第18話 ガラスの小瓶
「来なくて良いって、言ったのに」
夜会に参加しているエドガーの元へ、遅れて会場入りをしたヒースクリフが姿を表したとき、エドガーは苦笑を浮かべながら言った。
煌めくシャンデリアの下、演奏隊の奏でる優雅な調べが流れ、参加者たちは笑顔で談笑している。
昼間と同じ服装のままのヒースクリフは、軽く眉をひそめてエドガーに告げた。
「ヴィクトリア嬢を屋敷まで送り届けました後、時間ができました。お迎えだけのつもりで、中まで入るつもりはなかったのですが、エドガー殿下がお待ちだから会場までと声をかけられたんです。何かご用事でもあるのかと。待っていませんでしたか?」
エドガーの瞳に、面白がっているような光が閃く。
「待っていなかったね。それ、誰に言われたの?」
二人の視線がぶつかる。
目だけの会話をすばやく交わし、同時に会場の中心方向へと顔を向けた。
するりと、あるか無きかの風が吹き、酩酊を誘うような強い香が薫った。
「エドガー殿下、ヒースクリフ様! お会いできて嬉しいですわ!」
豪奢なドレスに身を包んだナタリアが、周囲の注目をひく音量で挨拶をしながら、近づいてきていた。
その動きに沿って、ひとがさっと道を作っていた。ナタリアは当然のこととして礼を言うでもなく、傲然と胸をそらして顔を上げ、満面の笑みを浮かべていた。
「良い夜ですね。ナタリア嬢」
ドレスも装飾品も本人も何一つ褒めず、鉄壁の笑顔でエドガーが挨拶を返す。ヒースクリフは、身分が上の二人の会話には入らぬとばかりに、気配を消し去っていた。
「お二人は、主賓です。もっと中心へいらしてください」
ナタリアが、しなを作って笑み崩れる。ぎりぎり下品にならない程度に品位を保っているのはさすが公爵令嬢といったところであるが、ヒースクリフからすると好感を持てる仕草ではない。毒々しい印象すら受けるのは、身にまとう香りの強さゆえか。
「いえ。晩餐会までは非公式の顔見せですから、このへんで」
今にも手を掴んで引いていくかのような強引さを、エドガーはさらりとかわす。ナタリアは「さようでございますか」と、エドガーに対しては空々しい笑みを向けてから、ヒースクリフへと向き直った。
「ヒースクリフ様。せっかく帰国なさっているのですから、昼日中からふらふらと遊び歩いていないで、もっとシルトンの社交界で顔つなぎをなさってはいかがですか? 私をダンスに誘ってくださいませ。皆さんへご紹介いたしますわ」
ヒースクリフは眉一つ動かさぬ無表情で「結構です」とそっけなく言い放つ。
ナタリアは、一切怯んだ表情もなく、蠱惑的に目を細めて唇をつり上げた。
「王家もベンジャミン公爵家も、あなたの帰国を歓迎しているのです。優秀な人材が他国に足止めされているのを、もったいなく思っているのですわ。あなたはシルトン人なのですから、この先の人生はシルトンのためにあるべきでしょう。その後押しをする準備はできています。この私を無下にしている場合ではなくてよ」
くす、とエドガーが笑い声をもらした。楽しげな笑顔であったが、明らかに「それは私の前で言うことかな?」と挑発する態度である。
ナタリアは怯むことなく、真っ赤に塗った唇を笑みの形にして「オールドカースルにも、素晴らしい人材はたくさんいらっしゃることでしょう」とエドガーに挑むように言ってから、ヒースクリフに笑いかける。
「二流貴族の娘に、目をかけている場合かしら。遊びなのでしょうけど、ご自分のなすべきことを思い出すべきではなくて? 意識が低くてがっかりよ。私が教えてあげることがたくさんあるみたい」
「遊びとは?」
冷気漂うヒースクリフの声。エドガーが、ゆったりとした調子で「やめなさい」と口を挟む。
面倒なことを言っているのはナタリアであるが、おいそれと人前で喧嘩をして良い相手ではないのだ。
しかし、ヒースクリフの表情はひどく固く、ナタリアを敵とみなしているのは明らかであった。エドガーは、小さく吐息し、仲裁を早々と諦めた。
ナタリアは肩をすくめて、「遊びは遊びよ」と、ヒースクリフの頑なな態度を嘲笑った。
「ヴィクトリア・ブレナンは舞踏会で男を引っ掛けて楽しんで、騒ぎになったら相手が悪いと言い張る遊び人でスネに傷だらけの傷物令嬢でしょう? あなたも殿下もすっかり騙されているみたいだけど、私、あの日の彼女の相手からきちんと裏を取っているんです。『とんだあばずれだ』ですって」
ふふふと含み笑いをし、ナタリアは軽やかに数歩進んでヒースクリフの胸元まで詰め寄ると、毒の囁きをもらした。
「お股がゆるゆるらしいわよ。どういう意味かしら、私にはよくわからないのだけど、この国の青年貴族の間ではずいぶん評判みたいね。月の女神や妖精のような見た目のくせに、清純さとは無縁で男を咥え込む貪欲さは娼婦のようだと。あなたは見た目に騙されているの? それとも、体からハマってしまったのかしら?」
声の届く範囲にいたエドガーが、すっと目を逸らした。聞くに絶えない下品な長広舌に、人目がなければ耳をふさいでやり過ごしたかった、と言わんばかりの苦い顔であった。
一方のヒースクリフは、まるで何も聞こえていないかのように、表情をぴくりとも動かしてはいなかった。
まさに、無風。
目すら合わせずに、遠くへと視線を投げている。ナタリアなど、この世に存在していないかのような態度であった。
「ヒースクリフ様は、耳がついていらっしゃらないのかしら。それとも、殿下の教育の賜物? 私に話しかけられたら、目を見て返事をする。そのくらいのこともできないなんて。嫌だわ、外に出せるようになるまで、檻に入れて調教しなければ。私が恥をかいてしまいますもの」
ゆっくりと、ヒースクリフは、ナタリアへと視線を向けた。
成り行きを見守るように、彼へと視線を向けていた者たちが、一様に身を震わせる。
周囲の温度を下げる、紛れもない冷気がヒースクリフの体から滲み出ていた。
「檻に入れても、首輪をはめても鞭で叩いても、あなたは俺の飼い主にはなれませんよ。俺の心を本当の意味で支配できるひとは、この世にただひとりしかいません。あなたではない」
「あら。面白い」
錯覚とは思えぬほどの冷気にあてられても、ナタリアは妖艶な笑みを浮かべて余裕のある態度を貫いた。
ちら、とエドガーへ視線を向ける。「ただひとり?」と言葉で繰り返した。はっきりとした回答を求める強さで。
目を細めたエドガーは、唇の端に冷ややかな笑みを浮かべた。
「私ではない。ヒースクリフは、シルトンからの客人であって、私との関係は疑似的な主従、友情で結ばれているというのが正確なところだ。熱情を向けられる関係になく、運命の相手はべつにいる」
ほほほほほ、とナタリアが高らかに笑い声を響かせた。
「まさか、汚れにまみれた傷物令嬢のヴィクトリア・ブレナンが、そのただひとりだと言うのではないでしょうね?」
ヒースクリフの瞳の光が、剣呑を極める。
「俺にとって、あの方以上の存在はいません。嘘の噂を声高に口にして、あの方の名誉を傷つけようとするのはおやめください」
「『あの方以上の存在はいない』ですって? まあ、硬派ぶっているのは見せかけなのね。軽薄ですこと! あなた、この国に来て、何日が過ぎましたか。まだほんの数日ではありませんか。あの女と出会って、一緒に出かけて、運命の相手だと確信するには、あまりにも時間が少なすぎます。騙されているのですわ。その思いは、長く続かない、一時的なものです」
成り行きを見守っていたエドガーは、顔をそらして声に出さずに呟いた。「いや、そこの二人は長いよかなり」と。誰も、その口元には注目をしていなかった。
ナタリアは羽つきの扇子を取り出して、ぱらりと顔の前で広げ、その陰で聞こえよがしに呟いた。
「そうねぇ、それとも、もしかしたらまだ手を出してはいないからこその執着かもしれませんわね。狩りも女も、手に入れるまでが楽しいのよね。一度でも抱き潰してしまえば、もう興味もなくなることでしょう。男なんてそんなもの。それなら、好きになされば良いんだわ」
開いた扇子の陰から、手品のようにガラスの小瓶を取り出して、ナタリアはヒースクリフへと差し出す。
「あなたが飲むのはだめよ。あの女に飲ませるのがいいでしょう。頭がバカになるほど楽しめると噂の媚薬よ。差し上げるから、どうぞ楽しんできて」
受け取るわけがない。
ナタリアは、それも織り込み済みとばかりに、無理矢理にヒースクリフの胸へと小瓶を押し付けた。
ヒースクリフは、眉一つ動かさずそれを手にして、瞬間的に床に叩きつけるそうな勢いで手首を振る。
しかし、さすがに荒々しすぎると考え直したのか、手を止めた。
不快さを隠しもせず、険しい表情で瓶を睨みつける。
「ナタリア嬢。さすがに、これ以上は見逃せないよ。良識ある公爵令嬢の振る舞いとは思えない。今日のところは諦めなさい。君の出る幕はここまでだ」
呼吸すら憚られるほど、空気が張り詰めた中に、エドガーの穏やかな声が響いた。
ふん、と微塵の反省も見られぬ態度で肩をそびやかし、扇子をぱちりと閉じて、ナタリアはエドガーを睨みつけつつ口を開く。
「ご忠告どうもありがとうございます、エドガー殿下。それでは失礼致しますわ。この続きは明日のお茶会で、と言いたいところですが。この分だと楽しい交流なんてできそうもありませんわね。全員、無駄足となりますでしょう。お茶会は、問題を片付けるまで中止にします。次はどこかの夜会か舞踏会か……」
ふふ、とナタリアは真っ赤な唇に笑みを浮かべて、続けた。
「晩餐会にて。次にお会いできるのを、楽しみにしていますわ」
言うだけ言うと、ナタリアは身を翻して場を後にした。その背を見送ることなく、エドガーは嘆息してヒースクリフへと声をかける。
「よく割るのを思いとどまったね。褒めてあげるよ」
ちらっとエドガーへ視線を流したヒースクリフは、陰々滅々たる声で答えた。
「帰ってから、割ります」
「なるほど。それじゃ、帰ろうか」
まだほとんど挨拶も済ませていなかったエドガーであったが、顔見せはしたから良いという判断らしい。早々とした王子の退席に主催が慌てても、騒動の相手が公爵令嬢のナタリアと知れば、機嫌を損ねたことに対して強く抗議もできないことだろう。
ヒースクリフも異を唱えることなく、エドガーと連れ立って会場を後にする。
帰りの馬車で、エドガーは向かい合って座ったヒースクリフに対し、何気ない口ぶりで声をかけた。
「ヒースクリフ。自分の胸に手をあててよーく考えてごらん。なんだか、今日は私に対して妙な反発を抱いていないかい?」
言われた通りに生真面目な仕草で胸に手をあてて、ヒースクリフは眉をひそめた。
「……ないとは言い切れないですね。なんでしょう。さっきの件とは無関係だと思いますが、そうでなければ噴水の広場でお会いしたときでしょうか。何かと言われても、何も思い当たらないです。何かしましたか?」
「なるほど。覚えていないのなら、きっとたいしたことではないに違いない」
笑い声を立てながら、エドガーは足を組む。その視線が、ヒースクリフが持て余して座面に置いていた小瓶へと向けられる。振動によって、転がり落ちそうになっていた。エドガーは、さりげない態度で手を差し出した。
それ、嫌なら私が預かってあげてもいいよ、と。




