第14話 殺されるしかなかった、君のこと
「《『僕』のことが、わかるの!? エドガー、前の記憶があるんだ……!?》」
確信を持って「ラルフ」と呼ばれたことで、ヴィクトリアの中のラルフが強く反応した。
エドガーはにこにこと笑いながら「そうだねえ」と認める。そして、前のめりになったものの、何から話せば良いかわからず口をぱくぱくさせているヴィクトリアに対して、軽い口ぶりで尋ねてきた。
「前の君は、毒殺されたところで、記憶が終わっているんじゃないかな。日付は覚えているかい?」
「日付、ですか?」
自分が死んだ日。
記憶を取り戻したのがここ一両日のことで、それどころではなく、まだ深く考えてもいなかった。
(いつ? ナタリアから渡されたタルトに毒が仕込まれていたことは思い出した。倒れてヒースクリフに抱きとめられて……。あれはどこだ? 他に誰がいた?)
ラルフとともにそのときの出来事を思い浮かべようとしたところで、エドガーにさくっと答えを告げられる。
「十日後の、晩餐会だ」
耳にした瞬間、ぞわっとした寒気に襲われ、鳥肌がたった。
太陽が雲に隠れて日差しが陰ったのかと思ったが、そんなことはない。エドガーは明るい日差しの中で、変わらず微笑んでいる。
「すみません。いまの私は『ヴィクトリア』としての意識の方が強くて、以前のことをはっきり思い出せているわけではなく……具体的にその光景を、思い描くことができません」
ところどころ霧に包まれたように見えない部分があり、記憶のいくつかは欠落して連続しておらず、全容が見えにくい。
「うん。君を見た感じ、そうなのかと思っていた。私が君に伝えたいのは、さしあたりひとつだけだよ」
エドガーが、ヴィクトリアの耳元に顔を寄せてくる。
吐息が耳をかすめた。
「君はまだ『あの日』を越えていない」
パサパサパサっと音を立てて、群れをなした鳩が空へと飛び上がった。
少し顔を離して、エドガーが視線を合わせてくる。
あの日――
「状況は少しずつ違いながらも、あのときといまは重なり合っている。君がラルフだったときは、私がこの国に来た歓迎会だった。その場で、いよいよラルフとナタリア嬢の結婚について、正式発表がある予定だった。追い詰められて、後がなかったナタリア嬢は、君を殺した」
ああ、やっぱり殺されたんだ、と心の冷えた部分で実感した。
同時に、ほんの少しだけ「もっと違う可能性はないのか」という思いがあり、確認してしまう。
「ラルフを殺したのは、本当にナタリア嬢なんですよね?」
状況的に、ラルフはそう判断していた。ナタリアから渡されたタルトに毒が混入していたと。だが、冷静に考えれば、ナタリアがタルトを作ったわけではない。もしかして、他に黒幕がいるのではないだろうか?
ヴィクトリアの考えを見透かしたように、エドガーはきっぱりと言い切った。
「ナタリア嬢だ。間違いなく。なぜそう断言できるのかと言えば、私には、君にはない記憶がある。君の死後、あの場で何が起きたかを知っている。ナタリア嬢は罪を認め、理由を告白した。『どうしても、ラルフ殿下と結婚したくなかった』と」
「《僕はいったい何をして、そこまでナタリアに嫌われたのか……》」
それはそれで胸に刺さるものがあると、ラルフが呻きヴィクトリアは心臓を片手で押さえる。エドガーは肩をすくめて「より正確には」と切り出した。
「嫌われていたというより『邪魔だった』というべきなんだろう。さらに言えば『嫉妬』だ。ナタリア嬢には、婚約者であるラルフを殺そうとまで思い詰めるほど好きな相手がいた。君と結婚したら、相手と結ばれることは永遠にない。そもそも君がいる限り、相手は決して自分のことを見ない。主の妻と不義密通など、絶対にありえない男だからね」
「あっ」
思い当たる相手がいる。ヒースクリフだ。胸の中で、ラルフが頭を抱えている。
《前世の僕とヒースクリフは、主従であり無二の親友だった。あのときのヒースクリフは僕より大切にしているものがなかったし、自分の結婚に関しては後ろ向きで二の次三の次、完全に後回しにしていたから……》
ヒースクリフの言い分は、わかっていた。
主より先に結婚できないとか、主より大切なものは持てないとか。
ラルフの婚約者であるナタリアが、どれほどヒースクリフに思いを寄せても、応えることは絶対にない。
「すごく好きな相手がいるのに、そのひとの目の前で、自分は好きでもない婚約者と結婚しなければならない。結婚後も、好きな相手はずっと近くにいるから、忘れようとしても忘れることはできない……。しかもその好きな相手と一番仲が良いのは、自分の夫。ナタリア嬢が情念の深い方であれば、辛く、追い詰められた状況に感じるかもしれませんね……」
貴族女性に生まれ直した身として、ヴィクトリアなりにその気持ちを想像してみようとした。
エドガーは、ベンチの上で足を組み、ヴィクトリアに体ごと向き合うように体勢を変えつつ「それでも、ね」と言う。
「世の中の多くのひとは、どれだけ追い詰められたとしても、直接自分に危害を加えてきたでもない相手を、殺そうとは思わない。どこかで思いとどまるはずだ。あのときのナタリア嬢は、それができなかった。やってしまうひとと、やらないひとの間の溝は大きい」
「そう、かもしれませんが……。ラルフが、ひとの心の機微に鈍感過ぎたのも原因のひとつではないでしょうか。ナタリア嬢がヒースクリフのことを好きかもしれないと、気づいてはいたように思います。それでも、自分から身を引いて、婚約を解消しようなんて考えたこともありませんでした」
ナタリアに婚約者殺しまで決意させてしまった原因は、ラルフにもあるのではないだろうか。無関係なわけがない、とヴィクトリアとしては考えてしまう。それもまた、エドガーはきっちりと否定してくる。
「同じ王族身分として私の意見を言えば、ラルフの判断は当たり前だ。『婚約者は自分の護衛騎士に恋をしているようなので、婚約を解消して解放してあげようと思います』とはならないよ。百歩譲って、二人が相思相愛なら考慮の余地はあるけどね。どう? ヒースクリフは、主であるラルフ王子の結婚を邪魔してまで、ナタリア嬢と結ばれたいと考えていたと思うかい?」
「無い、ですね」
即答できた。
「だろ? 婚約解消しても、意味がないんだ。ナタリア嬢の願いを叶える形でラルフが身を引いたところで、ヒースクリフには思いがなく二人が結ばれないのであれば、事を荒立てただけで損しかない。ただ、私としては『ヒースクリフが、ナタリア嬢のことを好きだから』という場合に限って、ラルフが行動を起こした可能性はあると思っている。無二の親友の好きなひとと自分が結婚するわけにはいかないと、自分が泥をかぶるような騒ぎを起こしてでも、婚約破棄に持ち込んでいたかも」
「ラルフ最低……」
正直な気持ちが、口をついて出てしまう。
ヴィクトリアから見たラルフは、自分であって自分ではない人物だ。前回とは生まれ育ちも考え方も違うこともあり、心情的には寄り添えない部分もある。
「ナタリア嬢を追い詰めたラルフが、殺されても仕方ない、とは言いませんよ。残虐な暴君であったとか、過激な犯罪に手を染めたわけでもないのに『殺されても仕方ない』ひとなんて、いません。ですが、せめてラルフが、親友のヒースクリフではなく婚約者であるナタリア嬢を『自分の一番』にすると態度で示していれば、ナタリア嬢も納得したのではありませんか」
ヒースクリフは護衛騎士であり、親友だ。彼との絆の重要性はわかるが、伴侶でありともに国を背負って立つ正妃たるナタリアは、また別格の存在として扱うべきである。
その意味では、結婚に向けてラルフの誠意が足りなかったようにヴィクトリアには感じられた。
それすらも、エドガーは理性的な口調で否定する。
「ナタリア嬢の望みは、立派な正妃になることではなく、『女としてヒースクリフの一番』になることだ。ラルフがどうあっても、納得はしなかっただろう。ラルフもそれをわかった上で、結婚した暁には、ナタリア嬢との間に愛が無くても『世継ぎを産んでもらうための行為』そのものは避けなかったはずだ。王族の生まれというのは、そういうことだ」
エドガーの言わんとするところは、ヴィクトリアにもわかった。
顔色を失い、黙り込んでしまう。
頭の中では、どうあっても殺されるしかなかったラルフの一生について、考えていた。
(どこで間違えたのでしょう……? ナタリア嬢と婚約したこと? それは、政治なのでラルフの意思だけではどうにもならなかったはず。であるならば、ナタリア嬢の性質を見抜いた上で「自分の思い通りにならないことがあっても、ひとを殺すのはいけないことだ」と、どこかで腹を割って話し合うべきだったのでは……)
そこで、不意に気づいたことがあり、ひゅっと呼吸が止まった。
なぜエドガーとは、こんな会話が成立しているのか。
かくかくとした、不自然な動作で、ヴィクトリアはエドガーの方へと顔を向ける。
にこりと、まったく邪気のない様子で微笑みながら、エドガーはのんびりと話を続けた。
「ナタリア嬢は『思い通りにいかないことがあれば、ひとを殺す』人間だ。おそらくそれは、前回も今回も、変わらない。残念ながら、おそらく何度繰り返しても、彼女はそれを選ぶ」
ヴィクトリアは、意を決して、気になった箇所を口にする。
「前回も今回もと、殿下は言いました。なぜ殿下には、前回の記憶があるのですか」
噴水から噴き出た水が、空へと伸び上がった。
微笑んだまま、エドガーが口を開く。
「それを聞かれて、君は答えられる? 記憶を持ったままやり直している理由は、私にもわからないよ。わかっているのは、私が死んだのはラルフより少し後だということ。だから、その分だけ先の記憶がある」
エドガーは少しだけ体を傾けて、ヴィクトリアの耳元に唇を寄せてきた。
何か、声に出すのも憚られるほど決定的なことでも囁かれるのかと、ヴィクトリアは身を固くしつつ身構える。
「えっ?」
吐息が耳をかすめたと思ったところで、腕を肩にまわされて強く引き寄せられ、耳に思いがけないぬくもりと小さな痛みを感じた。
(これは、耳を甘噛みをされている!?)
抵抗する間もなく、唇は耳から頬へと伝う。やわらかなぬくもりが、おくれ毛越しに頬に押し付けられる。
「君、すごく甘いなって思ったけど、私が甘いものを食べた後なだけだった。唇を味わえばもっと甘いのかな。美味しそうな色艶しているよ」
ぱっと、ヴィクトリアが顔を向けると、エドガーは舌で軽く自分の唇を舐めてくすくすと笑いながら言ってきた。
ヴィクトリアは衝撃に目を見開きながら、噛まれたらしい耳を手で押さえる。
何か言わねばとは思うものの、なんと言って良いかわからぬまま、エドガーを見た。そのエドガーの視線が、流れた。
つられてそちらを見たヴィクトリアが、視界に捉えたもの。
それは、ベンチで待つ二人のために、両手に飲み物を持って戻ってきたヒースクリフの姿だった。
アイスブルーの瞳と、しっかり目が合った。
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