ナタリアが出てこようとしたようだが、がたがたと鳴るドアを、ヒースクリフがへこむほどの勢いで蹴りつける。
ドアが歪んだせいか、それとも瞬間的に溢れ出して空気を満たした殺意めいた気迫に怯えたのか、動きが止んだ。
途端、ぶわっとあたりの音が押し寄せてくる。
賑やかな街路の一角で、周りの馬車を止めての立ち回りであったらしい。人の騒ぎ声がして、視線が集まるのを感じる。
ヒースクリフは、注目されても辺りには一切注意を向けず、片手でヴィクトリアを支えながら、手首を戒める縄に指を引っ掛ける。ナイフを取り出して、素早く切り落とした。
ふ、と手首が楽になり、体のこわばりが少しだけとける。
ホッとしたのもつかの間、ヒースクリフはヴィクトリアの痛む頬にいたわるように手をあてると、冷えたアイスブルーの瞳を凍らせて、呟いた。
「間に合いませんでした」
あ、と。
ヴィクトリアは、彼の瞳の奥に人ならざるものの血が滾るのを見る。感覚が戻らないままの腕を伸ばし、ヒースクリフの体を両手で弱く抱きしめて、胸元に額を寄せた。
「間に合っていますよ。十分間に合っています。これで良いんです」
ヴィクトリアは怪我をしたが、命に関わるものではない。
それよりも、ラルフとナタリアで真剣に会話できたことが良かったと、考えている。
(わかりあえない二人でしたが……。わかりあえないと、納得することが私には必要でした。決別しなければ、私はずっと彼女の救い方を考えてしまったでしょうから)
どれほどその人間性を疑いながらも、一度は自分とかかわり合いになった相手だとの思いから、変わることを期待して、時には命すらも懸けてみようとしてしまう。
彼女には期待しないという言葉の裏には、それでも人間の可能性を信じたいラルフの思いがあって、ナタリアを本当の意味で切り捨てることはできなかった。
だが、もう迷わない。
「全部は手に入らないんです。私の手には、いま心から願った、ただひとつの大切なものがあります。それだけで良いんです、いまこのときを、なかったことにはしたくありません」
キャンセルは、必要ない。
その思いで、ヒースクリフの胸元で顔を上げる。
ふと、自分が額を押し当てていた場所が、べったりと血で汚れていることに気づいてしまった。さーっと、血の気がひく。
「す、すみません。私、汚してしまいました……!」
「洗えば良いだけです」
なんでもないように言われて、ヴィクトリアはドキドキとしながら「そ、そうですね、ありがとうございます」と言った。
「私の怪我はいずれ治りますし、汚れは洗えばいいだけなので。時間を戻す必要は、ないです。ナタリア嬢にも、罪は罪として償っていただきましょう」
真面目に言ったのに、ヒースクリフが、そっと視線を外して呟いた。
「洗うのは少しもったいないような気がしてきました。これはこれで」
「これはこれで、なんですか? 変な記念品をとっておこうとしないでください……!!」
「いえ、あの、血の跡というより、あなたに抱きつかれたぬくもりを」
それこそとっておけるものではないし、それをプレミアとしてとっておきたいという気持ちも、嬉しいというよりは若干の迷惑である。
ヴィクトリアは、表情が乏しく考えが読み取りにくいヒースクリフの顔をのぞきこみ、きっぱりと言った。
「私が、ずっとあなたのそばにいますよ。それでいいではありませんか」
かすかに、ヒースクリフの唇に笑みが浮かんだ。
あっという間にヴィクトリアを抱き上げて、顔をのぞきこんでくる。
「求婚の返事ということで、よろしいでしょうか?」
だからお前は、そういうところ前世と違いすぎるだろ!
頭の中でラルフが叫ぶかと思っていたが、その声は聞こえなかった。
(ラルフ……)
しんみりしそうになったが、何しろ状況が状況であり、ヒースクリフも待っている。
返事をしなければ。
その気持は本当だったが、忘れてはならないひとの名前が浮かんで、叫ばずにはいられなかった。
「まず、エドガー殿下です! 殿下はご無事ですか!?」




