第15話 その瞳が映すもの
「それを聞かれて、君は答えられる? 記憶を持ったままやり直している理由は、私にもわからないよ。わかっているのは、私が死んだのはラルフより少し後だということ。だから、その分だけ先の記憶がある」
エドガーの声を聞きながら「あら?」とヴィクトリアは違和感に目を瞬く。
(この言葉は、前にも聞きました。前世……? いえ、もっと最近です)
きょとんとしているヴィクトリアの前で、エドガーが体を傾けてきた。
瞬間、ヴィクトリアの中に、耳に噛みつかれた痛みが幻とは思えないほど鮮明に蘇る。
このままではいけない、避けなければと直感的に悟り、ヴィクトリアはベンチの上で身を引いた。
「エドガー様。戻りましたよ。ご所望のエールです。馬車に積んであった銀器に注いでもらいました」
ヒースクリフの声が響く。
エドガーはヴィクトリアの正面で、にこっと笑みを浮かべてから、すばやく立ち上がった。
「ありがとう。毒見を兼ねて、ヒースクリフがいまここで一口飲んでみてよ」
「わかりました」
素直に、ヒースクリフは目を伏せて、手にしたゴブレットに口をつけた。味わうように、軽く唇を震わせる。
「どう、胸は苦しくない? お腹痛くなったりしない?」
「即効性の毒は、無いようです。無味無臭ならわかりませんが、味も変ではないです。銀器も反応していません。それ以上のことは、この場ではわかりません」
「了解。それなら、私はまだ死ぬ運命じゃないだろうから、今日のところは大丈夫だろう。この一杯をもらって、先に行くよ。今晩は夜会に招かれているから、そろそろ戻って着替えなくては。夜会には、今日もベンジャミン公爵令嬢がいるんだろうな。公式晩餐会前に、連日の『偶然の出会い』だ。本当に、狙いがわかりやすい」
その名前が出たことで、ヒースクリフがわずかに眉を寄せた。
「さきほど、そのご令嬢とお会いしました。馬車の停める位置が気に入らないと御者が恫喝されたとのこと。ヴィクトリア嬢は、グレン侯爵家の舞踏会の件について、良からぬ噂を流されているようです」
名前が出たことで、ヴィクトリアは慌てて立ち上がる。
(店を出禁にするとか、グレン侯爵邸の舞踏会ではわざと令息を誘ったとか、傷物令嬢だとか、散々言われました!)
エドガーとの会話では「前回のナタリアの話」に終始してしまったが、まさに現在進行形で問題が発生しているのだ。
ひとまずエドガーの前回の記憶を根拠として考えた場合、ナタリアはヒースクリフに惹かれる傾向がある、と考えられる。この世界でも出会ってしまっている以上、すでに並々ならぬ関心を抱いていると考えた方が良いだろう。
王家や公爵家から「彼を君の夫にどうだろう」などと言われていたら、即座に食いついて、その気になっているかもしれない。
そのヒースクリフが、自分ではなく、舞踏会で危機を救うという形で出会った別の娘に関心を示しているのは、絶対に許せないことのはずだ。
まして、早速二人でデートしている場面にばったり出くわしたとあっては、完全に敵認定されていることだろう。
「自分の思い通りにいかない相手のことは殺してしまう」ナタリアに、ヴィクトリアはこの時点ですでに、はっきり目をつけられてしまっているのである。
《エドガー、こっちの話のほうがいまは大切だった……!》
ラルフが、エドガーに言いたいことがあるとばかりに頭の奥から彼に呼びかけている。
気づくこともなく、エドガーはヒースクリフに笑顔を向けた。
「なるほどね。わがままなお嬢さんだ。ヒースクリフは、今日は休日なのだから、夜会には来なくても良い。公爵家のご令嬢のことは、私に任せて。あまり遅くならないうちに、そちらの妖精さんをお屋敷まで送り届けるんだよ」
愛想よく言い置き、エドガーはベンチに腰掛けたままのヴィクトリアに片目を瞑ってくる。
「ご令嬢の件は災難だったね。それとなく、探っておく。それじゃ、このあとも楽しんで。次に君と顔を合わせるのはお茶会かな、よろしく」
待ってください、とヴィクトリアが口にしようとした瞬間。
“なんで大切なお姫様を他の男に任せるかね。喰われるに決まってんだろ”
耳の奥で、聞いてもいないはずのエドガーの挑発的な声が現実の声に重なって聞こえた。
お辞儀すらできずに、ヴィクトリアは動きを止めてしまう。
(いまのは何? 取り消しされて、起きなかったもうひとつの現実? ヒースクリフ様とエドガー殿下の諍い? どこかの時点で時の流れが止まって――戻った)
今の時点でこの場で起こるかもしれなかった可能性のひとつが潰された。
「ヴィクトリア嬢、あなたもどうぞ。スッキリするミント水です。これは馬車に用意してあったものなので、毒見の必要もありません。まずはお掛けください」
立ち去るエドガーの背を見送ったヒースクリフが、声をかけてくる。
顔色を失っていたヴィクトリアであるが、反射的にぎこくちなく笑って頷き、ベンチに腰をおろした。頭の中は、ひどく混乱したままであった。ラルフの記憶を探ることもできない。
(今頃になって心臓がドキドキしてきて、胸がとても痛いです。本当に、一瞬でした。何が起きたのか、全然わかりませんでした。今のは何? 私がいるここはどこ?)
隣に腰掛けたヒースクリフが、きれいな銀のゴブレットに、水筒からミント水を注ぐ。その仕草をぼんやりと見つめて、ヴィクトリアは声をかけた。
「準備が良いんですね」
「もしものことも考えて、ですね。心配なら毒見しますよ」
アイスブルーの瞳が、労るように優しく微笑みかけてくる。ヴィクトリアの顔色が悪いことに、気づいているのだ。
先ほどヴィクトリアが見たはずの、凍えるような冷たさはそこにない。
異変らしきものも、何も感じられなかった。
(ヒースクリフ様には「潰されたもうひとつの現実」に関する記憶は、無いのでしょうか? 私は、覚えています。エドガー殿下に距離を詰められ、腕に抱き寄せられた幻の感触も)
思い出すと、背筋にぞくりと寒気が走る。
「ヴィクトリア嬢? どうなさいました? 公爵家のご令嬢のこと、やはり気にしておいででしたか」
黙っていられなくなった様子のヒースクリフに話を振られて、ヴィクトリアは無理矢理に笑みを浮かべて「いいえ」と返事をした。
ナタリアのことも気になるが、エドガーの異質さに圧倒されていた。
あのとき何が起きたのか、まだ頭の中で整理がつかないでいる。
(エドガー殿下のあの行為が、現実で起きた出来事であれば、許しがたく、警戒する気持ちはあるのですが……)
無かったこととして、すべて消えてしまった。
ヒースクリフは覚えていない様子である以上、確かめるべきはエドガーだ。彼の中で、さきほどの瞬間的な逆行がどう体験され記憶されているのか、非常に気にかかっている。
エドガーは、かつての記憶も持っているのだから。
――君はまだ『あの日』を越えていない。
何が起きたかわからないうちは、本来なら一番信用できるはずのヒースクリフと話すのも、慎重にならざるを得ない。
「エドガー殿下、お帰りになってしまいましたね。おひとりで、大丈夫でしょうか」
もっと話したかったとの未練がましい思いもから、ヴィクトリアはエドガーを気にしている素振りを見せてしまった。
ヒースクリフは、よく見ていなければわからないほどかすかに、顔を強張らせて答えた。
「今日は俺が休暇になっているので、護衛に関しては別の者がついています。飲み物を買い求める際、近場を確認しましたが、何人か顔見知りの従者がいました。殿下の身の安全に関しては、心配ありません。それとも何か、ヴィクトリア嬢は、殿下と話し足りないことでもありますか?」
聞かれたことに対して、変なごまかしは良くない。
ヴィクトリアは、嘘にならない範囲で答える。
「はい。さきほど、少し話が途中になってしまいまして……。できましたら、もう少しじっくり時間をかけて、二人で話し合いたかったなと、思いました」
今度は、見間違いでもなくはっきりと、ヒースクリフの表情がくもった。
(ん……!? どうしました!? あ、これはもしかして!! 私が、殿下に懸想していることを懸念していますか……!? どうしましょう、それは誤解です!)
ヴィクトリアはヒースクリフとの出会いで胸がいっぱいになっていたが、この世界でのエドガーとも、同じタイミングかつ「助けてもらった」等、ヒースクリフと共通点の多い出会いを果たしている。
その後「強引に縁談を勧められると困るから、助けるつもりでお茶会へ来てほしい」と、手紙だけではなく直に本人から誘われた。
夢見がちな令嬢が「王子様に見初められた」と勘違いしても仕方のないシチュエーションが、連続している。
ここに来て、街で偶然顔を合わせて、美味しく揚げパンを食べながら二人で話し込んだとあらば、「殿下は私に気があるのは間違いありません!」と思い込んでもおかしくない。
王子の護衛であるヒースクリフからすると「面倒なことになった」と受け取られても仕方ない状況だ。
誤解されたままではいられないと、ヴィクトリアは真面目な顔で告げた。
「ヒースクリフ様。私の言い方が大変不適切であったことを、謝罪いたします。勘違いしていただきたくないので、ここははっきり申し上げます。私は、少し親しく話しただけで、エドガー殿下との結婚を夢見ることはありません。警戒なさるのはわかりますが、分をわきまえております」
黙って耳を傾けていたヒースクリフは、ヴィクトリアが言い終えると、真剣な調子で尋ねてきた。
「わかりました。しかし、殿下が望んでいた場合はどうですか。つまり、あなたを愛しく思い、オールドカースルへ連れて帰りたいと考えていたら」
ありえないよ、僕とエドガーだよ? と、ヴィクトリアの中に存在するラルフの意識が、一笑に付す。
だが、シルトン貴族の娘として生まれ育ったヴィクトリアは、その問いかけをありえないこととして、簡単に跳ね除けることができなかった。
(もしエドガー様が本当にお望みで、正面から申し込まれた場合、断る手立てはないように思います。今のいままで、その可能性をまったく考えていませんでした。「ラルフ」ではなく「ヴィクトリア」なら、ありえるんですね。ベッドを共にすれば、いずれ世継ぎを生むことも、できるでしょうから)
ヴィクトリアは、ラルフのように王子身分で子どもの頃から婚約者が決まっているわけでもなく、家名を残すことを求められることもない気楽な立場である。
そこに、降って湧いたエドガーの名。
果たして、伴侶としてありえるのだろうか。
(エドガー殿下は、中身がラルフであると知っている私を、恋の相手として考えることはないでしょう。さきほどの行為に意味があるとすれば、最後のあの、挑発だけですね。ヒースクリフ様に対しての。あれが何かのメッセージに。誰に? 何の?)
返事に悩み、考え込んでしまう。
ヒースクリフに「ヴィクトリア嬢?」と名を呼ばれて、ヴィクトリアは長考に気づき、がばっと顔を上げた。
勢いのまま、答える。
「殿下には、ついていきません! そこに私の意志が介在することが可能なら、お断り申し上げます」
「どうしてですか。世継ぎの王子の正妃ですよ」
どうしても何も、エドガーは僕にとって友達だからだよ! と、心の中でまたもラルフが答えている。それをそのまま言えず、ヴィクトリアは口をつぐんだ。
(言えません……! 過去の記憶を共有していないヒースクリフ様に、ラルフの話をすることはできません……!)
視線を絡めたまま、ヒースクリフがもう一度「ヴィクトリア嬢」と、柔らかい声で呼びかけてきた。
「強引にその御心を暴こうとするかのような質問をして、申し訳ありませんでした。俺が焦りすぎました。この場では、これ以上は踏み込みません。まずは飲み物を飲んでください。落ち着いてから、馬車で少し街を周りませんか。久しぶりに、この国を見て、いろいろ思い出したいです」
「それは、とても良いですね! 私へのお気遣いも、ありがとうございます」
どうぞと渡されたゴブレットを受け取り、ミント水に口をつけて、ほっと一息つく。
ふと、晴れ渡った青空に、視線を向けた。
《エドガーめ! 本当に、なんてことをしてくれたんだ! 嫁入り前の処女なんだぞ、ヴィクトリアは!》
間隙を縫うように、ヴィクトリアの中にラルフの意識が鮮明に浮かび上がる。大変、怒っていた。気持ちは、わかる。
口を開けば、いまにもラルフが何か言い出しそうで、ヴィクトリアはごくごくとミント水を飲み、もくもくと残りの揚げパンを食べて、ヒースクリフから差し出された濡れハンカチで指を拭く。その間、やけにくっきりとした声でラルフが頭の中で騒ぎ続けていた。
(ラルフ、少し落ち着いてください。……いえ、ラルフは私?)
混乱しているときに「行きましょう」と声をかけられて、立ち上がる。
《落ち着けっていうけど、なんだろう、何かがひっかかって気持ち悪い。エドガーめ、中途半端なことをしてくれたな》
「心、ここにあらず」
不意に、耳元でヒースクリフに囁かれて、ヴィクトリアは「きゃっ」と悲鳴を上げた。立ち上がったところで、ラルフの騒ぎに意識を奪われていたことに、遅れて気づく。
体を折り曲げていたヒースクリフは、姿勢を正しながら笑いかけてきた。
「驚かせて、申し訳ありません。何度か呼んだのですが、ほとんど反応がありませんでした。はぐれないか不安なので、この後は馬車まで、手を繋いでも良いでしょうか」
「手……手を!? つなぐ!?」
「お許し頂けるなら、抱きかかえて運びたいのですが。どちらが良いです?」
突然の二択に悩み、抱きかかえられるよりはと、ヴィクトリアは手を差し出した。
「ぼんやりしていて、すみません。あなたの腕を掴ませていただいても、いまの私は、ふらふらとどこかへ行ってしまいそう。自分が信用できないので、手を貸してください」
ヒースクリフは、「喜んで」と答えて、壊れ物のようにそっとヴィクトリアの手を取る。ふわっと手を包まれて、握りしめられたときに、彼の労るような気持ちを直に肌で感じて、思った以上の安心感があった。
歩き出してからも、手を握る力加減や歩幅に至るまで、その優しさは変わらなかった。
ヴィクトリアは女性として気遣われているのをひしひしと感じ、ラルフがそれを自分なりに言葉にする。
《ヒースクリフもエドガーも……前世の僕の前では、こんな顔、全然見せなかったのに! エドガーなんて、手慣れていたし!?》
心の中で、ラルフが喚いていた。
たしかに、エドガーと二人きりになったあのとき「なぜか出来事がキャンセルされて時間が戻っていなかったら」唇まで奪われていたかもしれない。
もう何度目かの問いが、頭の中を巡る。
なぜ、あのとき、わずかとはいえ時が戻ったのだろう?
言葉もなく、ゆっくりと、隣を歩くヒースクリフの横顔を見上げた。
すぐに、気づいたヒースクリフが視線を向けてくる。
煌めく光を湛えたアイスブルーの瞳は、ひとならざる者のように美しく澄んで輝き、ヴィクトリアだけを映して微笑んでいた。
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