カレーライスの消えた日
その日、世界からカレーライスが消えた。
レストランのメニューから、カレーライスが無くなった。
カレーライスだけでなく、カツカレーも、シーフードカレーも、キーマカレーも、カレーうどんも、カレー南蛮も。
カレーと名の付くメニューは全て消え去った。
スーパーに行ってもレトルトカレーもカレールーも置いていない。
それどころか、カレーパンも、カレーまんも、カレーコロッケも、カップ麺のカレー味も、カレー味の食べ物は何一つ見当たらない。
そして、消えたのは現物だけではなかった。
書籍の中からカレーが無くなった。
レシピ本からカレーライスの作り方が消え、小説でも漫画でもカレーライスを食する場面が無くなった。
映像作品も同様で、実写、アニメーションを問わずカラーライスの登場するシーンは別の食べ物に置き換わるかシーンそのものが無くなっていた。
ネットで検索しても何もヒットせず、まるでカレーライスなど最初から存在しなかったかのよう。
そんな異常事態にもかかわらず誰も騒がないのは、人々の記憶の中からもカレーライスが消えてしまったからだった。
たった一人を除いて。
「何故誰もカレーライスを憶えていないんだ! いや、むしろ、何故俺だけ憶えているんだ!!」
田中浩介、十八歳の夏の事だった。
カレーライスが無くなっても、世界は変わらずあり続ける。
世界が滅びるわけでもなし、他に食べるものが無いわけでもなし。
日常は恙なく回っている。
「だが、……二度と食べられないと思うと無性に食べたくなる!」
残念ながら、カレーライスの消失は地元ローカルな現象ではなかった。
日本中、世界中を調べて回ったわけではないが、遠出する度にレストランや食堂のメニューを見て回り、カレーライスが存在しないことを確認していた。
また、有名なカレー専門店がラーメン屋やらイタリアンやらアパレルショップやらに変わっていることもその目で確認した。
それに加えて、ネットで調べてもそれらしい料理が全く出てこないということは、カレーライスが世界のどこにもないと考えるべきだろう。
仮に世界のどこかに存在していたとしても、その情報すら見つけられない浩介がありつくことは不可能に近い。
浩介は別にカレー無しでは生きていけないと言うほどカレーライスが好きなわけではない。
しかし、いつでも食べられると思えば無理をしてでも食べようとは思わないが、金輪際食べられないと言われれば何とかして食べたい、そんな心理が働いていた。
「そうだ、ないのならば自分で作ればいい!」
浩介は料理が得意と言うほどではなかったが、簡単な家庭料理程度は作ることができる。
特に大学に進学してからは一人暮らしを始め、自炊の機会も多くなった。
「カレーライスなら作ったことくらいあるぞ。それほど難しい料理じゃない。」
家庭料理は凝ったことをすればどこまでも手間をかけられるが、手を抜こうと思えばいくらでも手を抜けるもの。
浩介は昔作ったカレーの手順を思い出していた。
一、野菜と肉を適当な大きさに切り、炒める。
二、水を加えて煮る。沸騰したらあくを取る。
三、カレールーを入れて煮込む。
「だぁー! 駄目じゃん。カレールー売ってないよ!」
いきなり挫折した。
この時はそれで終わったが、その後も繰り返し繰り返し、思い出したようにカレーライスが食べたくなるのだった。
そんなある日のこと。
「カレー粉を作ればいいんだ。」
カレーライスが世界から消えても、スパイスまでは消えていない。今の日本では世界中のスパイスを取り寄せることができた。
浩介にも、カレー粉が様々なスパイスを混ぜ合わせてできていることくらいは知っていた。
逆に言えば、その程度しか知らなかった。
その程度の知識で、どうやってカレー粉やカレーライスを再現しようというのか?
「とりあえず、適当に混ぜてみるか。」
さあ始まりました、浩介のチャレンジカレークッキング!
今日は最初なので、オーソドックスなカレーライス……みたいなものができればいいと思ってます!
まずは野菜。
玉ねぎ、にんじん、じゃがいもがあるのでこれらを使いましょう。
次に肉。
豚こま肉を買って来たのでこれを使います。
それでは調理を開始しましょう。
玉ねぎは皮をむいて半分に切り、芯を取って薄切りにします。
にんじんはピーラーで皮をむいて、一口サイズに乱切りにします。
ジャガイモも皮をむいて、にんじんと同じくらいのサイズに切ります。
鍋に油を入れて加熱し、カットした野菜と肉をまとめて投入!
肉に焼き目がついて玉ねぎがしんなりするまで炒めます。
炒め終わったら、水を入れて煮ます。
沸騰したらあくを取り、15分~20分煮込みます。
にんじんやじゃがいもが柔らかくなったらいったん火を止め、さてここからが問題です。
カレー粉の代わりにどんな香辛料を入れればよいのか分かりません。
そこで片端から入れてみることにしました。
「まず塩コショウは基本だよな。……塩って香辛料だっけ?」
塩少々とコショウを多めに突っ込みます。
「次は、とにかく辛そうな香辛料だよな。お、トウガラシがあるじゃないか、七味だけど。」
七味唐辛子をドバドバと投入。
「それから、からしだな。色も似ているし。ねりからしだけど溶かせば一緒だろう。ついでにワサビとショウガもあるから入れよう。」
チューブ系三種混合入りま~す。
「お、ラー油もある。これも入れよう。」
中華要素、入りました。
「えーと、後は、醤油とソースとケチャップとマヨネーズも入れておくか。」
さらに調味料が追加されました。
後はてきとうに煮詰めて、完成! ……たぶん。
「それでは実食……って、なんか思ったのと違う。」
出来上がった現物を見て、料理中のハイテンションが一気に醒めた。
どこからどう見てもカレーライスには見えない。
ルーはとろみが無くて水っぽく、色も醤油のがうっすらと付いている程度で黄色くはない。香ばしいカレーの香りもしてない。
カレーとしてまともに作っていないのだから当然なのだが、不安を誘う外見だった。
「ま、まあ、最初から上手くいくとは思っていなかったし。肝心の味は……不味い。」
不味かった。
とんでもなく不味かった。
それも当然だろう。
手近にあった調味料をハイテンションなノリで適当にぶち込んだだけなのである。
まともに分量も考えず、途中で味見すらしていないのだから、これで美味くできたらそれは奇跡だ。
そもそも、カレー粉に使用されるスパイスは数十種類に及ぶ。
辛み成分にはカイエンペッパー(トウガラシ)、コショウ、ニンニク、ショウガなど。
黄色い色にはターメリック(ウコン)、サフラン、パプリカなど
味や香りにはクミン、コリアンダー、シナモン、カルダモン、ナツメグ、フェンネルなど。
それらを焙煎し、粉末にして混ぜ合わせたものがカレー粉だ。
さらに固形のカレールーには塩分と出汁の旨味成分も加えてあるから簡単に美味しいカレーの味を出せるのである。
カレーの味を再現しようというには、足りない物が多すぎた。
こうして、最初のチャレンジは大失敗に終わった。
カレー粉を作ろうともしていなかったことに気付くのはさらに後のことになる。
※失敗作の不味いスープは、浩介が責任をもって全部食べました。
最初の挑戦は失敗に終わったが、浩介は諦めなかった。
たまに思い出したようにカレーライスを食べたくなり、どうにか再現できないかと頭をひねるのだ。
ただし、その頻度はあまり多くない。
大学を卒業した浩介はそこそこ給料の良い会社に就職していて趣味にかけるお金の余裕は多少あるが、平日は仕事が忙しい。
休日に新しい食材やら調味料やら香辛料やらを見つけて試す程度で、のめり込んで没頭する趣味には至っていなかった。
それでも何度か失敗を重ねていれば思い付くこともある。
「そうだ、インドにはカレーライスの元になった料理があるはずだ!」
そう、カレーライスそのものは無くても、その原型となった料理は存在していても不思議はない。
思い立った浩介は、さっそくインドへ……行けるほどの行動力も無ければ、国際人でもなかった。
そもそも、週末に一泊二日で行ってこれるほどインドは近くない。
夏休みにパックツアーで観光名所を巡っても目的を達するとは思えない。
さりとて単身インドに乗り込んで、インド人と仲良くなってインド料理を教えてもらえるほどの行動力もコミュニケーション能力も持ち合わせていない。
だから、代わりに行ったことが、ネットで検索である。
カレーライスは見つからなくても、ただのインド料理ならば見つかるだろう。
そう考えて調べ始めたのだが……
「思ったような料理が全然ヒットしない。」
呆然とする浩介だったが、これはある意味当然の結果である。
そもそも、インドの伝統的な料理の中に、「カレー」とか「カリー」とか呼ばれるものは存在しない。
あったならば、カレーライスを調べているときに浩介も見つけていただろう。
カレーライスの、直接元になったインド料理は存在しない。
ただ、インド料理には複数の香辛料を組み合わせて使用するものが多い。
その組み合わせは膨大で、家庭毎に異なる組み合わせがあると云われている。言うなればその家の味である。
かつてインドを植民地支配したイギリスは、パーティーなどでインド料理を振舞う際に調理の手間を省くために複数の香辛料を予め混ぜ合わせたミックススパイスが開発された。
そのミックススパイスをカレーパウダーと称して発売したところ好評を博してイギリスの料理にカレー粉が使われるようになる。
その後、カレーパウダーを使用したシチューにつけ付け合わせとしてライスを添えた料理がイギリスから日本に紹介され、そこから日本人の好みに合わせたカレーライスが作られて行くのである。
しかし、カレーライスの消滅した後のこの世界では、カレーパウダーが誕生した歴史そのものが消えていた。
残るのは、カレーライスとは関係の無い、スパイスをふんだんに使った料理の数々である。
しかも、全然異なる料理に似たような、けれども人によって配合の異なる香辛料が使われているのである。
どれを参考にすればよいのか、非常に判断に困るのだ。
途方に暮れた浩介だったが、一つ気が付いたことがあった。
「香辛料ってこんなにたくさんの種類があるんだ。」
香辛料の種類は多い。
その組み合わせは膨大だ。
考えなしにスパイスをぶち込むだけで背正解を引き当てる可能性は限りなく低いのだ。
しかし、浩介はもう一つ気が付いた。
「この香辛料、日本でも手に入るみたいだな。」
そう、家庭料理ではあまりなじみの無い香辛料でも、その気になれば意外と手に入るのだ。
カレー粉以外のスパイスは変わらず売られていた。
「カレーじゃないけど、このインド料理なら俺でも作れそう。」
浩介は、カレーライス以外のスパイス料理も作ってみることにした。
家庭料理とは、特別な専門家ではなく、一般の家庭で作られる料理である。
だから、必要な食材、調味料、調理器具、そしてレシピが揃っていれば誰でも作ることができるものだ。
もちろん美味しく作るには多少の技術とレシピで省かれる部分の知識も必要だが、それらは極端に難易度の高いものではない。
幸い、浩介は必要な食材もスパイスもすべて手に入れることができた。
レシピは調べたし、自炊経験から最低限の知識と技術も持っていた。
結果、簡単な料理から始めたということもあって、いきなり成功した。
そして、調子に乗った。
インド料理に限らず、レシピを見つけた世界各国のスパイス料理を作ってみたり、アレンジを加えてみたりもした。
家庭料理のレシピは作り方の一例に過ぎない。スパイスの分量を多少買えたり、別の香辛料で置き換えたりしてもいきなり食べられないほど不味くなることは滅多にない。
もちろん、失敗することもあった。
「この前やったアレンジは結構美味かったから、あれを元にもう少しいじってみよう。……ああ、分量忘れた!!」
様々なスパイス料理を作り、アレンジを繰り返しているうちに憶えきれなくなった浩介は、この時から自分の行ったアレンジをノートに記録するようになった。
最終的にはカレーライスを作る夢を諦めていないので、一度成功したカレーライスが二度と作れなくなるのではないかと危機感を覚えたのである。
これが、のちの世に『スパイス料理のバイブル』と呼ばれることになる『山田ノート』の始まりであった。
その後も浩介はスパイス料理を作り続けた。
香辛料の奥深さにすっかりはまっていた。
使用するスパイスの種類と分量の組み合わせは無限に存在する。
最初はレシピの分量を少し変えたり、一部のスパイスを別なものに変えたりする程度だったが、やがて自分の好みの配合を探すようになった。
そして、自分の好みの調合を行ったミックススパイスの作成、つまりカレー粉の作成に着手した。
最初は手探りでおっおなびっくり行っていた調合も、次第に慣れていった。
スパイス料理も数を作れば、どんなスパイスをどの程度入れれば味や香りにどう影響するか、ある程度は予想もできるようになる。
あくまで仕事の合間に行うアマチュアの料理探求である。その歩みは遅々としたものだ。
だが、着実に前進していた。
自作のミックススパイスに配合される香辛料は次第にその数を増やして行き、分量を少しずつ変えた様々なバリエーションが試された。
そうして、月日は流れて行った。
「よし、これで完璧だ!」
浩介は完成した料理を口にして満足そうに頷いた。
カレーライスと呼べる料理はずいぶん前に作り出していたのだが、そこで満足せずに自分の好みに合う究極の逸品を研究し続けていたのだ。
カレーライスが消滅してから五十年。
浩介の半生をかけた集大成がそこにあった。
完成した料理には満足した浩介だったが、まだ一つだけ不満が残っていた。
様々なスパイス料理に挑戦し、極めていった浩介は、アマチュアながらもスパイス料理の第一人者と目されるようになった。
かつては人の作ったレシピを見ながら料理を作っていた浩介が、今度は自分がレシピを発信する側に回っていた。
やがてカレー粉に近いミックススパイスの試作品が完成すると、ミックススパイスとそれを使用した簡単な料理のレシピも公開した。
それがとある食品メーカーの目に留まり、商品化が打診された。
浩介はその食品メーカーと協力して改良を重ね、カレー粉と呼んで差し支えない配合を見つけることに成功した。
完成したミックススパイスは大々的に発売され、同時に浩介はそのスパイスを使用した料理――カレーライスのレシピを公開した。
発売されたミックススパイスは日本のみならず世界中で評判となり、普及して行った。
浩介の公表したレシピも広く知られ、さらに改良を加えたり応用した料理が作られて行った。
カレーライスの消えた世界で、一人の男の執念が実を結び、ついにカレーライスが復活したのである。
ただし――
「何だよ、『ヤマダライス』って!」
この世界では、カレーライスは失われたのではなく最初から存在しなかったものとして認識されていた。
浩介はカレーライスを復活させたつもりだったが、他の人にとっては全く新しい料理や香辛料を一から作ったことになるのだ。
その試行錯誤の過程は、浩介がしばしば公開していたレシピにも現れており、そのことに疑いを持つ者はいなかった。
そこで、開発者である山田浩介の名を取って、ミックススパイスには「山田粉」あるいは「ヤマダパウダー」、料理の方は「山田飯」あるいは「ヤマダライス」という呼称がすっかり定着してしまっていた。
気が付いた時には本人が何と言おうと覆せないほどに。
「これはカレーライスなんだってば―!!」
一人の男の執念によってカレーライスは復活した。ただし、「カレーライス」という名前だけは復活しなかった。
副題:なぜ俺のカレーライスを誰も覚えていないのか?
物語の舞台設定として特異な環境を考える場合、何かが存在していない、あるいは失った世界と言うものを想定することがあります。
地下に閉じ込められた、空の無い世界。
地上の大部分が砂漠と化した、海の無い世界。
逆に陸地の大部分が水没した、大地を失った世界。
そうした世界の在り方が変わるような何かではなく、もっとささやかで、失われたとしても世界は大きくは変わりようがない。
そんな何かが無くなった世界を考えてみようと思い立ちました。
そこで思い付いたのが「カレーライス」の無い世界でした。
カレーライスが無くても生きてはいけます。
見た目的にもほとんど変わらない世界でしょう。
ただ、知っている人にとってはちょっとだけ物足りない、そんな世界です。
明示的に存在していないことを示さないと分からないささやかな違いなので、あえて「カレーライス」を憶えている人物を登場させて主人公にしました。