第21話 やり直しても、変わらない
※痛い描写あり。
どん、と背中を押されて、ヴィクトリアは馬車の中に押し込まれた。
「お母様、お母様」
よろめきながらも、まずはぐったりとしたアマリエが心配で手を伸ばす。
アマリエは、うっすらと目を開けて「ヴィクトリア、だめ」と細く呟いた。
その次の瞬間、ヴィクトリアは後ろから続いた男にぐいっと床に押さえつけられて身動きを封じられ、ナタリアはアマリエを馬車の外に蹴落とした。
ざわっと背後で騒ぎが起きた気配があったが、バタンと扉が閉められて、何も聞こえなくなる。
馬車が動き出したのを、床から伝わる振動で感じた。
「迎えにきたわよ。この薄汚い泥棒の、毒蛇女」
顔を上げようとしたところで、力いっぱい頭を踏みつけられて、床に顔を打ち付けることになった。
「痛っ」
《ナタリア……!!》
ラルフが、ヴィクトリアの中で鋭い叫び声を上げる。
後ろから体重をかけて従僕にのしかかられていて、身動きがとれない。その状態で、ナタリアに念入りに頭を踏みつけられて、顔の骨が砕けるかという痛みを味わった。
(お母様が無事だと、良いのですけれど……!)
ガタン、と馬車が揺れる。
ブレナン伯爵家から、当然にして追跡を受けるのを見越した上で、スピードを最大限まで上げているのだろう。
車内での立ち回りは危険と判断したのか、ナタリアは座席に腰をおろした。
従僕に、ギチギチと後ろ手で手首をきつく縄で縛り上げられながら、ヴィクトリアはなんとか顔を上げてナタリアを見る。
視界が、目に流れ込んだ血で染まり、濁っていた。額が割れているのかもしれない。
ぼんやりとしか見えない視線の先で、ナタリアは足を組み、笑いながら声をかけてきた。
「あらぁ、良い顔になったじゃない。月の女神だとか、妖精令嬢だとか、あなたの噂は去年から聞こえていたわよ。どんな魔性かと思っていたけれど、血は赤いのね。ただの人間じゃない。それでどうやって、あの堅物男を三日足らずで落としたの? 後生だから教えてくださらない?」
「あの男とは……、ヒースクリフ、様……?」
ナタリアが動作で指示を出したのだろう、後ろの男に頭を押さえつけられて、床に叩きつけられる。
痛みよりも首がもげそうな衝撃に、息が止まりかけた。
「そうよ。名前で呼ぶなんて、嫌らしいわね。それがあなたの手管なの? ヒースクリフ様ぁってしなだれかかって胸を押し付けて。この狭い馬車で、はしたなくも体を許すくらいのことは、してあげたのかしら? そうでもしなければ、あの男はなびかないわよね」
やはり、前日に店で顔を合わせた件が決定的だったらしい。それがナタリアの激しい怒りを買い、下卑た憶測から殺意を固めさせるに至ったのだろうと、一応想像がついた。
あまりにも衝動的な殺傷力が強すぎて、にわかには信じがたかったが。
《一度デートしているのを見ただけで、相手を殺そうと思うのか……。前世で毎日ヒースクリフと行動を共にしていた僕のことは、距離が近すぎるって意味で絶対に許せなかっただろうな。むしろ結婚発表までよく我慢したよ……》
頭の中で、ラルフが頭を抱えている。さらに「前世のヒースクリフに女性と縁がなくて良かった、相手がいたら危ない目に遭わせるところだった」と呟いていた。
ナタリアは、ふん、と鼻を鳴らして高飛車な口ぶりで言い放った。
「私、初心なふりで男をたぶらかす女が一番嫌いなのよ。男女のことなんてわかりませぇんって顔をして次々男を誘い込んで、弄んでいるのでしょう? この一年で、あなたにフラれて傷心の男なんて、社交界に掃いて捨てるほどいるの。妖精の羽をもいで捕まえてきてあげるから、好きにしていいわよって声をかけたら、すぐに何人も集まったわ」
その言わんとすることの意味をヴィクトリアが思い浮かべようとしたところで、ラルフに止められた。
《ナタリアの魂胆はわかった。君は、怖いことは考えなくていい。ここから先は僕に任せて》
体の痛みがすうっと引いて、意識が途絶えそうになる。
ヴィクトリアはとっさに、自分を支配しようとしてくるラルフの気配に抗った。
(ラルフ、あなたに痛みを引き受けてもらおうとは思いません。その必要はないです。これは私の物語だって、そう言ったのはラルフです。大丈夫です、私はここで物語を降りたりはしません。自分で切り抜けます!)
手立ては、何も浮かんでいなかった。
打ち付けられた顔はじくじくと痛み、縛られた手首は感覚がない。男に乗られているせいで、足をばたつかせることすらできない。万事休すとはこのことだが、ヴィクトリアはまだ、この悪夢の中にあってもヒースクリフただひとりを心の底から信じることができる。
絶対に自分を守ってくれる彼を信じて、諦めないこと。
ナタリアの脅しに屈することなく、たとえ尊厳を傷つけられようとも、自分を見失わないことが、いまのヴィクトリアにできることだ。
「あなたは、最低最悪で卑劣な性悪だと思いますが、びっくりするくらい工夫が足りません。ですから、私の心まで傷つけることはできません」
顔を上げて、はきはきとした口調で、ヴィクトリアはそう言った。
「なんですって?」
この状況で、歯向かう態度を取るヴィクトリアに対し、ナタリアは驚いた様子で聞き返してくる。
視界は判然としないままであったが、ヴィクトリアはナタリアのいる方へと顔を向けて、さらに言い募った。
「いまの私が一番怖いのは、ヒースクリフ様にフラれたり裏切られたりすることです。私を完膚なきまでに叩き潰したいのであれば、ナタリア様がすべきことは、ヒースクリフ様をご自身の工夫と駆け引きでものにして、私を絶望に落とすことだと思います。でも、ナタリア様はそうしない。なぜか、私にはわかります」
「なぜ? あなた、何を言っているの?」
まったく理解できていない口ぶりで言われて、ヴィクトリアはここぞとばかりに答えた。
「ナタリア様は、ヒースクリフ様から愛される自信がないのです。自分が選ばれないとよくわかっているからこそ、自分以外を排除することしか思いつかないのでしょう。でも『選択肢を奪われた』ことにより、ヒースクリフ様がナタリア様の存在に改めて気づき、愛しく思うことはありません。なぜなら、どれだけ選択肢を潰しても、ナタリア様は最初から選択肢のひとつですら、ないからです。あなたのそのやり方では、この先たとえ同じ場面を何度やり直しても、絶対に好きなひとに振り向いてもらうことはできないのです!」
「殺してやるわ……!」
激昂したナタリアが、立ち上がってヴィクトリアの顎をつま先で蹴飛ばした。
そのまま踏みつけられるかと、さらなる痛みを覚悟したが、意外にも従僕が止めに入った。
「お嬢様、あまり顔を傷つけては。彼らに渡すまでは、最小限の損傷にとどめるべきかと」
ふん、とナタリアは不満そうに鼻を鳴らして、席に腰を下ろす。
「どうせ男たちに寄ってたかって、ぼろぼろのぐちゃぐちゃにされるのだから、どうだって良いじゃない。壊されてしまえばいいのよ。誰にも見向きもされない傷物令嬢として、二度と日の目を見られなくなればいい」
冷たく宣告をして、ナタリアは笑い声を響かせた。
「私があなたを、死ぬよりもつらい目に合わせようとしているのはね、あなたのことが嫌いだからよ。ヒースクリフ様が私を愛してくれないから、ではないわ。だって彼はもう、私と結婚することは決まっているのですもの。彼の気持ちなんか、後からどうにだってなるの」
「結婚が、決まっている……?」
口の中が、切れているのだろう。血の味が広がる。馴染のないその味を飲み込みながら、ヴィクトリアはかすれた声で尋ねた。
ナタリアは「ええ、そうよ」と余裕たっぷりに笑う。
「あなたごときが知ることではないのだけれど、そういう取り決めなのよ。彼は私と結婚する。ブルーイット侯爵家の者が、他国に足止めされているのは、国益を損なうことだから。公爵位を提示してでも取り戻すべきだと、これは王家の意向よ。あれは古い血筋だから、よそへ流出させるわけにはいかないんですって」
前世で王子の婚約者であったナタリアは、今生ではそのような役回りで、ヒースクリフの婚約者になることが内々に決まっているということなのだろう。
完全なる政略結婚、その駒だ。
《王子の婚約者として縛られることがなかった今生でも、結局のところ駒としての人生を受け入れたか。そればかりか、相変わらず公爵令嬢としてこれ以上ないほどわがまま放題をし、相手には服従を求め、自由を奪い自分だけを愛せと縛るつもりだと》
ラルフが、噛みしめるように言う。
(ヒースクリフ様の周りの、目障りな女性を排除するというのは、そういうことですよね。他の女性を見ることを、決して許さない。それはナタリア様が、愛されたいのに、愛され方がわからないから、間違えたことばかりしてしまうように見えます)
頭の中で、ラルフが、重い溜息を吐き出した。
《やはり、僕を自分の手で殺してから逆行したことで、ナタリアは以前よりもさらに大きく歪んでいるようだ。キャンセルしても、人を殺した経験が血のりのようにべったりと張り付いて、記憶の感知できない部分に残る。殺しへの葛藤が薄れるとか、倫理観が壊れるとか、そういう形で》
ラルフの感じている胸の痛みは、逆行への後悔だろうか。
(キャンセルしなければ……。ナタリアから、ラルフ殺しの罪を償わせる機会を奪うことなく、あの世界が続いていけば、こんなことには)
ナタリアを今のように歪めたのは、あのときの自分とヒースクリフの判断なのではないかと、ヴィクトリアもまた後悔を噛みしめた。
だが、ラルフはきっぱりとそれを否定する。
《殺したことを悔いたり、償いたいという気持ちが強ければ、人間はそういう方向に変われるはずだ。「次は絶対に、間違えない」と。ナタリアは、そうじゃなかった。殺しに味をしめ、手段として内在化して、いざとなればためらわずに使うものと理解した。きっかけがなんであれ、そちら側にいく人間といかない人間では、決定的な差があるんだよ》
――世の中の多くのひとは、どれだけ追い詰められたとしても、直接自分に危害を加えてきたでもない相手を、殺そうとは思わない。どこかで思いとどまるはずだ。あのときのナタリア嬢は、それができなかった。やってしまうひとと、やらないひとの間の溝は大きい
ラルフとエドガーは、ナタリアに対して「誰でもひとを殺し得る」「魔が差すことがある」との理解をしない点で、とても似ている。それは「自分の情緒的な決断にすら、多くの国民の命がかかっている」という王族としての心構えかもしれない。
《いずれにせよ、ナタリアをこのまま権力の座にとどまらせるわけにはいかない。ここで決着をつけよう》
すべての幕引きを、とラルフが頭の中で宣言する。
ヴィクトリアももちろんそれには賛成だ。
だが、肝心の方法がない。
「何が『俺の心を本当の意味で支配できるひとは、この世にただひとり』よ。そのただひとりが消えたら、彼がどういう顔をするか興味があるわね」
ナタリアは、機嫌を持ち直したように、高らかな笑い声を上げた。そして、ヴィクトリアへと目を向ける。
「さようなら、薄汚い泥棒女。あらいやだ、本当に汚れているわね。それだけぼろぼろなら、その体が処女かどうかなんてたいした問題ではないでしょう。いいわ、ここでお前がその女を犯してしまっていいわよ。私が『妖精令嬢』の心が死ぬところを、見届けてあげる」
残忍な言葉で従僕へと命令を下し、ナタリアは楽しげに笑った。
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