第17話 書き換えと強制力
《下剋上だよ……ッ!》
その晩、屋敷の自室で薔薇を浮かべたバスタブに身を浸しながら、ヴィクトリアは頭の中でがんがん響くラルフの声を聞いていた。
ラルフは、いつの間にか急速に輪郭を得て、ヴィクトリアを差し置いてひとりで騒いでいるのである。
(状況的には、前世も私に下剋上……)
いまにも体ごと乗っ取られそうな勢いだ。ヴィクトリアはそっとため息をつく。一瞬だけ頭の中が静かになって、隙間ができた。そこで不意に「ラルフが言うところの下剋上」のほうを、鮮明に思い出してしまう。
――お慕いしています。今日の一日で、その思いを強くしました。お茶会だけではなく、晩餐会もあなたと出席したい。それから先のずっと続く時間を、シルトンでもオールドカースルでも、あなたの望む地で、あなたと生きたい
馬車を下りるまでの短い時間では、ヴィクトリアからヒースクリフへ「はい」とも「いいえ」とも、返事をすることはできなかった。
ヒースクリフは、ヴィクトリアの手を取って降車をエスコートしながら、耳元でダメ押しのようにさらに囁いてきたのだ。
初心なヴィクトリアを追い詰めるほどの、甘い声で。
――本当は、お帰ししたくないです。明日もお会いしたい。ずっとあなたのそばにいたい
ヴィクトリアは、乳白色に濁った湯から指を出して、自分の唇にそっと触れてみる。
途端、ラルフが頭の中で叫んだ。
《ヴィクトリアは花も恥じらう乙女だぞ、あいつら少しは遠慮しろよな! エドガーの行為がキャンセルされて、ヒースクリフに権限が移ったのは当然としても!》
聞き流しかけたヴィクトリアであるが、ラルフの言葉にふと不審感を抱く。
(エドガー殿下の行為が「キャンセル」されて、ヒースクリフ様へ「移った」?)
ヴィクトリアの脳裏に、ヒースクリフと視線がぶつかった瞬間、強く抱いた思いがひらめいて、蘇る。
“ヒースクリフ様には見られたくなかった”
“ヒースクリフ様だったら、良かったのに”
エドガーに仕掛けられた、前世から今生を通じても経験したことがない、まるで恋人との触れ合いのような行為。その相手は、エドガーではなくヒースクリフでなければならなかった。ヒースクリフ以外であっては、いけなかったのだ。
ヴィクトリアは、彼と目が合った瞬間、自然とそう考えていた。
馬車でヒースクリフに抱きすくめられたとき、衣服越しに彼の引き締まって筋肉質な胸板や力強い腕を感じた。耳に噛みつかれて、唇を奪われた。その激しさにより、記憶のすべてが塗りつぶされ「現実が書き換えられた」のをまざまざと感じた。
あとに残ったのは、思い浮かべるだけで、胸が締め付けられるように苦しい切なさだけだ。
まるで、ヒースクリフに本当に恋い焦がれているかのように。
衝立の向こうにメイド控えているので、ヴィクトリアはごく小さな声でラルフに尋ねてみた。
「もしかして……現実に起きたことを、なんらかの力で逆行してキャンセルしているとしても、完全に消し去ることはできず『強制力』が残る、ということがありえるのですか。つまり、無にするのではなく『書き換え』であり、類似の出来事は起きるのです」
ラルフは、さきほどまでの大騒ぎが嘘のように沈黙してしまった。
頭の中で響き渡っていた声が消えたので、今度は音声にせずに心で直に問いかける。
(ラルフ、聞いてください。私には、あなただったときの記憶があまりないのです。こうして人格が分かれてからは、より思い出しにくくなりました。私のいるこちら側の世界から、あなたの側の世界を知ることを、阻まれているような……。おそらくそれは、この世界が以前とは違って、いくつかの出来事があらかじめ書き換えられた後だからとの理由も、あるのではないですか)
エドガーの言葉が、耳の奥に蘇る。
――状況は少しずつ違いながらも、あのときといまは重なり合っている。
(これは私の考えですが、思い出せない記憶に関しては、この世界に「王子のラルフ」が存在せず「ヴィクトリア」が存在しているように「他に置き換わってしまった」事実があるために、いまの私には感知できなくなった事実もあるように思うんです)
考えるような沈黙の後、出し抜けにラルフがあっさりと認めた。気づいたか、と。
《そうだ、この世界では書き換えが発生している。僕が知る限り「ブルーイット侯爵家には特別ないわれがあり、王家の守護者」の役割があったように思う。だけど、君はそれを知らない。この世界ではおそらく、その事実そのものが存在していないんだろう。だからヒースクリフは、国内にとどまることなく、呑気にも隣国に行っていたわけで》
「え、どういうことですか!?」
驚きすぎて、大きな声で聞き返してしまった。
「お嬢様?」
衝立の向こうから声をかけられて、ヴィクトリアは失敗を悟る。
「すみません。居眠りしかけて、寝言が。疲れが出たみたいなので、今日はこのあとすぐに寝ます!」
「あら、いけませんね。溺れてしまいますよ。体をお拭きしますね」
「どうもありがとう」
こうしてはいられない、早くひとりになってラルフと話し合おうと、バスタブを抜け出た。
メイドの助けを借りて、肌を整え髪を梳かし、寝るための身支度をする。
ラルフと話したくてずっと気もそぞろであったが、メイドは好意的に解釈をしたようで「今日は素敵な御方の夢を見られることでしょうね」と笑顔で言ってきた。
ヒースクリフとの一日デートが、すでにどのように屋敷内に伝わっているかをあらためて思い知る。
ヴィクトリアが何かを言っても、さしあたり「ただの照れ隠し」としか受け止められかねないだろう。「そうですね」と笑って答えて、会話を終えた。
メイドが部屋を出てひとりになってから、ベッドに腰掛けて改めてラルフへと呼びかける。
「ブルーイット侯爵家が担っていた役割とはなんですか?」
《……………………》
返事がない。
「死んだふりをしても無駄ですよ」
《僕は死んでいる》
「会話はできるようなので、このまま聞きます。ブルーイット侯爵家の、特別ないわれとはなんですか?」
ふう、とラルフが肩をそびやかしたような気配があった。自分のことながら「もったいぶらなくても」とヴィクトリアは言いかけたが、余計な口を挟まず聞くことに徹する。
ラルフは、とても言いにくそうにぼそぼそと答えた。
《僕がいた世界ではね……。「先祖に王家と契約を交わした尊き精霊がいて、守るべき王家の者の危機に、力を発揮する」って聞いていたよ》
「あまり本気にはしていなかった口ぶりですね」
《時間の逆行を実際に体験するまではね……! だいたい、彼らの力にはきちんと鍵がかかっているって聞いていたんだ。対になる王家の者の、強い願いがなければ作動することはないって!》
言われた内容を真剣に考えてみて、確認のためにヴィクトリアはもう一度尋ねた。
「つまり、この大規模な逆行、及び『私』への生まれ直しは、あなたの願望ということですか?」
《そうだけど!?》
ヴィクトリアは、ラルフであったときのことを思い出そうとした。
どうして、自分はそんな願いを抱いたのか。
「晩餐会における死を回避するときに『死の原因』から遠ざかる書き換えを、絶対の守護者であるヒースクリフ様に私が望んだ……? ナタリア嬢と婚約を結ばないために、『年齢の釣り合う王子』という条件をキャンセルして、まったく別の存在、ヴィクトリア・ブレナンになるという書き換えを……」
書き換えの選択肢は無数に考えられるはずだが、もし逆行に関わる判断が瞬間的なものであれば「いくつもの中から検討して精査した最良の選択」などではなく「そのとき頭に浮かんだこと」が採用されるとしても不思議ではない。
ラルフは「王子にさえ生まれていなければ、ナタリアと縁ができなかったのに」と考えたのだろうか?
ヴィクトリアの思考は、声に出していない部分もしっかりラルフにも伝わっていた。
頭の中で、重苦しい沈黙の後、ラルフがぼそりと言った。
《そんな難しいことじゃなくてさ、死ぬときに、余計なことを考えた……もっと簡単なこと》
「なんですか?」
《……ヒースクリフ、迷いなく倒れた僕を抱えていたけど、体格差あまりないから、結構重くて辛いんじゃないかなって》
「物理的な理由ですか」
《そう。「もう少し華奢な女の子だったら良かったかな、でも僕が女の子だったら、ヒースクリフは絶対に離さないだろうな。それもいいかな。僕のせいで結婚遅らせていたくらいだから、いっそ僕が女の子だったら、僕がヒースクリフと結婚してあげるのに。ナタリアとの婚約もないだろうし」って。そこだけ見ればたしかに、ナタリアのことも一瞬考えたといえば考えた》
「……」
《……》
ヴィクトリアは、言葉もなく、ベッドに倒れ込んで顔を枕に伏せた。
そんな場合ではないと、がばっと顔を上げて、かろうじて声量には配慮しつつ叫ぶ。
「そのままじゃないですか! そのままの書き換えが発生してるじゃないですか! いまのこの状況、あなたが死ぬ間際に考えたことそのもの……!」
ヒースクリフの態度にまとわりついていた、違和感の正体を知る。
なぜ、ヴィクトリアに対してあれほど性急に距離を詰めてきて、即日のプロポーズまでしてしまったのか。
前回の自分が望み、ヒースクリフが書き換えてしまったのだ。二人の関係を。
約束された結婚相手として。
「あまりにも罪深いです、ラルフ。潔癖で高潔な彼らしくもなく、私に対して積極的に距離を詰めてきたのは、ただの強制力の結果じゃないですか!」
それを認めることは、ヴィクトリアにとって痛みを伴うものであったが、気づかなかったふりをした。
ラルフは、同意できないとばかりにすぐに言い返してくる。
《それはどうかな。あれはあれで素だと思う。僕にはわかるけど、あいつ多分前からああだよ。前回は守護者の使命のほうが強くて、女性に目が向かなかっただけ。本来なら、目当ての相手は逃すことなく、きっちり追い込んで自分のものにする男だと思う。そのへん、野生の獣並だよ。つまり野獣》
「やめてください。勘違いしたくないんです、好かれていたのは私じゃない。あなたでもないです! あなたの自分勝手な命令が、あの方を縛っているだけ! ただの呪いです!」
《呪い……?》
ひやりとした声で、ラルフが呟いた。
ヴィクトリアは、意識してそれを無視し、話題を変える。
「強制力の恐ろしさがよくわかったところで、問題があります。この世界には、王子のラルフはいませんが、伯爵家のヴィクトリアはいます。生まれも育ちも役割もまったく違いますが、ある重要な一日を前にして、ヒースクリフ様やエドガー殿下と出会い、前世と近しい距離まで急接近しています。ナタリア嬢とも」
――君はまだ『あの日』を越えていない
前世では命を落とすほどの一大事だった日を、まだ越えていない。書き換えても強制力によって「似た事象」が発生するとして、そのための舞台が整いつつあるのは確かだ。
今回は、ヒースクリフとの出会いや親密な外出をナタリアに目撃された件により、すでに殺意を抱かれていることは予想できる。警戒も、ある程度はできる。しかし、肝心の関係性が前回とは違うだけに、どういった接触から事件が始まるかがわからないのだ。
運命の日に、一日中屋敷に引きこもって誰とも会わなければ大丈夫! というわけにいかないのは、直感的にわかる。
「おそらく、私はナタリア嬢とどこかの時点で決着をつける必要があります。時間がありません。できる限り、彼女のことを思い出し、情報を集めましょう。打てる手は打ちましょう。ということで、今日は寝ます。おやすみなさい」
ラルフに発言権を与えず、ヴィクトリアは言うだけ言ってベッドにもぐりこむ。
だが、不安になってつい尋ねてしまった。
「明日、目が覚めたら、体ごとあなたに乗っ取られているということはありますか。この先もずっと……」
ふふ、とラルフが笑う。
《それは無いよ。僕は、書き換えられる前の世界の存在だ。日記帳に一度書き込んで、二重線で消した文字のようなもの。いまの君は、たまたま手に入れたその日記帳に目を凝らして、消された文字を読み取っているだけ。でも、君も知っての通り「僕の日記帳」は、もう少し先の日付で突然終わるんだ》
隣国オールドカースルの、エドガー王子を迎えた公式晩餐会。
前の世界において、ラルフが越えられなかったその日。
「その日を、私が越えたら……」
あなたは消えてしまうの? と聞きそうになり、ヴィクトリアは浮かんだ疑問を慌てて打ち消した。だが、隠せるものではない。
考えたことも不安もすべてラルフに伝わってしまっていて、冷静な調子で返される。
《僕のことより、君はまず自分の身の安全を考えなさい。僕が気になるのは、この世界のブルーイット侯爵家には王家の守護者たる明確ないわれが消えているらしいことだ。前の世界で、ヒースクリフが力を使い過ぎたせいじゃないかと考えている》
「どういうことですか?」
《そのままの意味だよ。もう二度と同じことはできない。つまり、守るべき相手が死に瀕しても、大掛かりな逆行で「死」を書き換えてキャンセルするのは不可能。これまでその血筋に備わっているとされてきた力をあの場で使い切ったことにより、伝承も遡って本当に「ただの不確かな伝承」として書き換えられ、薄められた。今回はもう「死」をなかったことにはできず、君は殺されたら、当たり前に死ぬ》
重いひとことであるが、ヴィクトリアはそれを、ラルフの考えすぎと否定することはできない。
今回はヴィクトリアが「王家の生まれではない」というのも、根拠のひとつであるように思われた。
前提が、崩れている。
本来であれば、ヴィクトリアはすでに「ブルーイット侯爵家が守護する相手」として、認識されない存在になっているのだ。
運命のいたずらで、結婚相手とはみなされているようだが。そしてそれが、今回のナタリアを大いに刺激してしまっているのだが。
「私との結婚はヒースクリフ様にとってただの呪いですので、いけません。ですが、このまま私が態度を決めかねて、何もしないでいれば、ヒースクリフ様は晩餐会の場で、ナタリア嬢との望まぬ結婚を受け入れさせられることになるかもしれないんですね。それも、いけません。私は、前回のあなたができなかった分まで、ヒースクリフ様を幸せにするんです!」
決意を固めるヴィクトリアの胸の中で、ラルフが力強く言う。
《その通りだ。よく言った、ヴィクトリア。その上で死が「怖い」という感覚も決して忘れないように。怖がって警戒する慎重さがなければ、物語の最後までは生き残れない。勇気と無謀を履き違えるな。ヒロインなら、生き残れよ。今回は、君の物語だ》
「はい。ありがとうございます。よく覚えておきます」
ヴィクトリアには考えることがまだまだ山積みで、精神は興奮状態にあったものの、人格二人分を稼働させていた分の疲労が蓄積されていたのか、すぐにうとうととし始めた。
やがて、ヴィクトリアの意識が闇に沈んで夢へと漕ぎ出してから、それまで黙っていたラルフが、気まぐれのようにぼそりと言った。
《なんだろう、まだ何かひっかかっているんだけど……。ヒースクリフのことじゃなくて。僕にはわかる、あいつの下剋上は、強制力とか書き換えとか、それで説明がつくものじゃないからな。今日のあいつの幸せそうな顔は本物だ。君はあいつの特別だよ、ヴィクトリア》
その言葉は、ヴィクトリアの記憶には、残らなかった。
《おやすみ。良い夢を。夢で会えたら良いね》
* * *




