第20話 君は最初からずっと
「急な変更とのことだけど、昨日お出かけしていろいろ揃えていて良かったわね。ヴィクトリアに似合うものばかり。たくさんありすぎて、この中から選ぶのだけで一苦労ですけど! ブルーイット侯爵家といえば名家中の名家ですけど、さすが王子のお側仕えをなさっているだけあって、御子息の振る舞いも典雅で」
ヴィクトリアの部屋で、まだ手つかずになっていた箱も並べて、アマリエやメイドたちできゃあきゃあ賑やかに騒いでいる。
ドレスはすぐに決まった。当初考えていた自前のものではなく、店で合わせて選んだ、淡い青みのアフタヌーンドレス。
仕立て直しの必要もないくらい、しっくりと体に合う。髪飾りをはじめとした装飾品もすべて箱の中から選んで、身につけた。
(今日が最後の日になるかもしれないなら、後に残しておけないもの。着たいドレスを着て、自分を飾るわ)
どの箱を開けても青系のドレスや小物が多いことが明らかになり、アマリエもメイドたちも「あの方と連れ立ってお出かけするのに適したものばかり」と考えているのは、ヴィクトリアにもありありと感じられた。
お茶会の会場まではアマリエも世話役として同行することになっており、自分も横で綺麗に着飾りつつ、「ヴィクトリアにも、ついにこのときが……」と夢見がちに目を潤ませてうっとりと言っている。その視線の先には、ヴィクトリアのウェディングドレス姿の幻まですでに見えていそうだ。
ヴィクトリアとしては、なんとも複雑な心境である。
(実はすでに求婚までされていますが、あれは呪いです。呪いが解けたあとに、ヒースクリフ様がどうお考えになるのか、私にはわかりません)
呪いが解けたあと――ラルフの気配が完全に消えたとき。
《君はどうなの?》
不意に、ラルフに問いを突きつけられる。
(私?)
椅子に座って背筋を伸ばし、髪を結われていたヴィクトリアは目を瞬きながら心の中で聞き返す。
《この世界で、君とヒースクリフは出会った。僕がいなくなったからって、君はあいつを忘れられるのか? 何もなかったように、元の生活に戻ることができるとも? 戻るとして、なんのために? まさかそれが、ヒースクリフのためになると、本気で信じているのか》
だってあの方とのいまの関係は、ただのあなたの置き土産じゃない。
一瞬考えた。思考として流れたそれは、ラルフにも感じ取れたはずだ。
だが、ヴィクトリアが明確に反論として思い浮かべなかったことに免じて、聞き逃すことにしてくれたらしい。
改めて、ヴィクトリアはヒースクリフとの出会いを振り返る。
舞踏会で貴族の令息に襲われかけてあわやというところで、颯爽と現れて助けてくれた。その瞬間、彼が自分だけの約束された王子様のように見えてしまったのは、恋に焦がれる乙女心というもの。
翌日、デートに誘うべく屋敷まで来てくれて、その次の日は一緒に一日とても楽しく過ごした。どの場面も、思い出すだけで胸がいっぱいになる。
楽しくて嬉しくてきらきらとした幸福に包まれていて、これ以上素敵な日は、この先もうないかもしれないとすら思った。
ヒースクリフが横にいて、自分に微笑みかけてくれることが、たとえようもないほど幸せだと心から思った。
《わかった? 「ラルフが」とか「前世が」とか、自分に対しての言い訳はやめるんだ。素直になりなよ。君が言い訳を用意してしまうのは……》
わかっている。
出会った瞬間から惹かれていた。だけど、彼が本当に必要としているのは自分ではないと、恐れの気持ちがあった。
今以上に、引き返せないほど好きになってから、隣に立つ相手としてふさわしくないとフラれてしまったら、立ち直れない。
こんなに好きになるなら、初めから出会わなければ良かったと思ってしまうほどに、心を奪われている。
《ヴィクトリア。不幸なひとが、なぜ不幸なのかわかるか。目の前に幸せになれる道があっても、落差が怖くて選ばないからだ。幸せより、失ったときの絶望ばかりを考える。だから手を伸ばさない。「不幸には耐性があるから、自分でコントロールできる。幸せの味なんて知らないほうが良い」そうやって、全部のタイミングでやりすごすから、いつまでだって変われないんだよ。君はそれでいいのか?》
ラルフの声が「君は顔を上げて、前を向け」と命じてくる。
「お嬢様、とても素敵ですよ」
顔を上げて、前を向く。
結い上げたヴィクトリアの髪に髪飾りを差して、メイドが鏡で仕上がりを見せてくれた。
ヒースクリフと選んだ髪飾り。
鏡の中の自分と、目が合った。
「好き……」
気持ちが溢れて、口が勝手に本音を告げた。
ヴィクトリアは、誰かに何かを言われる前に、自分から慌ててまくしたてる。
「こ、この、この髪飾りが! 髪飾りのことですよ!?」
周囲で、準備や片付けでぱたぱたしていたメイドもアマリエも、しん、と静まり返る。
そして、なんとも言えないほんわかとした空気に包みこまれることになってしまった。
「ええ、ええ。わかっていますよ。大丈夫、あなたの気持ちはわかっています」
感極まった様子のアマリエに、笑みを浮かべて頷かれて、ヴィクトリアは穴があったら入りたいどころか、穴を掘って埋まりたい気分になる。
頭の中では、ラルフが腹を抱えて笑っている。
《鈍感すぎるんだよ、君は。ヒースクリフと出会ったのも、あいつを心から楽しませようとしたのも、恋の駆け引きをしたのも、全部君の意思だよ。認めてしまえば楽になれる。君は最初からずっとあいつのことを》
(好きって、言わせたいのね)
《君の物語に、僕は関係ない》
ラルフはヴィクトリアではなく、ヴィクトリアはラルフではない。
それでも、彼とは心の深い部分で地続きでつながっていて、自然と読み取れる思考がある。
(いいえ。関係ないなんて言わせないわ。そうやって、消える準備をしているみたいだけど、まだよラルフ。まだ消えるときではないわ。せめて、私が生き延びるのを見届けてからにして。私と、エドガー殿下が)
ラルフにも消えてほしくないとは、言えない。避けようもない「そのとき」が迫っているのは感じている。
準備を終えた頃、ひとりのメイドが「ブルーイット侯爵家の馬車が、お屋敷の外で待っています」と声をかけにきた。
「ヒースクリフ様御本人がお迎えに上がれないということで、会場までは侯爵家の馬車を使ってほしいとのことです」
「わかりました」
予定の変更があったせいだろう。ヴィクトリアは素直に受け止めて返事をしたが、ラルフが待ったをかけてきた。
《ヒースクリフが来ないのは、おかしい》
“なんで大切なお姫様を他の男に任せるかね。喰われるに決まってんだろ”
《書き換えでエドガーのあの言葉は消えているけど、ヒースクリフの心にはなんらかの影響を及ぼしている、と僕は思う。エドガーに対する、理由のわからない反発、とかさ。うまく言えないけど、昨日の今日で、ヒースクリフが君を「他人任せ」にするのは、なんだかしっくりこない。手紙のひとつもないなんて》
ラルフの言う通り、ブルーイット侯爵家の使いは手紙も持っておらず、すべて口頭での連絡だった。
(時間がなくて、書けなかった……ということは考えられませんか? 一昨日の件もありますし)
納得がいかない様子のラルフに対し、ヴィクトリアは自分の考えを告げる。
《……僕の考えすぎか?》
まだラルフは迷っている。
悩む時間はないと、ヴィクトリアはひとまず馬車まで向かい、直接ブルーイット侯爵家の従僕と話すことにした。
「日程の変更に伴い、会場に変更はありますか。馬車の行き先はどちらでしょう」
「『旧王宮』の催事ホールです。急なことで、招待状のご用意ができませんでした。ブレナン伯爵令嬢様は当初の参加者に含まれておいでではありませんでしたので、伯爵家の馬車では途中で止められるおそれがあります」
旧王宮か、とラルフが頭の中で呟き、その来歴を思い浮かべる。
王都の目抜き通りに位置しており、数百年前の景観をほぼそのまま維持して、周囲に立ち並ぶ建物からひときわ抜きん出て目立つ建築物だ。
新しい王宮が建設され王室関係の機能が移された際に、建物を継続して利用すべく役所や王立図書館といった、市民向けの主要な機能が新たに集められ、普段は一般向けに広く開放され利用されている。
小規模な茶会や夜会に使うに適したホールもそのまま残されており、そちらは多大な維持費がかかっていることから、普段から寄付を積んでいる王侯貴族階級のみ、申請すれば使用できる仕組みとなっていた。
《エドガーの王立図書館の訪問予定に合わせて、旧王宮で茶会を開催することにしたのなら、一応筋は通っているか……》
迷っている様子は気がかりであったが、従僕に「伯爵夫人はすでに乗車されておりますよ」と声をかけられる。
「お母様が?」
たしかに、細々とした準備をしているうちに、姿が見えなくなっていた。「時間が迫っている」と声をかけられ、先に乗ったのかもしれない。
(お母様が乗っているなら、あまり強くはねつけるのも、いけないのでは)
アマリエに対して理由もなく「降りてください」と主張したり、あらためて馬車を用意させたりという騒ぎを起こすもの気が引けた。
ヴィクトリアは、馬車にブルーイット侯爵家の紋があるのを確認してから「わかりました」と返事をする。
「お嬢様、お手を」
乗車を助けようとするかのように従僕が手を差し出してくるが、ヴィクトリアは目を合わせて「結構です」と言ってひとりで乗ろうとする。
その瞬間、ラルフが頭の中で叫んだ。
《罠だ! この男は見たことがある、ベンジャミン公爵家の従僕だ!》
引き返そうとしたヴィクトリアの前で、ドアが開く。
光の加減や角度で、後ろに控える者から見えにくい位置で、ぐったりとしたアマリエを抱きかかえ、その首筋にナイフを突き立てている人影が目に入ってきた。
「ごきげんよう。ヴィクトリア。お母様がお待ちよ。騒がずに乗って。私の手元が狂わないうちに」
楽しげな笑顔で誘いかけてきたのは、ナタリアであった。
呆然と立ち尽くしたヴィクトリアの背を、従僕が手荒な仕草で無造作に押した。
* * *




