第12話 あなたは加減を知らないのですか
試着していた白いドレスを着たままだというのは、馬車に乗り込んで出発してから気づいた。
しかも、ヒースクリフをあの場から連れ出すのに一生懸命で周りを見ていなかったが、ブリジットまで店に置いてきてしまった。
ブリジットは、急いで出ていこうとする馬車に「自分も」と主張して、強引に一緒に乗り込むことはできなかったに違いない。
(私が、気がつかなければいけなかったのに……! どうしましょう! 焦りすぎました……!)
店では明らかに表情が固かったヒースクリフであったが、馬車に乗るときには手を貸してくれたし、ヴィクトリアに対して怒っている様子はひとまずない。
むしろ、馬車で二人きりになってからは、気遣う様子も見せてくれて、焦り顔をしているヴィクトリアにすぐに「どうしましたか」と聞いてくれた。
「ブリジットを、店に置き去りに。このドレスも。ナタリア様が退店された頃、お店に戻っても良いでしょうか」
言葉足らずな説明をするヴィクトリアに対し、ヒースクリフは実直そうな口ぶりで答えた。
「大丈夫です。あなたが本日お試しになった品は、すべて支払いをブルーイット侯爵家へ回すこと、届け先はブレナン伯爵家であることを、あらかじめ伝えてあります。メイドの女性に関しては、乗車を迷っておいででしたので、すぐにべつの馬車を向かわせると説明し、手配済です。この先で合流できるかと思います。あの場は、混乱を避けるため、こちらが速やかに立ち去るべき場面でした。馬車の待機場所で揉めていたのは、ベンジャミン公爵家の馬車で、こらちの言い分に対して、あまり納得している様子もありませんでしたから」
落ち着いた声で説明をされて、ヴィクトリアはほっと胸を撫で下ろし、背もたれに背を預ける。だが、聞き捨てならない内容があったと気づいて、再びがばっと身を起こして背筋を伸ばした。
「すべてって、全部? あのお店で見たもの、全部買ったんですか?」
「はい。最初から、そのつもりでした」
ヴィクトリアとて、貴族の生まれである。少額であれば、騒ぐことはない。だが、あの場で手に取ったものすべてと言われると、さすがに散財が過ぎるというのはわかる。
(貢ぐ男! 前世では気づきませんでしたが、ヒースクリフって、女性に対してこういう強引なところがあったんですね……! 普通のご令嬢でしたら、男性から両家公認でお誘いを受け、これだけ惜しみなくお金を使われた時点で「結婚前祝い」と誤解しますよ。そこでカップル成立です。「練習」なのですから、もう少し加減というものをわかってください)
対価という概念がある。いくら「練習」とはいえ、ここまでされてしまっては、もらって終わりではいられない。
王子であった前世なら、報いる方法はいくつか思いつくであろうが、いまのヴィクトリアには本当に何もないのだ。
「お茶会にたった一度、一緒に出席するだけでは、お返しできないと思うのです。そもそも、お茶会の参加は、舞踏会で助けて頂いた件に関して、私から感謝を形で示すものです。それなのに、必要以上のものを受け取るわけにはいきません」
真面目に申し立てをするヴィクトリアを、ヒースクリフは目を逸らさずに見ている。微動だにしないので、息をしているのか、本当に聞いているのか不安になるほどだ。
「あの……、私の言っていること、聞いていますか? ヒースクリフ様?」
名前を呼ぶと、ようやく瞬きをする。
片手で自分の目元を覆い、深く息を吐き出した。
「すみません。見惚れていました。少し怒った顔も、困った表情も全部新鮮で好ましくて、目が離せなくなりました。心臓が働きすぎたみたいで、まだ胸が痛いです」
何を言っているのか、ヴィクトリアにはわからない。
ヒースクリフには、胸が痛くなるような持病があっただろうか? とラルフの記憶を探ってみるも、答えは得られなかった。
(ラルフの記憶自体が、そこまで鮮明ではないですからね……。この世界にはラルフが存在していませんし、一時的に思い出したことも、そのうち全部忘れてしまうのかもしれません)
それでも、いまは記憶があることに感謝をして、ヒースクリフと過ごす時間を大切にしたい。
その一心で、目を見て一生懸命に告げる。
「私は、あなたと末永く気兼ねなくお付き合いできるよう、過度な貸し借りのない関係を築きたいのです。理由なく、贈り物を受け取るわけにはいきません」
「理由があれば良いのですか。では、シルトン国に滞在中、俺の観光にお付き合い頂くというのはいかがでしょう。何年も離れていたので、知らないことも多いのです」
そういうことなら! と受けようとして、ヴィクトリアは思いとどまる。
「ぜひお力になりたい気持ちはあるのですが、私はそれほど自由に出歩ける身ではなく、世間知らずな面があります。一緒にお出かけすることはできますけれど、案内は難しいかと」
新しくできた店や、流行について耳にすることはあるものの、自信満々に連れ回せるほど、詳しくはない。
(つまらない人間ですよね、私。前世はヒースクリフと何をして遊んでいましたっけ……。毎日が、とても楽しかったことは覚えています。あんな風に、彼を楽しませてあげたいのに)
ヒースクリフは、繊細な美貌に甘い笑みを浮かべ、軽く小首を傾げてヴィクトリアの瞳をのぞきこんできた。
「その気持ちを聞けただけで、十分です。俺はただ、あなたの側にいる口実を探しているだけなのです。一緒に時間を過ごして頂けるなら、それ以上の望みはありません」
言いながら、まるで無意識のようにヴィクトリアの手を取り、目を伏せて指や手の甲に唇を寄せて軽く口づけてくる。
柔らかな感触を受け止めるたびに、ヴィクトリアは体から力が抜けていくような気がした。熱があるかのようにぼうっとして、頬がじんわりと熱くなる。
(ヒースクリフは、こんな色っぽい顔もするんですね。よく知っているつもりだったのに、知らない面もたくさんあったみたいです。女性として、とても甘やかされているような……。ラルフには、こんなことはしませんでしたからね。これは、ヒースクリフが女性にだけ見せる「男」の顔ですか……)
されるがままのヴィクトリアに、ヒースクリフはすっと視線を流してきた。
「理性を、試されているようです。この美しい指に、噛みついてしまいたくなる」
「え……ええっ!? 噛むんですか?」
びっくりした勢いのまま、ヴィクトリアはしゅっと素早く手を引っ込めて背に隠した。ヒースクリフは、ははっ、と軽い笑い声を立てて足を組み、きつく腕を組む。自分を戒めるかのように。
「ものすごく美味しそうに見えたもので」
「冗談……。噛むだなんて、本当に、食べられるかと思いました。痛いのは苦手です」
からかわれたと知って、ヴィクトリアはやんわりと抗議をする。
「ごめんなさい。あなたは『痛いのは苦手』ですね、よく覚えておきます」
繰り返されると、妙に恥ずかしい。
(どうせ私は軟弱者です。もっと、体を鍛えておけば良かったですね。ラルフだった頃は、剣を習っていて、それなりに使えたはず。あの頃よりも、いまの私のほうが秀でていることは、何かあるでしょうか)
淑女の嗜みとして、楽器や刺繍は身に着けた。やってみると面白くて、腕前はかなりのものと、どの先生にも褒められた覚えはある。歌も、たくさん練習した。
本も読んだ。前世で学習したことをうっすらとでも覚えていれば良かったのだが、そんなにうまい話はなく、自分でいちからきちんと勉強したつもりだ。
そうして考えると、悲観するほどつまらない人間でもないのではないか、という気がしてくる。特別な力は無いが、当たり前に年齢を重ねてきただけのことはあるはず。ヒースクリフを喜ばせることも、考えれば何か思いつくはず。
ちらっと、馬車の窓から外へと目を向けた。
まさに、前世でヒースクリフと一緒によく買い食いをしていた、お気に入りの屋台が目に入った。「あっ」と声を上げて、ヴィクトリアは窓にかじりつく。
間違いない、あそこの揚げパンはラルフとヒースクリフの大好物!
「ヒースクリフ様、馬車を止められますか? 下りて、行きたい場所があるんです!」
ラルフには頼らないと思ったそばから、すぐに前世の記憶をなぞることになった。だが、こればかりは絶対に外せないと、ヴィクトリアの胸が高鳴る。
突然窓の外に反応したヴィクトリアを、ヒースクリフは心配するように注視していたようだが、即座に「わかりました」と答えた。
「あなたの行きたい場所には、俺も興味があります。行きましょう」
* * *




