第16話 練習ではなく?
ヒースクリフには、ラルフも知らない、もしくはヴィクトリアが思い出せていない何かがある。
それを尋ねる隙を窺い続けたものの、どう切り出せば良いかがわからない。
ラルフも、何か思う所があるのか、沈黙してしまった。
馬車で街を巡った後、ティールームでお茶を飲み、屋敷へ向かうべくもう一度乗り込んだ馬車の中で、ヴィクトリアは隣に腰掛けているヒースクリフへと目を向けた。
まるで、ひだまりでまどろむ猫を慈しむような目で、見つめられていた。
「どうしました?」
声の響きは、じんわりと優しい。耳にしただけで、頬に血が上るような、体が熱を帯びるような感覚がある。
(錯覚ではないですね……! とても近いですから! 近いどころか……!)
ヴィクトリアの手は、彼の大きな手に掴まったままなのだ。街歩きで手を繋いで以来、ほぼずっと手を繋ぎっぱなしなのである。
実は、立ち寄ったティールームではブリジットと一度合流していたものの、なぜかそこには友達の御婦人とお茶を済ませたばかりのアマリエもいて、一緒に帰ってしまっていた。ヒースクリフが「買い求めた品物の『第一弾』は、本日中にお屋敷の方へ届くようにしてあります」と挨拶の際に伝えたせいか「どうもありがとうございます。では、整理に人手が必要なので! メイドともどもお先に失礼します!」と。
ヴィクトリアには、ばちっと目配せをくれつつ。
そのときは手を繋いでいなかったが、入店のタイミングなど、知らぬ間に見られたおそれは十分にある。
手を繋いで見つめ合い、とても親しげな空気で、比喩や誇張ではなく「一山二山で数えられるほど」贈り物を送られたとあっては、結婚相手を探す娘の母親として、ピンとくるものがあっただろう。
こと「ヒースクリフに関して言えば誤解です」と、ヴィクトリアが弁解してもいますぐに理解してもらうのはまず無理だと、覚悟がついた。
(お母様には、折を見ていずれこれは「練習」でしたと言わなければなりません……。がっかりさせてしまうでしょうけれど、こればかりは仕方ないのです)
ヴィクトリアとて、ヒースクリフと自分がここまで親密な空気になるとは、予想もしていなかったのだ。
どの角度から見ても美しいヒースクリフからの、熱っぽい視線を感じるたびに喉が干上がるほど緊張する。こんなとき、自分は「王子のラルフ」ではなく、年頃の貴族の娘としてはごくごく平凡なヴィクトリアというひとりの人間だと自覚するのだ。
心の中で全方位に「これは練習なんです」と言い訳をしつつ、飽きもせず見つめてくるヒースクリフに向かって、意識してはきはきとした声で告げる。
「今日は、とても楽しい時間を、どうもありがとうございます!」
ヴィクトリアの手を握る手にきゅっと力を込めて、ヒースクリフはとても幸せそうに笑った。
「いままで生きてきて、これほど幸福な一日はありませんでした」
前世でも一度も見たことがないほど、満ち足りた表情であった。
見つめるだけで息が止まりそうなほど、優しい瞳。
(ラルフだったら、ここで引っかかることもなく「僕もだよ!」って言いますね。私だって嬉しいですし、ヒースクリフ様を幸せにできたと、ラルフと手を打ち合わせて、喜びたい気分です。でも……、私にはその資格がありません)
ヴィクトリアは、「自分」が、ヒースクリフを幸せにしたわけではないのを、知っている。ただ、ラルフの記憶というアドバンテージをうまく使い、ヒースクリフの好みを知っているふりをして、彼を喜ばせただけに過ぎないのだと。
それはずるくて、惨めで、気持ちを沈ませる事実だった。
そんなものに頼らず、自分は自分として彼と向き合いたかったと、悔しい思いがある。
前世など。
《そう? 僕は今日のデートに関して「僕」は関係ないと思うよ。だって今日、ヒースクリフと一緒にいて、彼と会話をして笑いあっていたのは僕じゃない、君なんだから。ヒースクリフが見ていたのは、ヴィクトリアただひとりだよ》
別人のようでいて、自分のせいか、ラルフは欲しいときに欲しい言葉をくれる。
しかし、それに甘えてはならないとヴィクトリアは心の耳を閉ざし、自分の考えるべきことに集中しようとした。
もうすぐ屋敷へついてしまう。ヒースクリフと二人きりで話せるいまこの時を、有効に使わなければならない。
(時間の逆行は、前世で命を落としたとき。そしてついさきほど、噴水の前でエドガー殿下がヒースクリフ様を挑発したときに起きました……)
考え違いでなければ、逆行のきっかけになっているのは「ラルフもしくはヴィクトリアの危機に、ヒースクリフが反応したとき」のように思えるのである。
ラルフも思い出せないのか、それとも言うつもりがないのか、その点に関して無言となりヒントをくれないので、ヴィクトリアはどうしたものかと考え続けている。
(さしあたり、どうにか明日も会う約束をできないものでしょうか。ブルーイット侯爵家の先祖や血統を、調べられる限り調べてみたいです)
さらに、できればエドガーとももう一度会いたい。その一番良い方法は、おのずと知れる。
ブルーイット侯爵家にお邪魔して、直接情報収集をすることだ。
頭の中に、言いたい言葉をざっと並べてみる。
「明日もお会いしたいです」「できればブルーイット侯爵邸で」「ご家族の方とお話をしたり、家系図について説明を受けたりしたいです」「図書室で家伝に関する資料を探させていただくのも良いですね」「エドガー殿下もご滞在中とのことですが、お時間があるようでしたら、ぜひお話しする機会があればと願っています。できれば二人で」
(……どれもすべて不適切に思えてきました)
シンプルに考えて、男性の家柄や家族に興味津々のご令嬢というのは、その先に結婚を考えていると言っているようなもの。
もともとは「練習」の関係だったはずが、ご家族面接からの「真剣勝負」へと、にわかに移行する恐れがある。さすがに、二の足を踏んでしまう。
考え事をしていたせいで、一瞬上の空になりかけていた。
「あなたを無事にお送りするのが、自分の役目とわかっているのですが。せっかく出会えたあなたと、また離れなければならないのが、苦しいです」
ヒースクリフに切なさの滲んだ声で話しかけられて、ヴィクトリアはハッと我に返り、心からの笑みを浮かべて答える。
「名残惜しいですね。素敵な一日でしたから。このまま終わらせ」
終わらせたくないです。できれば明日もお会いしたいです。
言い終える前に、もがっと口をふさがれた。ラルフによって。
《だめ。君は本当に、隙だらけだな、ヴィクトリア。ヒースクリフは「君の願い」を叶える男だ。君が願えば、時間の逆行さえ叶えるんだぞ?》
(私が願えば? どういうこと? ラルフ、いまのは)
追求すると、ラルフは黙ってしまう。
不自然に口をつぐんだヴィクトリアを前に、ヒースクリフは軽く小首を傾げる仕草をした。
「いま、なんと言おうとしましたか」
口調は優しいが、決して逃すまいとする強さで、問われる。
んぐぐ、とヴィクトリアは唇を噛み締めた。
必要があって、ヒースクリフとはまた会いたい。しかし、ラルフに忠告されてしまった。あまりにもストレートに願望を口にすれば、彼は「何がなんでもその願いを叶えようとする」のだと。
直接的にならないようにしつつ、どうにか今日をつつがなく終えた上で、また彼から誘ってもらえるように仕向けろということだろうか?
そのとき、不意に脳裏にひらめくものがあった。
(これは「恋の駆け引き」に一家言あるご令嬢方から教わった「男性との会話術」の出番では!?)
曰く。
こちらからあまりにも「好き」「会いたい」を匂わせてはいけない。
あくまで、相手に「会いたい」を言わせなければいけないのである。
その気持ちに火をつけるべく、別れ際はあっさりと。焦らすべきところは焦らし、安い女だと思わせないこと。
この理屈を念頭に会話することで「ヴィクトリアの願いを叶える」という形ではなく、ヒースクリフ自身の願望として「会いたい」を言わせて約束に結びつけるのだ。
これぞ貴族令嬢たるものの、恋の駆け引き!
恋? と思わなくもなかったが、ヴィクトリアは、ヒースクリフの煌く瞳を見て真剣に告げる。
「わがままを言って、あなたを困らせている場合ではないですね。一時帰国ともなれば、私と会う以外にもたくさんのご用事がありますでしょう。今日はお忙しい中、あなたのお時間をいただけたことを、幸せに思いますわ」
どうにか、ひといきで、言い切った。
若干不自然になった感は否めなかったが、かなりアドバイス通りのことが言えたはず。教えてくれた友達を思い浮かべて、大丈夫ですよね? と心で問いかける。
(「男性を追いかけてはいけない、追わせなければ」ですよね!)
友人はそう言っていたので、遺憾なく使わせて頂いた次第である。
果たして、真剣な表情で耳を傾けていたヒースクリフは、苦しげに目を細めて「はい」と低い声で答えた。
「今日は一日、エドガー殿下にお時間をいただいておりますが、明日は殿下と非公式の行事に参加の予定があります。次にお会いできるのは、お茶会の日ですね。必ずお迎えにあがりますので」
誘われず。
ヴィクトリアは、がっかりしていると思われないように、微笑んで頷くに留めた。
(お会いできない……! でも、大丈夫。いっそお茶会までに英気を養う機会だと思っておきましょう。なにせ、その日はナタリア嬢と対峙しなければなりませんから……!!)
お茶会の場に、ヴィクトリアがヒースクリフのパートナーとして出席すると知れば、ナタリアは確実に何かを仕掛けてくる。殺人レベルの何かを。
過去を気にかけるのも大切だが、今回はラルフではなくヴィクトリアとして彼女と向き合うのだ。そのための準備として、落ち着いてラルフの記憶を思い出す時間も必要なはず。
「あなたとはまた、今日のように時間を過ごすことができないものかと考えております。お茶会の後にまた、改めてお誘いします」
ヒースクリフは、会えない明日を残念に思っているのは本当だとばかりに、次の約束を口にしてきた。
これで、ひとまず十分なはず。
ヴィクトリアは明るい声で答えた。
「はい! 頂き物がたくさんありますからね。このドレスのように、仕立て直さなくてもすぐに着られるドレスもありましたので、どこかへ出かけるとあらば、早速身に着けて参りますね! 『練習』の意味でも」
店から着たままの白いドレスを示して、にこりと笑いかける。
ヒースクリフは、辛い思いに堪えるかのように、目を伏せた。
「あなたは今日を『練習』と言いますが、俺にはそのつもりはありません」
勘違いでなければ、ぐっと踏み込むようなことを言われた。
「『練習』ではなく……?」
顔を上げたヒースクリフは、物憂げに瞳を曇らせ、悩ましげな視線をヴィクトリアへと向けてくる。
(どういう反応でしょう?)
何か気に触ったのかと、ヴィクトリアが腰を浮かせて身を乗り出すようにしたとき、ガタン、と馬車が揺れて止まった。
いつの間にか、屋敷に着いていたらしい。
立ち上がりかけていたヴィクトリアは、ふらりとよろめく。その体は、ヒースクリフによって、あっという間に抱きすくめられてしまった。
耳に、痛みが走る。
(噛まれてます……!?)
今日二度目なんですけど!? と思う間もなく、エドガーに刻みつけられ、幻として消えた記憶は現実の痛みに上書きされる。
ヴィクトリアの儚い抵抗を抑え込み、しっかりと抱きしめたまま、ヒースクリフは唇を滑らせて頬にも口づけてきた。
「あ……っ、ヒースクリフ……んっ」
だめと言う前に、遠慮なく唇に唇を重ねられて、声も吐息もすべて奪われる。
すべてが、ヒースクリフによって、埋め尽くされていく。彼のことしか、考えられなくなるほどに。
息もつかせぬほど強引で甘い攻めは、ドアの外から「着きました」と声をかけられるまでの、ほんの短い時間のこと。
それでも、前世から今生の今の今までそういった経験をしたことがなかったヴィクトリアに、強烈な印象を残したのだった。
ふっと顔を離したヒースクリフと、言葉もなく見つめ合う。濡れた唇を、彼の瞳がとらえるのを感じて、ヴィクトリアは羞恥に頬を染めた。
「いま、お嬢様をお連れして、出ます」
ヒースクリフが、ヴィクトリアから目を逸らさぬまま、ドアの外へ答える。
何か言わねばと思いながら、声の出ないヴィクトリアの手を取り、目を伏せて手の甲へと口づけを落として、その角度から再び視線をぶつけてきた。瞳の輝きが、強い。
「お慕いしています。今日の一日で、その思いを強くしました。お茶会だけではなく、晩餐会もあなたと出席したい。それから先のずっと続く時間を、シルトンでもオールドカースルでも、あなたの望む地で、あなたと生きたい」
決定的なことを、言われている。
(恋の駆け引きが……効きすぎましたか!?)
同時に、頭の奥でラルフが叫んだ。
《ヒースクリフ、プロポーズの前にヴィクトリアに手を出しやがったな!? こんなのもう、下剋上だろ……ッ!! 自分が何をしているか、わかっているのか!!》
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